kowさんは天ざる大好き

創作に絶望すると、世界が反転した日記

07月18日(月)

日本語は妄想しやすいのかなと思う。主体がなくても話が進められる。レトリックだけじゃなくて。
まず出来事があるが、誰、いつ、どこでは虫食いになっている。それらが虫食いになっていても、リアリティを感じられる言語な気がする。まず現実があり曖昧さを事後に補完する。

これの曖昧さは欠点ではある。極端なはなし、AさんとBさんの違いすら曖昧になるのだから。Aさんが次の日にはBさんに見えてしまうとしたら現実世界では支障をしたしてしまう。自分の認識はおいていて、「あなたは誰?」といわないといけない。でも、日本語を使っているとなんとなくそんな世界は想像しやすい。異常か異常ではないかではなく、想像しやすい、というお話。

現実には触れることはできないとかどうとか。感覚器官の限界と、思考の限界があり、その限界が世界を認識する限界だとするしかないのだろう。物理的な限界はある。思考には限界はまだみえない。過剰なまでの内省、異常なまでの発散。繰り返していれば、当事者じゃない誰かがトレンドを作るだろう。

昼寝をして起きる。日は傾いている。
イカを炙る。強めのハイボールで一日を終わらせる。

夕日を見ると明日があるのだと気づく。
もう明日は要らないと思えた過去があったような気がする。明日や明後日がゆっくりとオレの首を締め上げる。それに意味も無い。

意味があるか、ないか、それすら分からない。
価値があるのか、ないのかなど、なおさらのこと。
同人という文化はそこにフィットしていたんだとおもう。マニアックだけど、一部の人が賛同して協賛してくれるような仕組み。
そういった活動すら縛りはきつくなっていく。あらゆるものは「公共」になっていく。

大きな物語で閉塞していたから、いま、ここにいることを不本意だとしても理解できる。
どのような物語もなく閉塞し続けているなら、いま、ここにいることをどのように受任するのがよいとされているのだろうか。