kowさんは天ざる大好き

創作に絶望すると、世界が反転した日記

8月7日(土)

やはり身体が重い。今日はキモサベをお触りしたい。タンブルウィードに行きたい。彼に触れたい。気合いで起きる。

タンブルウィードでは乗馬レッスンのお姉様方が沢山おられる。自分はツインテールのかわいい女の子になったつもりでお姉様方についてまわる。文字通りポニーテールもあるし、ツインテールもあるし、乗馬の身なりでムチをもったお姉様方もおられるし、きゅんっとしてしまう。一番かわいいのはキモサベだけどね。オレはツインテールかわいい幼女のムツゴロウのような形でキモサベにヨシヨシ愛撫攻撃をする。キモサベは鬱陶しそうにしているが受け入れてくれる。視野が全方位ではあるけど、こっちみてるなあって気がつく。馬とも視線はあうし、馬が見ていたなというーφも感じることがある。人では異常なコンテキストが働いてーφを気づくには訓練が必要だ。でも馬とは言語がない分、より直感的に感じることができる。これがオレには良い治療、変化を起こしてくれる気がする。じっとみると見返してくれるキモサベは言葉が使えない。安心して自分の秘部を投射できる。キモサベはそれを受け入れる度量がある。唖が登場する小説が好き。巨人たちも唖のボゴ少年にはかなり惹かれた。
お姉様方と一緒にレッスン。お姉様方はマイ馬やマイ鞍とかで登場である。お嬢様学校かな。オレはキモサベと楽しく遊べればいいと思っていたけどこれでいいのだろうか。馬上でキモサベに聞いてみる。やっぱりああいうかっこいい鞍のほうがいい? そんなことよりお前の指示がよくわからんからきっちり合図してくれよ、とキモサベが返す。しゃべれるのか。幻聴かな。いや、ゴルゴ先生のアドバイスの主体がキモサベに転倒しただけでオレが混乱しているだけだった。お姉様方はしゅっと軽速歩しているが、オレはキモサベとのコミュニケーションに四苦八苦している。キモサベが速歩をやめてしまうのが課題。しっかり足並みにあわせてオレが立ち座りができること、お腹を圧迫して速歩継続の合図をキモサベに明確にすること。頭でわかっていても同時にいろいろやろうとしてなにも成果を生まない。乗馬は基本的にはマルチタスクなのだ。リーンをつかって上達するのは無理がある。
休憩する。オレはふりかえりをする。足並みにそろえた立ち座りは少しできるようになってきた。たち座りはキモサベに負担をかけないだけで、これはオプショナルの目標、本来はキモサベにしっかりとオレがどこを曲がるか、どこにどれだけの速度で進むかを指示してあげることが大事。そして馬上ではいろいろなことが同時に起こる。前走の馬がとまったり、虻がきて馬がリズムを乱したり、地面に少し脚を取られたり、些細なことだが馬上のオレにはとても大きなインパクトとしてつたわる。多種多様な不確実的な要素があって馬はそのなかの些細な要素にも大きく反応する。オレはその因果をすべて対処しようとしていたのがいけないのではないか。馬の揺れと戦っていた、馬の揺れに身を任せないといけない。
レッスン再開。進路指示や教科書的な乗馬姿勢を一旦忘れる。キモサベの身体と一緒になれる感覚を掴む。上半身、脚の使い方、肩の力が抜けてくる。完璧ではないが、全く新しい体感を得る。楽しい。キモサベは自由に走り回っているので、その状態で指示を出してやる。指示を出すとまた身体が自我を取り戻す。乗馬は瞑想に近いんだなと気づく。自我をもってはいない。レッスン終了。もうちょっとでなにか次のステージに行けそうだったがフィニッシュまではいけず。寸止めのくやしさ。
キモサベを愛撫してやるがおやつ食べたいぃという目。うーむ、レッスン前にニンジンをチラ見せしたのはよくなかったか。でもキモサベの呪術師然とした目はらんらんとしている。かわいいのでよしとしよう。キモサベの全身を洗ってあげる。キモサベと今日のレッスンの感想を話し合う。ハンガーフライトならぬ、厩舎乗馬的な。となりでゴルゴ先生は蹄鉄打ちである。なんというか、何をしても様になる。先生はオレがボスだからなっていうオーラでマウントして馬たちの蹄鉄を変えていく。別の馬が洗い場で足をならしてちゃんちゃんわがままをいうものなら、先生がかけていってわがままいってんじゃねえぞのお叱りである。鉄爪をぶん投げる。ぎゃー、なんという強硬手段。馬は人間の目に見えてわかるようにすぐにしゅんとなる。言語をもない馬のコミュニティにおいては力関係をはっきりさせるためにそのようなやり方は必要だろう。キモサベもお手入れするときに傷をみつけることがある。他の馬と遊びながらエスカレートして噛んだり噛まれたりするとのこと。でもそのようにして互いの力関係や自分たちのコミュニティの力関係を維持している。そしてそのコミュニティの究極的なトップがゴルゴ先生でなければこのコミュニティは存続していかない。その正しさを理解しながら、オレはオレの体験を投射してしまう。いじめられっ子に忖度したり、ほどほどに小突かれながら破綻しないように生きてきたり、意味もなく突然殴られたり、怒鳴られたりすることに恐怖に感じる。今起こったありのままのことは恐怖だが、それを恐怖にしないために、きっちり理解する。起こったことが合理的である分には恐怖は減る。いじめは不合理だ。そうだったろうか。オレがいじめられる側になり、時にはいじめる側になり、なんでオレがそんなことができたのか。

帰って風呂にはいる。この風呂には妖怪が沢山いる。でも今日は妖怪がいない。先客がお一人。あいさつをして全身の汗を流す。気持ちいい。ぼんやり社会的な動物のことを考える。いろんな考えはあるが、犬も社会的動物としてボスに従うことで安心した生活ができるという。飼い主がボスとなって信頼関係をつくることによって犬はストレス少なく暮らすことができる。オレのボスは誰なんだろう? あやがとつぜんオレをのぞき込んでくる。お前じゃないとデコピンで追い払う。ひぃとおでこをおさえるあや。非難するようにオレを睨む。生きやすさとはなんだろう。ボスがいることなのか。大きな物語こそがボスなのか。とすれば、自己を強力に相対化できる装置こそが生きやすさの装置なのか。徹底的な内省批判によって人は生きやすさを手に入れることは出来るのだろうか。直感的にしかわからないが、きっとそうではないだろう。生きやすさは自己完結しない。

薬を飲んで寝る。