kowさんは天ざる大好き

創作に絶望すると、世界が反転した日記

09月04日(日)

誰でもがコンテンツ配信できるようになって、自分がものづくりをする必要はないな、と思うようになった。
その領域ですごく尖った表現をしていて、それは一般大多数に受容されるという類いではないけど、アートや創作といわれた、その表現に似ていると思う。
個別のアウトプットがあり、それを表現に変換し、それを受容するというその境界ごとに余韻があるアウトプット。

昔は境界などない方が良かったし、境界はシンプルなもので多様性には無頓着だった。

ゼロ年代以前、コンテンツを作るのは実務的なコストとスキルが必要だったとおもう。
現在では、同様のアウトプットをするにせよ、テクノロジーの進歩で必要な実務的コストとスキルはかなり低減されたように思う。
多様な質のコンテンツにさらされるというのはあるが、すばらしいコンテンツと出会える機会が増えたのも、間違いではないのだとおもう。

ゼロ年代以前、欲望は宙ぶらりんのまま期待に巻き込まれて、判断から離れたところで渾然一体となり曖昧な位置にいたとおもう。
いまにおいては、作品を公表したとして許容されるかされかどうかは短期的な時勢による、としかいえない。

08月26日(金)

安定した環境をつくりそこに閉じこもろうとする。
確信したい何かに囲まれて、それらの確信によって安定した自分でいられるなら、どれほど楽なことだろうと思う。
自分がそう思いたい対象はたくさんあるけど、それらを自分がコントロールできるわけではない。

自分が何かをコントロールするということすら幻想に思える。
本当のところ、見えているもの聞こえているものすら、確信がない。見たいと思っているものはその様に見ているだけだろうし、聞きたいと思っているものもその様に聞いているのだろうと思う。

瞑想を試みるたびにそのことを強く思う。
混沌はあらゆる前提の前に存在していて、自分や自我という言い方でなにか理由付けをしてやりくりしている。
混沌とはいうが、それはやりくりした結果の名前付けであって、それをプラスやマイナスと評価できるものではない。

作っている作品もそういった背景があったのかなと思う。
混沌と呼ばれるものをその瞬間に適当な断面で切り取った表面を記号化して提示するという作業の断続的な繰り返しは、生そのもののように無意味でしかないのだろう。

だたありのままに無意味そうなことをを、自己と思われるものを通して、また無意味なものに再加工する過程に、自己と思われるものは快楽を感じる。

08月20日(土)

身近な人が死にたいと訴えられる。よくあることではないけれど、まあ、経験がないわけではない。
自分も自分の終わらせ方についてはいつも考えているし、いま終わってほしいと思うと誰かに伝えてしまうことはある。自分が誰かを間違っていると断言したり、諭そうとするのは違う気がする。
それに「死にたい」は発信者によって意味が違うので、一概にあーだこーだといえることではない。

自分がそうでありたい状況からズレ続けるのがつらいなら、もはやその自分の中の一線を後退させればよい。
後退するぐらいなら死を選ぶ選択をする覚悟がある人もいる。
それで死を選んだとしても、絶対的に間違っているといえないだろう。たとえば、望まないような生き方を延長してもっと早くに終わらせておけばよかったという考えだってある。
「死にたい」状態の自身のまま、今後も生きようとするなら、たぶん「死にたい」状態は断続的に続くだろう。

死にたくなったとき、「自分は変化したいか?」 という問いをしてみるのも良いと思っている。
自分が変れるわけがないと思っていても良くて、それでも「自分は変化したいか?」という希望するかでよいと思う。


八方塞がり、袋小路、デッドエンドで追い詰められたという状況があるだけ。
「死にたい」という記号で思考を放棄してしまうと、ありえた活路も見えなくなってしまう。
たまたま生きているだけなのに、生きるべき、という空気で人を窒息させるのはやめよう。


世界にいる間であれば「死にたい」は転倒可能でり、仮にその転倒が倫理や道徳を越えて不謹慎であるとしても、そこでは超越することに意味があるのだから最大限転倒したほうがいい。
「死にたい」は可換な記号。可換であるものは、正当性が公には保証されているが、実際は個々人においてズレ続けることで世界を複雑たらしめている。
三回、自分の価値観と違うズレを観測できれば、世界の片鱗をみることができる。


解像度を下げることで不安な対象をぼやかしても解決しない。

08月19日(火)

ウツもうまく付き合えるようになるとメリットがある。

感情の起伏に当人がふりまわされる。悲観的に感じていたことが、とある瞬間には些細なことに思える。
そういった不安定な自己に悩むこともある。ことに、ポジティブなほうを本来の自分と思い込みがち。ウツという病気がなおれば、いつも元気でポジティブで爽快な気持ちで生活できると思い込んでしまう。

なにか、正しい自分があり、そのような理想的状態を目指そうとし続けるのだけど、それはもっぱら挫折し、そして最後には進退窮まる。

正しい自分などない、という前提に立てばよいのだけど、それは容易ではない。
そこという地点において、自分は確かであるのだと、確信したことは、ただ、そこでの地点においてのことだと、冷静に受け止める必要がある。
だけれど、自分の境界ぼやけていて、境界において自分だと思っているものと自分ではないとおもっていることがせめぎあっていて、常に境界線は動き続けている。境界線の変動を逐一監視して、本来あるべき線まで押し戻そうとしなくてよい。
押し込まれた部分に、実はあまり意味がない。一部に圧力がかかって境界が縮退しても、別の箇所に圧力が移動することができる。フロイトが欲動といったやつ、といえば自分が説明しなくても済みそう。

逆の言い方をすれば、狂ったように創作にのめり込むにはそのようなマインドだと難しいのだろうと思う。
自己を極限まで明確にし死守することで、無意識に最大の圧をかける。その圧を昇華させることで、破局的な成果物ができあがる、ということもあるのだろう。

世界を愉しみたければ、安全弁を開いて、圧を逃がす。
自分を愉しみたければ、安全弁を閉じたまま、偶発的な境界の亀裂に身を委ねるといいのかなと思う。

どちらが正しいがあるわけではない。
ウツとうまくつかえるようになると、それぞれをうまく使いこなせるようになるのかなと。

08月16日(火)

たまに、拙作の物語構成を見直す機会があるけれど、そのたびに発見がある。
別に拙作に特化したことじゃないのだけれど、再読すると発見があるっていうのはいろんな作品である。
たまたま、必要に迫られて拙作を読み返すことが多いから、再発見も多いわけで、それをことさらに強調しているように聞こえてしまうなら誤解です。

たとえば、再読でいえば筒井作品のほうが圧倒的に多い。当然、拙作を読み返すぐらいなら、筒井作品を読み返したい。もちろん、そのときの気分で小松左京やら、大江健三郎やら星新一ということもある。ことによれば、仕事上がりにビールを飲みながら小林多喜二を読むこともある。90年代の手触りのある読書というのは、そういう空間的な偶然性だったなあと思う。無駄にでかい書棚を身勝手な区分で仕分けて起きつつ、気分によって一冊をさっと取り出し、意味も無く途中のページを読み始める感覚が最高に愉しい。
再読して一定のカタルシスを味わいたい系の長編、短編集だけどタイトルから思い出せないから再読したい系、あのときはもやもやしていたけど、今なら何かもっと腹落ちするんじゃないか系の純文学。

この読書行為に成果があると思うこともあるし、そうでないこともある。

一般化してしまえば、拙作によらず、読書は常に失敗する、とか言えばすっきりしそう。それと並行して、読書は成果物を得ることはないが、なにがしかの行動を変容させる可能性があるといっておけば条件付き賛成票が増え好感度は上昇するだろう。
それらの失敗や、可能性の背景、力学をこと細かに分析することが、楽しかった時もあるけど、いまは興味を感じなくなった。

いろんなことは相対的で常に「ズレ」続ける。それを語ろうとするときに、それもまた別のものになっている可能性がある。
変らないものを想定して、それを語ろうとすると、失敗するみたいな話をしたほうが、今の自分にはしっくりくることが多くなった。
究極的なゴールは無く、現在地も変り続ける中で、どこを経由し続け、今向かおうとしているところへ近づくかを延々と繰り返す。

常に問い続けられるこの舞台、地獄の苦しみ on ステージ(第3回公演)。
それもまた、よし。
死ぬまで遊べるドン。