kowさんは天ざる大好き

創作に絶望すると、世界が反転した日記

11月8日(日)

曇り、気温は低い。去人たちZEROの続きを創ろうという話になって以降、俺は死にたくて死にたくてしょうがない。あまり深刻になることはない。「死にたい」というのは俺にとっては「ギリギリまで腹が減った」ということと大差ない。即時に死ぬ行動をとることでもなく、むしろ具体的な「死」については想像もできてない。本当に追い詰められた人間は「自死」に制約はない。痛くない、辛くない死に方を考えているイチはまだ健全である。本当に死ぬことを考えた人は、ただもっとも身近で確率性の死を選ぶ。飛び込み、飛び降り、首つりだ。手首を切って湯船に作るが悪いわけじゃない。それは医学的な致死性の理解不足なだけだ。

ゆくえさんにもラーメン大好き河合さんにも申し訳ないことをしたような気がしている。たぶん勘違いだ。勘違いだから、わすれていい、と思える自分ならおれは今はいまここにいないだろう。お二人の発言や要望は理にかなっている。無茶もない。理屈も通っている。理屈や矛盾の塊の俺は激しくプレッシャーを感じる。これは @lice と作品を作っていたときとは大きくことなる。オレたちはただのモラトリアムの中で反抗しようとしたいた。エロゲーがただ、ポルノ的すぎたから、という言い訳は一番楽かもしれない。@lice とともにエロいコンテンツを共有しながらどのぐらいで射精に到達できるかを比較したほどだ。一方で、この快楽の効率性を競う競技は私たちに文学とはなにか? という小さな課題を与えてくれた。賢者が読むテキストというものがあって、それは賢者だろうが、賢者足るまいがよめるべきではないか、という発想であった。結局その発想は正しくないと思い至り、賢者なり得る我々が、それ以前に読めるテキストがあるのではないか、という定義に変わる。人間の性的嗜好こそ、人間性の根源であるという認め方は結構面白かった。

でもそういった妄想じみた発想は無責任だから自由に発想できた。 @lice と俺は友達だったのだろうかとすら思う。極論、@lice が死んでも「そうか、死んでしまったか」としか思わなかっただろうし、@lice だって俺が死んだところでその事実以上にないも感じなかっただろう。アナーキスト? リバタリアン? 自暴自棄? ただの破局型の気質? ただ12歳だった俺は閉塞感漂う世界で最も自由な時間を @lice と過ごすことができた。そこはグロテスクではあったが息はできたし何か許された気さえした。

開放された世界で去人たちの作り方を俺はまだ知らない。