去人たちを作れなくなったうつ病プログラマーの地方生活日記

創作に絶望すると、世界が反転した日記

6月23日(火)

肌寒くてなんどか目覚める。薄いタオルケットにくるまって繭になる。それでも限界になって起き上がる。八時。身体は少しだけだるい。前日の酒量を抑えたのもあるかもしれない。自分の体内に蓄積されている勇気だけで身を起こせそうだ。歯を食いしばる。握りこぶしを作る。起き上がる閾値を超えるまでに数分の時間がかかる。トイレで排尿して開けていた扉を閉める。曇り空で風が強い。座椅子に腰掛けて外を眺める。ネット配信のニュースを垂れ流して世界との同期をする。同期をすることでオレは自己愛的ないかれた世界から社会的生物へ墜ちる。けっこうなことだ。明日から仕事だ。
食欲がない。コーヒーを淹れて一口飲む。つまらないニュースばかり。新型コロナウイルスの対策についての過去の検証は行われず、今後のミッションやビジョンも提示される日常生活の中の心がけに落ち着いたようにみえる。面白くない国になってしまった。民度とかやらでそれがうまくいったとしても、国として成長する機会を喪失してしまうのは残念だ。

まだ社会的世界が立ち上がりきる前に、少しだけ執筆作業をする。
一段落すると自閉症について知識を仕入れる。

現在は自閉症ではなく、自閉スペクトラムという概念でこれまで「自閉症」「アスペルガー症候群」と呼ばれたものを表す。DSM-5 精神疾患の診断・統計マニュアル による診断基準の概要は素人には難しい。

自閉スペクトラムの診断基準概要

ABCD の4つの基準を満たしていること

A. 複数の状況で社会的コミュニケーションおよび対人的相互反応における持続的な欠陥

  1. 相互の対人的―情緒的関係の欠陥
  2. 対人的相互反応で非言語的コミュニケーション行動を用いることの欠陥
  3. 人間関係を発展させ,維持し,それを理解することの欠陥

B. 行動,興味,または活動の限定された反復的な様式で下記の2つ以上を満たす

  1. 常同的または反復的な身体の運動,物の使用,または会話
  2. 同一性への固執,習慣への頑ななこだわり,または言語的,非言語的な儀式的行動様式
  3. 強度または対象において異常なほど,きわめて限定され執着する興味
  4. 感覚刺激に対する過敏さまたは鈍感さ,または環境の感覚的側面に対する並外れた興味

C. 症状が発達早期から存在していること

D. 社会的・職業的生活上の障害が生じていること,知的障害やその他の発達の遅れではうまく説明できないことなどが確認された場合

素人の自己診断でかつ楽観的に考え当てオレにあてはまるものは

  • 対人的相互反応で非言語的コミュニケーション行動を用いることの欠陥
  • 人間関係を発展させ,維持し,それを理解することの欠陥

ぐらいだろうか。具体的には視線を合わせられないとか、人狼のような想像遊びがまったくできないとか。毎朝シリアルを食べるとか、朝の儀式とかも反復の行動様式といえるが、それをやめることには苦痛はないし、自意識のなかでやっていることなので考えないことにした。極端な話からはいったが、オレが自閉スペクトラム症にはならなそうだ。補足として、自閉症の診断基準を一部満たす症例がアスベルガー症候群と名付けられた。また「発達障害」とは病名や診断名ではなくただの行政用語。自閉症アスペルガーADHD、LDなどの障害で低年齢において発現するものを指す。カテゴライズのための便利な用語だった。このあたりの関係が理解できたのはよかった。
では、問題を分解する。では客観的所見として見受けられる「自閉」とはどのようなことを指すのだろうか。
自閉という言葉はブロイラーによって一九一一年の論文で初めて使われた。ブロイラーはこの言葉を「外的世界からの活動の離反を伴う内的生活の優位」と定義した。精神世界における関心事の向き先の問題であり、対象者の精神荒廃や内的エネルギーの障害ではなさそうである。「外的世界」、「内的生活」とはなんなのだろう。オレが好む語感の用語。思考を楽しみたいので外部記憶の参照を中止して空想する。外的世界とは自身が認知している世界であり、その中にオレが配置されているということか。では内的生活とはなんだろう。内言語というものがある。オレは考えるときに頭のなかで言語が聞こえる。しかし具体的な他者との会話においては聞こえない、あるいは認知できないほどに小さくなっている。外的世界を理解するのに内言語を使う。空が青いという内言語を通して外的世界を認知する。おそらくこれは自閉ではなさそうだ。内言語をつかって外的世界以外について言及している時間、結果それにともなって行動する時間が内的生活ということにならないだろうか。内言語の向かい先は自意識を超えた他者でもあるような気がする。他者は外的世界の他者のように身体的、精神的一貫性があるとは限らない。むしろバラバラの方が多い。そういった認知も難しく対象としてとらえることも難しく想像することすら難しい他者らによってオレは長くて変化のない内的生活に偏っているのではないか。

お昼になる。あまり腹は減っていないが何かたべておこう。パスタを茹でる。沸騰するお湯を眺めながら、仮説の上に仮説をたてて思考するのは自己を感じることができる少ない内的生活だったのかもしれない。自分としてはなんとなく納得できる。パスタを食べ終わり、風呂に入る。

昼下がりの恐ろしい倦怠感に身を任せたい。少しだけ横になる。そして気合いで起き上がる。「自閉」に関する理解を深める。自閉症の現象学 では「自閉症児は時間流の感覚を持たない永遠の現在に生きている可能性がある」という。自閉症児はドゥルーズが「意味の論理学」の中で書いている「ちゃんとした方向付け」を喪失しているからではないか。なるほど、オレは不思議の国のアリス症候群の現象学的解釈を身につけたぞ。これに似た事例を自分の中を探索する。色覚異常をもっていて細やかなな濃淡を区別することが難しい。絵の具には色が書かれているので、色の合理性ではなくそういうルールで並べることはできる。オレが同色系の微妙な濃淡が与えられて落ちていく太陽を描いたら色がパカパカしてグラデーションにならない気がする。極論すると、連続性をもった色彩ではなく、点在し一回性をもったRGBに還元できない記号。
また自閉症の子どもは視線触発を拒絶しているという。他者のまなざしや呼びかけが自分に入ってきたら困るということ。このような志向性が侵入してくるとパニックになり、自分の世界が崩れてしまう。自閉症スペクトラムの精神病理: 星をつぐ人たちのために では自己がまずあって、外の世界の対象を認識するのではく、むしろ対象である物事や人から視線触発されることで自己を立ち上げるという。他者が先になければ自己は立ち上がっていないということらしい。オレが苦しくも悲しくも楽しくもない時とは、他者がおらず、自己が立ち上がっていないときではないかと仮説が思いつく。またまなざしを避ける理由は安定した自分の世界にとどまっていたいからであり、他者の侵入を避けるためである。結果、オレの自己はほとんど立ち上がらずリビドーは滞留して意欲は減少し抑うつ状態になる。考えてみれば通勤や出社で一日の多くの時間、なんらかまなざされる可能性があった。テレワークが主流になることで完全に丸一日にまなざされることがなくなった。通勤や出社によってかなりのストレスを感じていたが、そのストレスの正体は立ち上がった自己の過活動によるものだったのかもしれない。テレワークをはじめて最初に充足した時間は枯渇したリビドーの回復で、それ以後はリビドー代謝の低下によるうつ。枯渇と循環停止の別の理由によるうつがオレにはあったのではないか。
しかし、その仮説が正しいとしてオレはなぜ自己を立ち上げ、その自己でもってどのようにこの世界に棲まいたいと思っているのだろうか。そしてオレが誰にもまなざされずにこうして考えている状態をどう考えるのが良いのだろうか。立ち上がる自己というのは何種類かあり、このように他者を必要とせず自省していることを認識している自己とは何が違うのか? あるいは内在的に他者が存在して明示的な外部他者を必要とせずに自己が立ち上がることがあるのだろうか。あやは誰なの? あやは答えない。だめだ、原書をしっかりよんで原理原則を理解しないとこれ以上は建設的な議論ができない。
脳内キャッシュをフラッシュするためにサイクリングにでかける。羊鳥ヶ岳周遊コース左周り。身体と自己の関係をしっかり観察したい。追い込む。心拍一八〇。汗と呼吸、その音、ペダルのリズム。折り返し地点で少しだけ絶景を眺める。身体が後景化する。オレがいま立ち上がっていないなんてことがあるのだろうか。ふたたび追い込む。身体の要求を拒否してペダルを回す。このペダルを回す意思は自己に由来する? しない? ゴール地点でハンドルに寄りかかり息を整える。不思議なもので今までの走行が幻のようにも思える。サイコンのデータですら、認識の結果であり、それが幻でないことを反証するものではない。泥沼だ、今日は止めよう。伊花多ヶ浜で海を眺める。いつもより波が高く迫力がある。頭を空っぽして家にかえる。

風呂に入り軽く執筆作業。日が暮れてくるが腹がへらない。追い込みすぎたかもしれない。ヨーグルトだけ流し込み栄養を補給する。

エクリプスの企画を考えなくては。動機付けがうまくいっていないので着手の仕方がわからない。動機付けうまくいかなくてもうまくパターンにのっけるしかない。手を動かしてみる。掃除といっしょでやっていくうちにモチベーションがでてくる。そのためには起動のためのエネルギーだ。先払い報酬を採用する。お酒を飲んで動画をみていいので、そのあとに作業に着手すること。

お酒を入れて意識が軽い変容をする。山へ自分を殴りにいく行為は、他者性への反撃ではないかという仮説である。他者を排除できない状況にさらされた自分が事後的にその葛藤を乗り越える。なるほど、ノゾミのことは理解できないが、ノゾミがどのような世界に棲まいたいかは想像できる。十四歳も末期になって@liceと会話できたことは収穫だ。

さて、エクリプスの企画を考えなくては。上記の世界の辺縁で過ごすうつのオレには正直きつい。よかったときの思い出を思い出そう。@lice とは方法論をずっと話していた。それはゴールがなかった。なるほど。ん? では去人たち2とはなんだったのだろうか。冷や汗がでる。置いておく。ヤマシタさんとは分業で一緒に創作はできなかったが、創作方法論を議論するのが楽しかった。共感するとはなんなのだろうか、美少女とはなんなのか、劇中におけるセックスとはなんなのか? プレイヤーがゲームをプレイし始めるとはなんなのか? ノベルを文章を文節を単語を読むとはなんなのか、キャラクターが表示されるとはなんななのか? あらゆるものは記号にすぎないのか? パーソナリティをもつ記号とはなにか? 場面に沿った音楽とは何なのか? なぜミュートしてプレイするノベルゲームは臨場感がないと感じるのか? 感情移入とはなんなのか? 文字を理解とはなんなのか? 物語を理解したとはなんなのか、理解が人ごとに異なるのは何故なのか、ゲーム批評とはなにか、なぜ批評するのか、批評は必要なのか、いまここにおいてなぜ批評が無益に終わっているのか……。必要な情報や理論を用意して安全な場所で積み木遊びしながら試行錯誤して建造する謎の秘密基地。自分専用の部屋をつくりながら増築して、最後にはショベルカーを使って埋めてしまう。わたしたちの想像遊びが終わったあと、わたしたちが想定した興味をもった読者が遺跡を発掘する遊び。そういった読者は想像より少なかったがゼロでもなかった。妄想だけでやりとげた十二歳児にとっては大成功であった。でもいま立っている場所はまったく違う。外的世界と繋がっているし、オレはその世界において丸腰。だからといって武装したいわけではない、ただ逃げ出したい。外的世界とはつながれないが内的世界の延長としてノベルゲーム世界を作り上げればそれとは接続可能かもしれない。そこにおいて関係性を気づくことができれば、さらに延長として外的世界につながれるかもしれない。創作物が立ち上げる世界を代償世界として間世界性を構築し、外的世界と接続するというのは良いアイディアに思える。その創作物こそが対象aである、というアイディアも面白いのではないか。受容者はその創作物によって「ーφの、現実界における対応物」と遭遇し外的世界から離反してしまう。そこは感情も超えて自己を危機に陥れる。
仕入れた知識にすぐに引っ張られる。意識が薄弱で自己がからまない惰性のアイディア。論理的整合性をかき直感的にひらめきに頼っている。