去人たちを作れなくなったうつ病プログラマーの地方生活日記

創作に絶望すると、世界が反転した日記

9月9日(水)

生きていることが不快になった。目が覚めたのは五時。かれこれ床に就いてから一二時間。現実味のある気味の悪い夢が頭の中に残っている。地下駐車場、熟女風の娼婦、モブの視線、夢精をともなわない勃起すら伴わない性的なやりとり。目が覚めたときに自分の陰茎が存在していることを疑ったほどだ。それはただぴょんとしていて、乾いていて粘液もでていない。性的人間としてこれは大いなる気付きである。オレは何かが不十分であるときに、必要十分とは何か?ということを考えられるようになる愚かな生き物だということを。

ウツすぎるわけではない。ただぼんやりしている。そして何かの衝動にかられて仕事を始める。内発的動機といえば聞こえはいい。たぶん、ただしくは代償行為としての仕事をする。精神分析的にはそういう言葉が誰だって好きだし、そういう風に書いてあるのを期待する。あたりまえだ、この時代、わざわざ当たり前のことを書いて何が伝わるというのか。本当か嘘か、それ以前に伝わる温度差があるか、ないか、その差分、デルタ量の話である。笑いもそうだと誰かいっていたではないか。そんなことをいっていた誰かにすごい親近感を覚える。
シデムシ隊のチームビルディングをリードする。リードするのは好きではないが、見本になってみようという気はする。オレがこれまで先人たちを真似てきたように。真似られるというのは生半可なことではない。コピーのコピーが劣化していくようにコピーされる側にとっては手が抜けない。悪意のある誰かが「起承転結」が必要なのだ、という嘘をねじ込んでしまえば、それが真実になってしまうことだってある。いままでは神さまがいた。いまは神さまがいない。コピーされる側もコピーする側もコピー能力が問われる。オレはデリダような態度を取ることはできないと自認している。正しさを担保しない以上、開放性を担保するしかない。相互比較、相互参照、相互議論、相互理解可能な解放された考えのなかで自分のやっているポジションを明言し、その解釈の自由度を受容者に明言するのがオレができることだ。アジャイルスクラム開発のプラクティスもその解釈の幅において自由であることを常に前提として実践するし、問いかけるし、必要に応じて伴走する。サーバント・リーダーシップでもないし、キャプテン的な視線誘導でもない。主体はチームのメンバーにあり、それに寄り添い伴走することだ。結果がどうあれ、彼らが走りやすいことこそを第一義とする。何年も前、フルマラソンを走って思ったのは、伴走者のありがたみである。オレは周りのペースに飲まれて目標記録も達成することはできなかった。断続的に、なぜ走るのか、と問いかける存在で、自分がいまどのようなペースでは知っているかを客観的に知らせてくれる存在、伴走者がいれば結果は変わったかも知れないと思う。たった一つの自我なんて本当にゴミ屑みたいなもので誤った判断に気づくこともできないし、正しいと思ってしまったことについてはとことん正しいと思い込んでします。まったく安全性のない意思決定システムである。

仕事が終わるとそのまま布団に倒れ込み、寝る。