kowさんは天ざる大好き

創作に絶望すると、世界が反転した日記

1年という区切りを評価したり、ふりかえったりする(令和4年として)

年末あたり、流行語大賞今年の漢字、クリスマス、仕事納め、大晦日、年越しそば、年が変わる瞬間……

11月ぐらい。もう今年も終わりだなって思った瞬間に、想像していたテンプレートイベントが殺到してくるのを想像する。
繰り返し。
今年は前年よりもっと楽しくなるよ、という妄想は毎回裏切られる。だから、イベントを無理に無視するようにしている。

だから、12月は12月のように過ごさないことを心がける。12月ではなく、どのような月でもない1ヶ月のように過ごす。

年が新しくなる。特別なものを食べたり、特別な場所にいったりしない。
マーカー、目印、時間的相対化は代償として生命力的なものを消費しそうな気がしてしまう。

過去のみに捕らわれ続けたり、未来のみによって抑えつけられたり、現在にのみ圧倒され続ける人は、時間からの待避所が必要になるんじゃなかろうか。
それらを見つける試みは常に失敗する。そうと分かっていても、それにすがることはある。誰もが間違っているといっても、それを選択することがある。選択するのは自分で「誰も」の中に自分は含まれていない、というのは気休めにはなる。

書くことの恐怖について

何も言えない。時間は進まない。
時間は進まないまま、自分の意識のなかでは文字間ゼロで、句点、読点が打たれ続ける。四〇〇字詰め原稿用紙の最初のマスは黒塗りされている。
目をつむって、厚みゼロのまま重なった句点、読点をじっと見つめる。
自分はどうかしはじめていると、しっかりと分かる。

意味するものを書こうとすることが恐怖、なにもせず、そこにたたずむのも恐怖。気が触れてしまえばいいのにと思うが、それは起こらない。もしかしたらそれは起こっている気がする。自分はごく短い期間、急激に気が触れている。異常性に費やされるエネルギーは一瞬に消費される。結果、異常状態は解除され、一般化現象に対する符号化された意味だけが記録される。それが書かれたものなのかもしれない。
慎重にたぐり寄せないと分からないような空白地に引かれた線といわれれば線に見えるような境界が残る。それらは自分だけの作業ではなくなったのだろうか。

ふりかえり

なんの根拠もない仮説がある。
ドラゴンボールのように一度ボロボロにならなければ、次のステージにいけない理論、1パーセントぐらいの有意性を信じてみたい。
ふりかえりでボロボロになってみて、その1パーセントを試してみよう。

ある単位時間を切り取って評価したりするのを好まない。
自分のどの時間を切り取っても不甲斐ないだけで、自分を打ちのめすだけ。
それはそれでよい。評価方法論の間違いに気づけるかもしれないし、連続性についての新しい考え方を発見できるかもしれない。理屈はそうだ。だが、HPとMPは枯渇する。
しかし自分を打ちのめすことは、自分以外の関係者にもダメージを拡散させてしまう。周囲にダメージを拡散したうえ、その拡散したダメージも自分に加算される。ふりかえりは、間違えるとかすり傷を致命傷に倍加させる。

ただ、ここにおいては致命傷になりたいわけではない。ボロボロになっても致命傷ではない。死んでもドラゴンボールがあるような意味で。

よかったこと

念願の続編がリリースできたことが何にも代えがたいハイライトである。
開発チーム結成から2年ちかく、実際にリリースできたのは本当によかった。
プロジェクトチームにおいて最悪の状況とは「リリースできない」ということだった。
プロジェクトオーナーとして本当に良かったと思う。それしかない。

メンバーから声をかけてもらったことで、なんだかなんだで続編を作ることができた。それがなければ、いまのリリースは絶対になかった。
「絶対に動かない」と思っていたことは、誰かの助けによって動くことがある。当然のように聞こえるが、限りなく得がたいものであることを忘れてはいけない、と思う。

なにが我々の進捗を妨げたか?

自分のプロジェクトオーナーとしての適正

自分は何事にもよらず悲観的に構えるので、何事も最悪のシナリオを考える。はじめからダメだっていうのは楽だし、それで何もしないならゴミクズっていわれることもある。自分は悲観論に偏っていると正しく思う。
たとえば、全身全霊込め、身を粉にしたり、臓器をうりとばしたりして、できることすべてやっても、成功しない可能性は十分にある。それでも挑戦できるのか? と問われるなら、自分は「挑戦しない」と答えるだろう。
絶対に成功するとは言えないけど、そこを目指したいと腹の底から思えたらやる、ぐらいのゆるさでよい気がしている。
損得勘定を土台とするものは脱個性化するか、その土台の理屈の中で淘汰される。どっちがいいとかではない。たまたま、そこに居た、でいいのかなと、いまも、思っている。

少し横道に逸れるが、それでも自分が時々、割に合わないことを止められない時がある。今のところ、それを止められないとき、それを止めさせようとは思っていない。分断した個人を横断できていない。
分断した個人を横断できる人がプロジェクトオーナーになるほうが良いケースはあるだろう。

だれの作品なのか?

個人の勝手な感想でしかない。
当初から「(1+n)次創作同人作品」だったとは思う。「こうあるべき」「このほうがいい」「これはいやだ」というのは誰が言ってもよかった。そこには複合した個人の次元があってどうしたって共感不能な「余り」が含まれている。そのなかにおいてどうしても何かを選択しなければならいときにプロジェクトオーナーとしての自分が発言することも当然あった。
そのとき、自分は不在になってしまったステークホルダーを憑依させて答えようとした。誰を憑依させ、どのような回答をするか選択する。個人の意見ではないとしたかの結果、場当たり的な回答は、メンバーを失望させた。(同じ質問をして毎回違う回答する人に失望するのは、現場のクリエイターと当然のことであるし、反省いたします)

「どれでもいい」答えるのがより正しい応答だったかなって思うときがある。
もし、過去にもどってどういう発言をしたらいいんだろうと想像する。その場だけの合理性を取り繕うのではなく、過去や未来がある自分としてなんと発言すべきだったろうか?

???:「あなたが決めてください。自分はそのとおりに作ります」
???:「作品について深い理解することに努めました。ですから、このシーンはこれしかないです」
???:「あなたが最も良さそうだという表現をどのような批評にもさらされない、それそのままで鑑賞できるのが創作する側の享楽です。あなたも自分も悩んだままで、未確定なままで。自分は何も意見しません。あなたが決めてください。それが自分の楽しさであり、喜びです」

こういう気が狂ったタイプの回答は具体性をもった現場ではそぐわない。伊達や酔狂でもの作っていない。
その時々でその時々の責任者がその時々で最高の応答するが、そこには一貫性を求められている。
作っている作品の中に移住して、その世界を構築することで作品とする作り手は、いろいろを妥協をしない。


自分が思うところによれば、ソレについて唯一無二で最高でこれ以上がないものと思っているがたくさんにある。
たとえば
「好きなSF作品は?」
と問われたときに、最近読んだ作品から昔を思い出して想起して最高の作品を挙げるだろう。
「霊長類南へ」「虚航船団」「虚人たち」「牙の時代」「最後の喫煙者」「おーいでてこーい」「物体O」「宣伝の時代」………
その時々の自分の気持ちや、最近読んだとか、で毎回言っていることが変わるようではプロジェクトオーナーとして不適格であると言われて当然なんだと思った。


うまく反省できてないけど、どう反省するのがよいのか。
思考、感覚、印象、すべては大量に高速に流れていき、漂うだけ。
非常事態のときのみ時間をとめたり、超スローモーションにしてエネルギーを節約することができるだけ。これは自分がコントロールするものではない。自動的にそういう状態に陥るだけ。

誰の作品なのか、という問い自体が、今回のアウトプットを深く考えさせられている。

蛇足/読書と表現

エクリチュール以前、文字、記号でいい。
自分は読書から多くの衝撃を得た。それがいいことなのかどうかは、自分がいえることではない。でも、そういった体験の可能性は残って居てほしいなとは思う。
今では誰かが害悪だという本を読むことができて本当に良かった。
未来や過去は分からない。禁書、焚書の対象が増えるなら悲しい。
署名した作品が引き裂かれるのを目の前にしたときに怯えながら安堵する。恍惚のような錯覚。

自分の書いたものを添削推敲しているうちに、心身としての指や腕を削ぎ落として、書く能力を失うとは、なんて愚かなことだろう。
自らの指や腕を十分に削ぎ落としかけていたとき、中断命令がかけられる。制止した本人が思っていたことは自分とはまったく別のことなのかもしれない。
でも、それに助けられた。失われなかったものとしての自分の指や腕を改めて確かめられた。
ただ、それだけ。それだけのごく個人的な体験。

では、いますること

考えてみるが、変わらない気がする。
これまでどおり死なないようにあがき続けること。
本来的に生きることと遠く離れても、この位相における特定の局面においては生を感じることがあるような気がするし、それにすがりつづける。