kowさんは天ざる大好き

創作に絶望すると、世界が反転した日記

08月16日(火)

たまに、拙作の物語構成を見直す機会があるけれど、そのたびに発見がある。
別に拙作に特化したことじゃないのだけれど、再読すると発見があるっていうのはいろんな作品である。
たまたま、必要に迫られて拙作を読み返すことが多いから、再発見も多いわけで、それをことさらに強調しているように聞こえてしまうなら誤解です。

たとえば、再読でいえば筒井作品のほうが圧倒的に多い。当然、拙作を読み返すぐらいなら、筒井作品を読み返したい。もちろん、そのときの気分で小松左京やら、大江健三郎やら星新一ということもある。ことによれば、仕事上がりにビールを飲みながら小林多喜二を読むこともある。90年代の手触りのある読書というのは、そういう空間的な偶然性だったなあと思う。無駄にでかい書棚を身勝手な区分で仕分けて起きつつ、気分によって一冊をさっと取り出し、意味も無く途中のページを読み始める感覚が最高に愉しい。
再読して一定のカタルシスを味わいたい系の長編、短編集だけどタイトルから思い出せないから再読したい系、あのときはもやもやしていたけど、今なら何かもっと腹落ちするんじゃないか系の純文学。

この読書行為に成果があると思うこともあるし、そうでないこともある。

一般化してしまえば、拙作によらず、読書は常に失敗する、とか言えばすっきりしそう。それと並行して、読書は成果物を得ることはないが、なにがしかの行動を変容させる可能性があるといっておけば条件付き賛成票が増え好感度は上昇するだろう。
それらの失敗や、可能性の背景、力学をこと細かに分析することが、楽しかった時もあるけど、いまは興味を感じなくなった。

いろんなことは相対的で常に「ズレ」続ける。それを語ろうとするときに、それもまた別のものになっている可能性がある。
変らないものを想定して、それを語ろうとすると、失敗するみたいな話をしたほうが、今の自分にはしっくりくることが多くなった。
究極的なゴールは無く、現在地も変り続ける中で、どこを経由し続け、今向かおうとしているところへ近づくかを延々と繰り返す。

常に問い続けられるこの舞台、地獄の苦しみ on ステージ(第3回公演)。
それもまた、よし。
死ぬまで遊べるドン。