評価なんてできないんだ。善悪も、善し悪しもない。基準がないのだから。
ずっとオレはそれを信奉してきた気がする。それすらが、固定した観念になって、いわゆるこじらせてしまっていたような気がする。
みんなが良い、というものに反対するという程度のネガティブな反応は意味が無かったんだと思う。そこに意志はない。ただ、バランスをとること。決定されたとしても、賛成ばかりじゃ無い、ということを言いたいがための意思表示はしておこう、という程度のことだった。
会社の会議でも誰にも拾ってもらえないと分かっている意見を、敢えて、やめないように努力している。
少数派だから取り上げられないとして、満足している。
採用されないことがこれだけあった、と提示できることに満足している。
少数意見の取り扱いにはフェーズがある。
誰かが問題提起しているけど数が少ないからとまったく取り上げない状態。問題は共有されず認知もされない状態である。声を上げても意味が無い状態。
それよりかすこしマシな状態が、問題提起をしてその内容についてある程度の認識が共有されている状態。
この状態となると議論の参加者は「意識して切り捨てる」ということになるので問題提起することに意義が認められるようになる。
義務教育のティベートの授業では少数派の意見で、できるだけ後者の状態となるように先生がファシリテーションしてくれたのを覚えている。
絶対多数で話したい問題があるけど、少数派の意見を無視せずに何が問題になっているか多くの人が認知するのを時間をかけてやった。
それらを今回は議論はしないけれど、それはそれとしてそういう問題があるという内容をある程度詳細に、ある程度正確に把握しておくことが無意味じゃないと伝えるのは本当に難しい。
問題をある程度理解したうえで、その問題を解決することを「選択しなかったこと」って、亡霊みたいだとおもう。
うまくいっているときは自分の選択に満足している。
でもつまずくと、亡霊たちが前衛にでてきて、オレの過去の選択の裏返しとして迫ってくる。
ことによると亡霊なのに致死性をともなって現れる。
亡霊も亡霊なりに自分が正しかったと主張できる場があってもいいだろう。
だから、生け贄をもとめるだろう。生の誰かが苦しんでいないと、どんなに正しい論理も共感されない。
生きているやつがすべてくたばるまでこの議論は終わらない。
こんなどうでもいいことでも、自分が生きていてよかったことの一つに数えると、生きやすい。