去人たちを作れなくなったうつ病プログラマーの地方生活日記

創作に絶望すると、世界が反転した日記

10月01日(木)

今日は少し雨が降っている。キモサベに会いたい。会いたくて会いたくて震える。午前休をとる。もはや、オレは病欠の常習犯だ。

キモサベとは雰囲気すこし仲良くなれてきた。もう三十時間ぐらいは一緒にいるのだろうか。しかも濃厚接触で。間主観性というなかでオレはキモサベと言葉を介さずに通じ合えるようになった。最初はとまどったが、いまではお互いの間合いを心得て引くところは引くし、じゃれても良い部分はじゃれてみる。お馬の社会は縦社会で、馬たちは遊びの延長で互いに力試しをして順列がきまるそうだ。オレは財力でおやつをちらつかせながらキモサベのマウントを取ろうとしている。犬を飼っていたときと同じ手法ではないか、これでいいのだろうか。キモサベと朝のピロートークをする。オレはご遺体に話しかけるのがとても苦手だ。喪の作業がまったくできない。病死した親族にみんなが、「つらかったねえ、ゆっくりやすんでねえ」と冷たく固い身体をさするのをみて恐怖を感じる。老女が幼女人形をベビーカーで押している状況に見える。そこにはある意味においての「死の手応え」がある。オレにとっては生と死はシームレスで可逆のようにすら実感する。論理的にはそんなことはない。オレが生まれてくる以前、何にも感じなかったように、死んでも何も感じなくだけだ。すでに死の状況を経験しているといっていい。その閾を越えるときだけが生の目的だ。その瞬間が終われば虚無だ。その瞬間さえ乗り越えれば、あとは何も気にしなくて良い。キモサベ、オレはお前より長く生きられるような気がしない、いやいや、むしろオレよりは長生きしてくれ、お前は男の娘の中の男の娘、かっこかわいいし、お肉もしまってお尻のお肉はスーパーかっこいい。あと、オレをじっとみながら値踏みしてるのもいいよ。ずっとオレを気にさせてるその流し目、やるじゃないの。ごしごしとブラッシングして顔を拭いてあげて裏堀する。馬装していざレッスン。今日は他の生徒さんもこられていて一緒にレッスン。乗馬のユニフォームがびしっときまっている。オレはサイクリング用のジャージとタイツ。見た目から入る必要はない、ない! 常歩を多めのレッスン。だけど、これが復習と新しい課題発見につながる。基本だからこそ奥が深い。あぶみへの足の力のかけ方、目線、手綱のはり、手の位置、腰と馬の一体感、上半身の安定感、秋の空、秋の風、キモサベから伝わってくる体温とキモサベがいま楽しめているかなという心配。キモサベに尽くすというストーカー癖がではじめている。キモサベの足並み、頚の上下、後ろ足のテンポの遅れ。キモサベと一緒になりたい。胸がキュンキュンする。一方、速歩になると今度は自分の課題で精一杯、キモサベのことを考える余裕がない。立ち座りは目的ではない、タチ座りをすることお馬と人がお互いに楽に、なるための動きでしかない。その状態できちんとお馬に指示をだし馬もその指示を理解して気持ちよく走れることが目的なのだ、とゴルゴ先生はいう。カーマ・スートラなみに奥の深い教えがゴルゴ先生からでてくる。オレはキモサベが好きすぎて必死になってやろうとする。手の位置の固定、手綱のテンションの安定化、足首の力をぬいて太もも、ふくらはぎの力で立つ。そのときに上半身はリラックスして反動に呼応して力をいれずに立つ。自分の事が出来たら、今度は手綱で自分の行きたい進路を先々にキモサベに指示する。直線、コーナーのテンポはことなる。コースをみるだけではなく、馬の頚、上手のテンポをみて一緒に進む。脳が爆発する。キモサベ、ごめんよごめんよごめんよ、まずは自分のことだけ、自分が気も良くなるだけだけど。コース取りやテンポがあわず反動をうけるが、自分自身の形はよくなってくる。力がぬけて軽速歩をずっと続けていても疲れない。よし、きた。キモサベがテンションあがってきて、どんどんスピードアップしていく。「乗っている人のテンポにあわせて馬があわせにいっている、ただ合わせるだけじゃなくて自分の思うテンポで」とのゴルゴ先生の指示。おー、オレが軽速歩に乗れるようになってキモサベに合わせていたら、キモサベにとってはもっと、もっと!という合図に感じられたらしい。タイミングを遅らせる、反動がつよくなる。ゆっくりでええんやでと声をかけるがお馬にはわからない。「薬指でかるく手綱を引いて。とまらない程度に」とゴルゴ先生の指示。お馬さんの手綱操作がまあ、敏感。PS2のコントローラーだったらスティックをちょろっと倒しただけなのにぐいぐい曲がっていく。ほんとうにチョット。スピードダウンだとおもってちょっと引いてみるとキモサベは急停止する。ふぁー、あかんあかん落ちる落ちる。キモサベはぶるるんといなないて、人使いがあらいなあ、ぐらいな印象。いやいや、それは馬使いやで、とオレがツッコみをいれる。「とまってないで、どんどん再開して」とゴルゴ先生から檄が飛ぶ。
レッスンが終わってキモサベの身体を拭いてやる。良い感じにほてって素敵である。先生にみられないように一人でぎゅーっと胴体にしがみつく。しあわせ。キモサベが、なにやってんだよ、キモいんだよ、はなれろよ、とか暴れないのがいい。

午後からは仕事。今日もファシリテーター。チーム発足からもう数ヶ月。シデムシ隊もシデムシ隊を自身して成長していきたい。チームビルディングのために、スキルマップをやる。インセプションデッキに従って必要チームのスキル、知識をあきらかにするものだ。チームの求めるスキルというのはインセプションデッキがなければ決められない。これがミソである。オレたちはOOPを究極までに理解しないとミッションが遂行できないわけではない、マルチスレッドプログラミングを知らなくてもミッションを遂行できるんだ。中期的にはここのスキルが必要なんだ、この業務知識が必要である、販売のチャネル、離脱率、アクティブユーザー数、テーブル定義……オレたちはどこまで知っていないと行けないのか、を知る大事なフェーズだ。時間はかかったが実りのある時間だった。
次は臨時の障害対応のふりかえりミーティング。主催者はエンジニアマネージャー。開幕早々、どうして今日午前中休んだんですか? 最近休み多いですけど、体調大丈夫ですか? 病院はいっているんですか? 先生はなんていってるんですか? 結局回復する見込みはあるのですか? と矢継ぎ早に質問される。マネージャーとしての質問は正しい。でも健康状態は個人情報なので別の場所でやってほしい。そしてなんとなく、質問の仕方がオレをコントロールしようとしている気配がある。メンタリングではなく、マネージメントしようとする言葉の強さだ。オレは笑いながら答える。結局様子見なんですよねー、と。セカンドオピニオンも考えた方がいいんじゃないですか? というマネージャーのツッコミ。なんだろう、親切心という押しつけに聞こえるんだけど、オレが悪意をもって感じ取りすぎだろうか。もちろん、指摘はあっていると思う。本気で心配してくれているのだろう、でも希望が持てないオレが悪いんだ。今日のミーティングには瀧山もいる。なんか、やばそうな三人が集まったな。ファシリテーターがいないのでまず混乱する。瀧山がこのミーティングについてなんでもかんでもまくしたてる。聞き手側のレスポンスを待たないので、こちらはついて行くのに必死だし、質問したいことを頭のなかで記憶しておくしかない。しかもこのミーティングのアジェンダに対しての解決案が瀧山のなかにはあってそれがいいたくてむずむずしている。むしろオレがこのミーティングの背景をインプットせずにきたことにいらついてすら見える。それについて主催者の笹野マネージャーは何もいわない。状況の背景をしっている瀧山とその修正の責任を実現する責任をもつ笹野マネージャと、それを修正すべきシデムシ隊のオレとという関係性だった。一言でいってしまえば、これは共有ミーティングであり、議論したいとは誰も思ってない、思っていたのはオレだけだったと気づかされる。実質やることとやり方は決まっていて、それをお前がやるんやで、という共有の会だった。オレはニコニコとしながら引き受ける。気に食わないことはない。実際、そのとおりに修正するのが妥当だと思う。マネージャーと瀧山と溝が広がったほうが気になる。議論する余地がないなら、ミーティングである必要はなかった。オレがわーわーと騒いで理由を明確に述べられないことはしないなどと、喚き散らしているから気を遣ったのかもしれない。オレは社内で腫れ物扱いか。ダイカンゲイ。

仕事が終わると、風呂に入る。今日は疲れた。何も考えたくない。風呂で座禅を組む。心臓の鼓動、汗がしたり水面にしたたる音、嫌いな上司、嫌いな同僚、つまらない仕事、つまらない人生、つまらない自分、全ての原因が自分にある、でもそんなわけない、呼吸、鼓動、呼吸、水面の揺らぎ、オレはつまらない、世界はつまらなくない、何も考えられない、何も考えない。

風呂上がりに扇風機を身体をクールダウン。白ワインとウイスキーでリラックスする。生きている実感をするのは唯一このときだけだ。お酒を飲んでいるときだけが生きていると実感できる。オレがいて世界があってその間に全てがある。よかった、ほんとうに良かった。
お酒をのんでふと思い出す。今日の夢はRPGゲーム的に壮大な夢だった。オレが主人公で世界を救うことになっているようだが実力はない。みんなが助けてくれる。一人の熟練魔法使いが仲間になってくれる。オレは成長し逃げ癖を封印して成長していく。もちろんその仲間は最後までいない。戦死する。なんというご都合主義的な夢なんだろう。つまりオレはそういう世界だけしか受容する能力がない。

クスリをのんで寝る。