去人たちを作れなくなったうつ病プログラマーの地方生活日記

創作に絶望すると、世界が反転した日記

7月18日(土)

休み、起きる気がしない。外からは雨の音が聞こえる。無理に出かけなくていいんだ。まどろみながらradikoをつけニュースを聞く。新型コロナウイルスの感染が拡大するなか旅行を推進する政府のキャンペーンを疑問視する声。疑問視というよりは批判している。社会という複雑で正解がないものだ。やるべき、やらないべきの二元論ばかり聞こえてくる。新型コロナウイルスはインターネットの向こう側で起こっているように現実感がない議論ばかり。結果は責任をとればいいという政治家もどうかしている。でももっとやればいい。この事態を引き起こしているのは全員だ。安全といったり危険といったり傍観したり中傷したり諦めていたり全員が当事者。運良く乗り切れるかも知れないし、運悪く死者がたくさんでるかもしれない。オレも死ぬかも知れない、身近な人が死ぬかも知れない、オレが好きな人もみんなが好きな人が死ぬかもしれない、大好きだったあの人も死ぬかもしれないし、大嫌いなあいつは生き残るかもしれないし、死ねば良いと思っていたあいつは死ぬかもしれない。死ぬのは対策を行ったせいかもしれないし、そんなの関係なくただのロシアンルーレットのように死ぬかも知れない。いっそのこと日本を二分割してしまえばどうか。西日本と東日本。国民全員に問う、これからおまえらに生存競争をしてもらいます。新型コロナウイルスが安全だと思う者は西日本に、危険だと思う者は東日本に。西日本と東日本は行き来できない。互いに独自の経済圏を気づきできるだけ長く生き残れ。小松左京の物体Oのごとき混乱のなかで生存をかけた体制づくりが行われる。輸入された民主政治しかしらない日本人が本当にゼロから政治をやりなおすチャンスとなる。自分が選択した社会で責任をもって生き抜けばいい。どちらにもアナーキストはいるだろう。それで生き残れるとおもえばやるしかない。当然、日本アルプスに秘密のトンネルを掘ってそのトンネルを仕切る秘密財団も登場する。現状の体制に不満をもったそもそも安全とも危険ともいえなかった人々を別の側移動させるかわりに高い通行料をとってもうける。この物語の結末はどうなるだろう。
布団のなかで物語を動かしながらうとうととしている。ニュースが終わっている。そろそろ起きよう。朝のルーティンワークをやってしまう。最後に歯を磨きながらベランダの椅子に腰掛ける。まどろみながらぼんやり考える。戦争になって味方に戦死者がでたからといって戦いをやめれば国は滅びる。叩かざるを得ない。戦争し続けられるかどうかという基準は、どこまで財政出動できるか、どこまで国民が死んでいいかという誰もが考えたくない判断をすることだ。砲弾に頭を吹き飛ばされて死んだ兵士のことは想像しやすい。新型コロナウイルスに感染して肺炎になって死ぬことも想像しやすい。報道やSNSによって容易に想像できる頭になってしまった。しかし経済的にゆるやかに死んでいき、街が浮浪者や物乞いであふれ餓死者がではじめるという経済パニックは虚構にしか思えない。福沢諭吉は枚数でやりとりされることがなくなる。諭吉一キロと米一キロが等価になり、貨幣は利便性を失う。恐慌の真実は報道できない。報道すればするほど不安を煽り真実味を増してしまう。オレたちは教科書でならった世界大恐慌を受験勉強のキーワード程度にしか理解していない。資本主義において恐慌は想像できない方が都合が良い。想像でることと出来ないこと、人は想像のできないことを理解しようとすらしない。人の社会は健常者であふれている。不気味で楽しい。

朝ご飯はシリアルを食べる。抗うつ剤を飲む。むなしい。目を覚ますために、風呂にはいる。誰もいない。座禅を組む。いまだに数分ともたない。何故なのだろう。妨げるものを認知負荷をかけてトレースする。身体感覚をフラットに保とうとしはじめた瞬間から、脳内にぽこぽこと文節が湧き上がってくる。一種のつぶやき型の自生思考。一四〇文字もない。数十文字の短い言葉たち。しりとりのように勝手にその言葉がつながっていく。やめようとしても自分で考えたことではないので止められない。大きな声をだして上書きするのが精一杯だ。たちの悪いことにイメージではなく言語として立ち上がってくる。しかもイメージはない。映像や画みたいなものが心象としてないものだから無意識に溶け込まない。イメージであればそのままにしてやり過ごすこともできそうなのだが、言語である以上、オレがその言語を認知した意識でもってなんらかの処理をしなければならない。無視するという選択、忘れるという選択、かき消すという選択、人生は選択の連続だ。脳みそが高回転で無意味なアウトプットを出し続ける。突発的な記号の表出と抑制の繰り返し。身体症状にはなるがトゥレット症をみるとつらいだろうな共感してしまう。突発的な記号と自分の知覚、認知の世界が分離しているので最低でも二つの世界を常に意識してしまうのは本当に疲れてしまう。この無意味な記号をどう扱おうか。

風呂からあがってクランキーアイスを食べる。昔からあのカリカリ部分が好き。一人で考え事をしているほうが突発的な記号に惑わされないから楽だ。そういえば、オレは独り言をよくいう。そっちの方が集中できる。自己愛的な話かと思ったが、悪霊退散、バフ効果もあったのかもしれない。