08月20日(土)
身近な人が死にたいと訴えられる。よくあることではないけれど、まあ、経験がないわけではない。
自分も自分の終わらせ方についてはいつも考えているし、いま終わってほしいと思うと誰かに伝えてしまうことはある。自分が誰かを間違っていると断言したり、諭そうとするのは違う気がする。
それに「死にたい」は発信者によって意味が違うので、一概にあーだこーだといえることではない。
自分がそうでありたい状況からズレ続けるのがつらいなら、もはやその自分の中の一線を後退させればよい。
後退するぐらいなら死を選ぶ選択をする覚悟がある人もいる。
それで死を選んだとしても、絶対的に間違っているといえないだろう。たとえば、望まないような生き方を延長してもっと早くに終わらせておけばよかったという考えだってある。
「死にたい」状態の自身のまま、今後も生きようとするなら、たぶん「死にたい」状態は断続的に続くだろう。
死にたくなったとき、「自分は変化したいか?」 という問いをしてみるのも良いと思っている。
自分が変れるわけがないと思っていても良くて、それでも「自分は変化したいか?」という希望するかでよいと思う。
八方塞がり、袋小路、デッドエンドで追い詰められたという状況があるだけ。
「死にたい」という記号で思考を放棄してしまうと、ありえた活路も見えなくなってしまう。
たまたま生きているだけなのに、生きるべき、という空気で人を窒息させるのはやめよう。
世界にいる間であれば「死にたい」は転倒可能でり、仮にその転倒が倫理や道徳を越えて不謹慎であるとしても、そこでは超越することに意味があるのだから最大限転倒したほうがいい。
「死にたい」は可換な記号。可換であるものは、正当性が公には保証されているが、実際は個々人においてズレ続けることで世界を複雑たらしめている。
三回、自分の価値観と違うズレを観測できれば、世界の片鱗をみることができる。
解像度を下げることで不安な対象をぼやかしても解決しない。