去人たちを作れなくなったうつ病プログラマーの地方生活日記

創作に絶望すると、世界が反転した日記

10月01日(木)

今日は少し雨が降っている。キモサベに会いたい。会いたくて会いたくて震える。午前休をとる。もはや、オレは病欠の常習犯だ。

キモサベとは雰囲気すこし仲良くなれてきた。もう三十時間ぐらいは一緒にいるのだろうか。しかも濃厚接触で。間主観性というなかでオレはキモサベと言葉を介さずに通じ合えるようになった。最初はとまどったが、いまではお互いの間合いを心得て引くところは引くし、じゃれても良い部分はじゃれてみる。お馬の社会は縦社会で、馬たちは遊びの延長で互いに力試しをして順列がきまるそうだ。オレは財力でおやつをちらつかせながらキモサベのマウントを取ろうとしている。犬を飼っていたときと同じ手法ではないか、これでいいのだろうか。キモサベと朝のピロートークをする。オレはご遺体に話しかけるのがとても苦手だ。喪の作業がまったくできない。病死した親族にみんなが、「つらかったねえ、ゆっくりやすんでねえ」と冷たく固い身体をさするのをみて恐怖を感じる。老女が幼女人形をベビーカーで押している状況に見える。そこにはある意味においての「死の手応え」がある。オレにとっては生と死はシームレスで可逆のようにすら実感する。論理的にはそんなことはない。オレが生まれてくる以前、何にも感じなかったように、死んでも何も感じなくだけだ。すでに死の状況を経験しているといっていい。その閾を越えるときだけが生の目的だ。その瞬間が終われば虚無だ。その瞬間さえ乗り越えれば、あとは何も気にしなくて良い。キモサベ、オレはお前より長く生きられるような気がしない、いやいや、むしろオレよりは長生きしてくれ、お前は男の娘の中の男の娘、かっこかわいいし、お肉もしまってお尻のお肉はスーパーかっこいい。あと、オレをじっとみながら値踏みしてるのもいいよ。ずっとオレを気にさせてるその流し目、やるじゃないの。ごしごしとブラッシングして顔を拭いてあげて裏堀する。馬装していざレッスン。今日は他の生徒さんもこられていて一緒にレッスン。乗馬のユニフォームがびしっときまっている。オレはサイクリング用のジャージとタイツ。見た目から入る必要はない、ない! 常歩を多めのレッスン。だけど、これが復習と新しい課題発見につながる。基本だからこそ奥が深い。あぶみへの足の力のかけ方、目線、手綱のはり、手の位置、腰と馬の一体感、上半身の安定感、秋の空、秋の風、キモサベから伝わってくる体温とキモサベがいま楽しめているかなという心配。キモサベに尽くすというストーカー癖がではじめている。キモサベの足並み、頚の上下、後ろ足のテンポの遅れ。キモサベと一緒になりたい。胸がキュンキュンする。一方、速歩になると今度は自分の課題で精一杯、キモサベのことを考える余裕がない。立ち座りは目的ではない、タチ座りをすることお馬と人がお互いに楽に、なるための動きでしかない。その状態できちんとお馬に指示をだし馬もその指示を理解して気持ちよく走れることが目的なのだ、とゴルゴ先生はいう。カーマ・スートラなみに奥の深い教えがゴルゴ先生からでてくる。オレはキモサベが好きすぎて必死になってやろうとする。手の位置の固定、手綱のテンションの安定化、足首の力をぬいて太もも、ふくらはぎの力で立つ。そのときに上半身はリラックスして反動に呼応して力をいれずに立つ。自分の事が出来たら、今度は手綱で自分の行きたい進路を先々にキモサベに指示する。直線、コーナーのテンポはことなる。コースをみるだけではなく、馬の頚、上手のテンポをみて一緒に進む。脳が爆発する。キモサベ、ごめんよごめんよごめんよ、まずは自分のことだけ、自分が気も良くなるだけだけど。コース取りやテンポがあわず反動をうけるが、自分自身の形はよくなってくる。力がぬけて軽速歩をずっと続けていても疲れない。よし、きた。キモサベがテンションあがってきて、どんどんスピードアップしていく。「乗っている人のテンポにあわせて馬があわせにいっている、ただ合わせるだけじゃなくて自分の思うテンポで」とのゴルゴ先生の指示。おー、オレが軽速歩に乗れるようになってキモサベに合わせていたら、キモサベにとってはもっと、もっと!という合図に感じられたらしい。タイミングを遅らせる、反動がつよくなる。ゆっくりでええんやでと声をかけるがお馬にはわからない。「薬指でかるく手綱を引いて。とまらない程度に」とゴルゴ先生の指示。お馬さんの手綱操作がまあ、敏感。PS2のコントローラーだったらスティックをちょろっと倒しただけなのにぐいぐい曲がっていく。ほんとうにチョット。スピードダウンだとおもってちょっと引いてみるとキモサベは急停止する。ふぁー、あかんあかん落ちる落ちる。キモサベはぶるるんといなないて、人使いがあらいなあ、ぐらいな印象。いやいや、それは馬使いやで、とオレがツッコみをいれる。「とまってないで、どんどん再開して」とゴルゴ先生から檄が飛ぶ。
レッスンが終わってキモサベの身体を拭いてやる。良い感じにほてって素敵である。先生にみられないように一人でぎゅーっと胴体にしがみつく。しあわせ。キモサベが、なにやってんだよ、キモいんだよ、はなれろよ、とか暴れないのがいい。

午後からは仕事。今日もファシリテーター。チーム発足からもう数ヶ月。シデムシ隊もシデムシ隊を自身して成長していきたい。チームビルディングのために、スキルマップをやる。インセプションデッキに従って必要チームのスキル、知識をあきらかにするものだ。チームの求めるスキルというのはインセプションデッキがなければ決められない。これがミソである。オレたちはOOPを究極までに理解しないとミッションが遂行できないわけではない、マルチスレッドプログラミングを知らなくてもミッションを遂行できるんだ。中期的にはここのスキルが必要なんだ、この業務知識が必要である、販売のチャネル、離脱率、アクティブユーザー数、テーブル定義……オレたちはどこまで知っていないと行けないのか、を知る大事なフェーズだ。時間はかかったが実りのある時間だった。
次は臨時の障害対応のふりかえりミーティング。主催者はエンジニアマネージャー。開幕早々、どうして今日午前中休んだんですか? 最近休み多いですけど、体調大丈夫ですか? 病院はいっているんですか? 先生はなんていってるんですか? 結局回復する見込みはあるのですか? と矢継ぎ早に質問される。マネージャーとしての質問は正しい。でも健康状態は個人情報なので別の場所でやってほしい。そしてなんとなく、質問の仕方がオレをコントロールしようとしている気配がある。メンタリングではなく、マネージメントしようとする言葉の強さだ。オレは笑いながら答える。結局様子見なんですよねー、と。セカンドオピニオンも考えた方がいいんじゃないですか? というマネージャーのツッコミ。なんだろう、親切心という押しつけに聞こえるんだけど、オレが悪意をもって感じ取りすぎだろうか。もちろん、指摘はあっていると思う。本気で心配してくれているのだろう、でも希望が持てないオレが悪いんだ。今日のミーティングには瀧山もいる。なんか、やばそうな三人が集まったな。ファシリテーターがいないのでまず混乱する。瀧山がこのミーティングについてなんでもかんでもまくしたてる。聞き手側のレスポンスを待たないので、こちらはついて行くのに必死だし、質問したいことを頭のなかで記憶しておくしかない。しかもこのミーティングのアジェンダに対しての解決案が瀧山のなかにはあってそれがいいたくてむずむずしている。むしろオレがこのミーティングの背景をインプットせずにきたことにいらついてすら見える。それについて主催者の笹野マネージャーは何もいわない。状況の背景をしっている瀧山とその修正の責任を実現する責任をもつ笹野マネージャと、それを修正すべきシデムシ隊のオレとという関係性だった。一言でいってしまえば、これは共有ミーティングであり、議論したいとは誰も思ってない、思っていたのはオレだけだったと気づかされる。実質やることとやり方は決まっていて、それをお前がやるんやで、という共有の会だった。オレはニコニコとしながら引き受ける。気に食わないことはない。実際、そのとおりに修正するのが妥当だと思う。マネージャーと瀧山と溝が広がったほうが気になる。議論する余地がないなら、ミーティングである必要はなかった。オレがわーわーと騒いで理由を明確に述べられないことはしないなどと、喚き散らしているから気を遣ったのかもしれない。オレは社内で腫れ物扱いか。ダイカンゲイ。

仕事が終わると、風呂に入る。今日は疲れた。何も考えたくない。風呂で座禅を組む。心臓の鼓動、汗がしたり水面にしたたる音、嫌いな上司、嫌いな同僚、つまらない仕事、つまらない人生、つまらない自分、全ての原因が自分にある、でもそんなわけない、呼吸、鼓動、呼吸、水面の揺らぎ、オレはつまらない、世界はつまらなくない、何も考えられない、何も考えない。

風呂上がりに扇風機を身体をクールダウン。白ワインとウイスキーでリラックスする。生きている実感をするのは唯一このときだけだ。お酒を飲んでいるときだけが生きていると実感できる。オレがいて世界があってその間に全てがある。よかった、ほんとうに良かった。
お酒をのんでふと思い出す。今日の夢はRPGゲーム的に壮大な夢だった。オレが主人公で世界を救うことになっているようだが実力はない。みんなが助けてくれる。一人の熟練魔法使いが仲間になってくれる。オレは成長し逃げ癖を封印して成長していく。もちろんその仲間は最後までいない。戦死する。なんというご都合主義的な夢なんだろう。つまりオレはそういう世界だけしか受容する能力がない。

クスリをのんで寝る。

たぶん、9月28日(月)

スヌーズとの戦い。20分の死闘はオレの意思によって決着がつく。スマホスヌーズをやめ、再び二度寝の体勢へ。しかし、スヌーズを止めたからこそ寝落ちするわけにはいかない。スヌーズをやめると決断したときオレはオレを試した。枕に顔を埋め心地よく思う。仕事なんて糞食らえだ。オレは右手の拳を握りしめ自分の側頭部を殴る。このダメ人間がっ! 死ね、死ね、死んでしまえ!! オレは泣きそうになる。すみません、すみません、生きててすみません、起きます、起きます、オレが惰眠を貪っていいわけがないです、すみません、すみません、いますぐおきます、ごめんなさい、ごめんさい、痛いから殴らないでください、オレが悪かったです、どうか許してください、許してください、許してください……
頬に青あざが出来るのではないかというほどに傷みを感じる。歯を磨く。磨き終わりに口の中のものの白いモノを吐き出すと赤みがかっている。

仕事を始める。孤独だ。でも孤独は友人だ。親しい友人との会話は幸福感がにじみ出る。これが承認欲求が満たされた状態なのかもしれない。あるいは、無根拠な多幸感と呼ばれるものかもしれない。実体のない幸福感は脳内ホルモンの問題かも知れない。毒が脳内ホルモンに左右する。タバコ、アルコール、咳止め薬、覚醒剤ヒロポンリタリン抗うつ剤メジャートランキライザーマイナートランキライザーロボトミー手術、電気けいれん法、宗教、哲学、デスメタル。一週間前の自分と今の自分がどう違うか、説明はできない。多幸感があるならそれでいい。根拠がないなら、オレが明日、死んでいたとしても驚かない。どんなに惨めに死のうが、糞尿たれながし脳症ぶちまけ系の死に方だとして、死んだオレには認知できない。死の直前の認知は再現不可能であり、再生不能だ。恐れるのは生物として自然だ。だがどれだけ恐れようとそれを理解することは不可能だ。オレは「明日死んでも良い」というタイプのパッシブ型の現存在を好きになれない。絶対に死にたくない状況で死を受け入れるソリューションの構築、止揚できる現存在が好きだ。それこそが人間性の極限、臨界点だと思える。
オレはまだ午前の素面な状況で仕事そっちのけでこんなくだらないことを考える。ルサンチマンがあふれ出ている。自己正当化するために、隠蔽して隠蔽してオブラートにつつんでオブラートに包んで、結局なにをいいたいか分からない、誰にも伝わらない思考。支離滅裂なのではなく、言語化していない観念の表出。古代日本史においてそれは奥ゆかしい日本的な表現だと美化されてきたが現在においては無意味、無価値の代表格だ。それを孤独の原因にするのは完全な逃避である。さて、これで無限ループの完成。半永久機関
丹波さんや浦野さんと Zoom で簡単なお話をする。シデムシ隊の士気を鼓舞するかない。士気が低いのはオレだけなのだけど、それをけどられるわけにはいかない。Zoom を切断すると当時にため息を吐く。もうちょっと我慢すればウツ期を脱せられるはずだ。

仕事がおわる。この部屋から外に出ることが何よりも大事。この部屋には居るだけでSAN値が削られるデバフがかかっている。正確にいうと、オレは常に汚染物質を放出している。それは数十時間で無害化される物質である。その有害物質は密度が高ければ高いほど有害度が指数関数的に有害度が上昇する。有害物質1の状態で有害度が1とすると有害物質が倍の2なったときに、有害度は4になる、そういうことだ。長時間いればいるほど、オレはSAN値を削られ発狂してしまう、という簡単なゲームだ。ドラクエのレベル上げに置き換えよう。レベル上げでHP[やMPが減っていく。宿屋に泊まって回復する。単なるそのサイクルのことをいっている。宿屋に泊まるにはゴールドがいる。もし、そのゴールドが異様にたまりにくいモノだったら、と想像してほしい。つまり、オレがこの部屋から出るために必要なコストが高すぎて「詰んでしまう」ことがありうるのだ。外にでるというのはとにかくMPを必要とする。醜悪な肉体、姿態を見らることに対するダメージ。話しかけられるリスクの発生と話しかけられたときの非人間的受け答えしかできないという低品格のレッテルの恐怖、および、それらの一次評価の拡散による地域全体における生きやすさの低下。地方ではいまだに口コミが優位であり絶対である、というのはオレの認識違いならいいのだが。

サイクリングは勾配多めを選ぶ。人生のなかで自分が自分でお腹のポヨポヨを楽しむのは今だけにしたい。自己身体イメージというが、ポヨポヨになると確かにオレジャナイ感は分かる。デブがどうこうではなく、いままでと違うシルエットというがやはりでかい。一方、腰がくびれているほうが良いなんて、近代的な話でしかないのに、自分がデブると気になるんだな、というのはやはりショックだ。この姿態の自分を許せないと思っている自分がいる、良くない。医師から健康問題を指摘されているのならまだしも、「醜美」のコンテクストで語られるのは危うい。オレは誰彼から見ても美しく生きたいのか? 恥の多い生涯を送るのは悪なのだろうか? 明日、我々はナチスと別名の政党支持しないとなぜ言えるのだろうか?

耐えられない、今日はお酒を飲みたい。オレと一緒に酒を飲む。クスリを飲んで寝る。今日は死んでもいいかもしれないと思う。ODをやりまくった俺はクスリの処方期間をかなり厳しく制約されてしまった。地獄の胃洗浄なんのその、絶対に死にたくないのでワンチャン助かるクスリの量の大量服薬だけが俺の唯一生きている感じを実感できる行為だ。死ぬかもしれない、おそらく死ぬだろうというのなかで、一錠一錠をロックの響12年で流し込む。人生最良の瞬間だ。こんなうまい酒をマイナートランキライザーをつまににしこたまのめるなんて。最初はクスリの量を覚えていたが、途中からはおえていない。ナッツ缶を無造作にだしてその山を崩していくように淡々と飲んでいく。ガリガリと噛んだり、舌下投与してみたり俺は俺を楽しませる方法をしっている。

意識が薄れていく。これは死とは関係ないんだなとつくづく思う。まぶたをあげるのがつらくないり、時間経過とともに意識レベルが低下する。吐き気もない、悪心もない。ただ世界がまったくに静寂になり、その静寂のなかでしーんとした耳鳴りだけがしている。一応、致死量を計算した。俺はクスリをのんで思う。なんで、俺が死ななくてはならないのか。死ぬのはお前ら全員である。俺を虐げ、嗤い、殴りつけ、蹴りつけたお前たちだ。でも死んでしまえばそれもない。それもなくなるのだから死ぬ。俺は消費されたり、だれかの憂さ晴らしとして役に立つことができた人生である。気持ちは徹底的に挫折し、思っていることは一つもいえず、相手がいっていることが違うと思っても一切反論できず、ただいいなりになっている。反撃? 反撃なんてない? むしろ反撃の結果、俺は何をえるのか? 瞬間的な憂さ晴らしと、それが連続的にうまく言えば連続殺人犯としての歴史的称号だ。そんな称号、俺には身に余る。人類が等しく滅びればいいのにな、とは思う。どん底だろうと有頂天だろうと人は死ぬ。死ねば良い。これは社会への参画ができなかったものの恨みだ。逆恨みというならそれでもいい。それには逆恨みではない。ただ、結果的に正しくおれはここにいる。死ねば良い。死んでしまえば良い。あらゆる、ヒューマニズムがことごとく残酷に踏みにじられ、醜悪に死んでいくのはただしいリアリズムだ。俺が間違っているという正しいことを言うヤツが大嫌いだ。なぜなら彼らは正しいからだ。反論できない正しさを振りかざすやつは死ねば良い。オレたちのような精神的に型にしばられたものを奴隷にするコードだ。

去人たちの続きなんて作れない。もう世界がスライドしてしまった。書き手も不在だ。
原初の体験は異常な事ばかりだった。しかし、いまは異常なことがない。異常さが、俺に限界を突破させてくえrた。だが異常者の alice はいなくなった。俺はただ俺だけで異常者にはなれないし、@lice の特殊能力を異常なまでに高く評価している。理論。論理、常識を越えたキチガイで、この世界が大嫌いだった alie の作品は彼のその性向が強くでていたとおもう。根底にあるダークサイドをそこそこうまくカモフラージュした。そこは最後の良心だったのかもしれないし、企みだったのかもしれない。去人たちⅡはどうかしている。

おれは alice がいっていたようにもうちょっとカジュアルに死にたいと言っていきたい。
死にたがりの人間が自由に発信できるようになりすがたせいで「しにたい」はほとんど絶滅してしまった。とくに「しにたい」の軽さを問題にする方々もいる。そういった、ことによって緊急性のある命を救えないという人たちもいる。しぬつもりもないのい「死にたい」というな。「死ぬなら勝手に一人で死ね」「死んだほうがいいよ」:
それらの匿名のアドバイスは正しいように思える、すくなくとも俺には。俺は「死にたい」といい、俺は「死にました」という記事はほとんどかかない。予約投稿すればいいのにね。

残念ながら「死にたい」という言述は、過度なコミュニケーションでしかない。余計なこと言わずに勝手に死ね、をしないのはそこだ。わたしがODで自殺を企てたとき、誰にも連絡しなかったのに似ている。他者に何の希望もないのだ。一名をとりとめた俺は精神病院に措置入院となり、そして主治医にガチ切れされる。

一度、死にかけた結果思ったことは、やはり、死ぬ前につくりたいものがあること。評価は一切、本当に一切どうでもいいこと。俺が反社会性人格であり、ゴミ屑みたいな支離滅裂なテキストを並べてもなんともおもわないこと。ゴミクソみたいな痕跡をただ残すことは面白そう。法律に離反しないていどにもっともっとバカみたいなことをすること。
どうっせ、死ぬ。

たぶんに、9月22日(火)

オレは全てが嫌い。オレも嫌い。会社の人も嫌い。エクリプスのメンバーもみんな嫌い。オレが嫌いなやつらはみんなまともだ。だから大嫌い。死ねば良いと思う。でも、ロジカルに考えるとオレが死んだほうがいい。オレの主観世界において同等の効果を得ながらおれの主観世界以外においてはより価値が高い。
メンヘラの極論をみんなどう感じているだろうか? 極論にすぎならから完全にスルーするのが正しい、病理学的なバイアスを差し引いて多様性の中で解釈しコミュニケートすべきだ、どのようなコンテキストかは問題にせず、いずれにせよ緊急的サポートを行うべきだ。オレはどれも正しいように思う。こじらせた我々をだれも救うことはできない、というコンテクストは戦後の文学のなかでも多く語れてきたことだ。同情力、共感力によってそれを超克しようというムーブメントはあったが、それは実現しなかった。なぜなら、人間は端的に言って個別の存在であり、死に直面しているその存在そのものにはなりえない、ということに到達したからだ。
そこから生まれるのが死のユニーク性という発想である。去人たちⅡを見よ。作為性と死を超作品として扱っている。筒井先生は、メタフィクションという。でも、個人的に言いたいことがある。メタフィクションはいい。好き。オタク好み。第四の壁。でも、第四の壁は繊細すぎて手法をちょっとでもあやまると作品を崩壊させる。世界を語るときに世界の外については語ってはならない。これはお芝居の基本なのだ。そえrを超越するときには、ぼけや突っ込み、ていどの安易な動機によるものはすべて失敗に終わる。それをやるなら、高度な仕掛けの導入であるべきだ。

エクリプスのメンバーはやはり誰とも違う。@lice ともちがう。一番違うのは、ものを作るという執着である。オレが @lice とつくろうとしたとの逆である。どちらがいいかという話ではない。オレがどうかしていた、それだけ。一方でおれはエクリプスを作らねばならないという動機で作ってはいる。これは自分を同人制作という環境へ投入してみたという実験である。
ひとつ言えるのは @lice がクズだったということ。でもオレはクズと完成させなくてもいい作品を作ることでオーガズムを感じていたということ。エクリプスではオーガズムを感じてはいけないと思ってしまう。これは現代のポリコレなのだ。心理的安全性を越える先で作りたいなら、真の友を作りたまえ、その先は純に人と人とのコミュニケーションで生まれるプロダクトである

オレは去人たちをつくりたい。オレは長く生きられない。だから少しでも何か作りたいんだ。@;lice ぬきでプロットを作った。にちのさんにもヤマシタさんにも正しく伝えられなかった。そして明確に拒否された。拒否されたわけではないフィードバックだ。たたそのフィードバックに未来性はなかった。それは絶望だが良い絶望である。既存の去人たちユーザーに受け入れられないという希望。@lice の作った世界とkowa@suhto が作った世界が違うならそれはそれでありではないかと思う。@lice がうまくやりすぎたせいで、オレのやることはなんでも失敗になちゃうだろうということを除いて。

最近正体をなくしてばかりいる。自分が自分に課している制約から逃れるためにお酒の量が増えている。眠剤も併用しているものだから途中からゾンビになる。朝、畳の上で目が覚める。いつネタかは覚えていない。仕事の Slack に見覚えのない意味不明な投稿があったりする。慌てて消しておく。クスリをやっているようにしか見えない。でも不思議だ、それを書き込んだオレはそう思っていたのだ。露骨な罵詈雑言や個人批判になったら大変だ。お酒とPCの組み合わせの対策はしたほうがよさそうだ。

身体がだるい。うつ性の倦怠だ。バイタルは正常に違いない。オレは明日からの仕事に備えて精神を整える必要があると思う。自分が課題に感じておりそれを解決する必要があると自分にいっている。本心のオレはそんなこというなら助走付けてジャンプすればいいんじゃん、とオレを試してくる。メンヘラ非モテクソオタクを殺してやりたい。そんな子どもみたいな試し行為するやつは死んでヨシ。本当である。クソだし、集団思考しかできず意志薄弱アダルトチルドレンなど滅びればいい。もげて当然、当然、当然の報い、因果だ。死ね、死ね、死んでしまえ。などとオレが演劇的にやっているとあやがかけよってきてサムアップをする。イエーイ、と互いに発生してグータッチをする。昔はハイタッチだったのだがこれはコロナ禍の嗜みである。濃厚接触しているエロゲーなんて最近やろうものなら、別の意味でドキドキしてしまう。メンヘラ非モテクソオタクはコロナ自粛警察のケがある。ルールや集団だと同一化することでやった自己が保てるゴミクズ。いや、ちがうちがう。オレがいかにゴミクズかなんてもうわかりきったことは興味がない。オレはゴミクズだが死なない。見てろ。死なない。死んでたまるものか。オレは初恋で悶々としている。キモサベかわいいよかわいいよ。オレの初恋がキモサベという男の娘なんて恥ずかしくて公にできない。集団思考している異常少数派に回るのは絶対的に間違いなのだ。だがこの心臓が痛くなる感じ、きっと加齢、不摂生、からあげ、お酒大好きによる心筋肥大および動脈硬化が原因ではなく、恋の苦しみに違いない。誰かを好きになるってこんなに尊いモノだったとは。好き、好き、大好き。だめだ、もうこの苦しみ、我慢できない。キモサベを嫁にするしかない。タンブルウィードに予約する。ウツはどうしても肌恋しくなる。馬さんは人より平熱が高い。いつお触りしても暖かい。
タンブルウィードにいく。ああわわ、馬カフェにこんなに人がいるなんて。洗い場にはキモサベがすでに馬装している。わーキモサベ、オレ、オレ、お久しぶりー。というがキモサベは眠たそうにしている。ドキドキ。もしかして、オレのこと覚えていないのかな。ふえーん。悲しい。胸が苦しい。恋がこんなに苦しいなんてこれまでしらなかった。眠たそうな目をしながら少しだけオレを見てくれる。見てくれた気がする。あ、あ、それはお客さんの一人という目である。オレを特別視をしてくれいない。オレはダダをこねる。いやだいやだ。ぐるるぐるる。ゴルゴ先生が登場する。「今日は別の馬、シェリーで」。わーん。しくしく。寝取られたんだ、しくしく。むしろ、他に訪れている方々が何十年とタンブルウィードに通っているベテランの方々なんだということを知るのは後のことだ。今日ははじめてのお馬さんのシェリーである。体高はキモサベより低い、キモサベのように魔法使いの目をしていない。お前がやるならボクはやるよっ!という心意気を感じる。若くはないらしいがイキっているのがかわいい。まるでオレのようだ。ふむんふむん、鼻をならし、たかるハエに対してイヤイヤをしている。キモサベが誰かに乗られていることを嫉妬しながらも、シェリーもかわいいな、などととクソみたいなことを考える。感じてしまったことは事実だ。隠すか隠さないかが問題なだけだ。だが隠す必要はない。オレはクズ人間だから。ゾウさんはが好き、でも、キリンさんのほうがもーっと好き、それを書く必要はない。でも、オレはシェリーのことを知らない。まずは乗らせてもらおうじゃないか。まずは乗らせてもらおうっていうものなんかゲスく聞こえるのは勘違いだろう。世界に正しい順序などない。正しい順序があるのは人間社会だけだ。今回のセッションは五頭立て。ベテランのなかにビギナーのオレが一人。おいおいおいおい、絶対オレが足手まといになるヤツやん。ま、いっか。迷惑かけてもゴルゴ先生の判断だ。でも、内心そんなことはできない。周りについて行かないとついて行かないとついて行かないと。ぎゃー。いつの間にか、オレの後ろにベテラン勢が渋滞している。おかしい、同じペースで周回しているはずなのに。ほ、ほら体高低いし、常歩じゃあ速度の差がでるでしょうが。どきどき。焦ると手綱が緩みシェリーがフリーダムに動き始める。上半身が硬くなる。鐙にかける足のバランスもおかしくなる。あわわあわわ。シェリーも途中、お前、何を指示しているかわからない、イヤイヤする。ぎゃー。きちんと手綱を握っていないと。次は速歩になる。姿勢、鐙、手綱、上半身、目線、コーナーの減速と直線の速度のギャップ、ゴルゴ先生の指示、ゴルゴ先生の指示に答えなくては、ベテランの方々に迷惑をかけないようにしないと。頭が爆発する。虚無。ただ、シェリーと楽しく乗馬をするんだ。好きとか嫌いとかじゃないんだ。シェリーが楽しくて、オレも楽しみたい。なあシェリー。オレはちょっとだけだけオレをうち捨てる。なあ、シェリー、お前のことを教えてくれよ。鞍の上でシェリーのたてがみと歩調を観察する。手綱がゆるんでいるとシェリーはオレのことを忘れて身体にたかるハエに気をかけて足を止める。ごめんごめん、オレは手綱を握り直す。指示が曖昧だとオレを振り落とすように後ろ足でジャンプする。言葉にすればお前さ、ウザイよ、という感じだ。でもオレはしっかりと馬上にとどまり、シェリーの腹を蹴る。オレはお前と一緒に楽しみたいと伝える。キモサベよりはダイレクトにメッセージを受け取ってくれる。しょうがないにゃあ、という感じで直ぐに速歩で進んでくれる。軽速歩が簡単だと思っていた時期がオレにもありました。人馬一体という言葉があるが、お馬さんが変わると良くわかる。お馬さんが好む足並みとそれにオレが合わせること、逆に、オレがこうしたいと指示したときにお馬さんがその指示に合わせることに躊躇わないこと、変化に順応できること。
オレはセッションを終える。ゴルゴ先生には間があいたわりにはよくできてましたよと、評される。死にたかったけど、キモサベのことは忘れてなかったらね。誰かに乗られたあとのキモサベは楽しそうだった。家に帰る。
家に帰って昼寝をする。起きるとオレがウツだということが正確に分かる。いわゆる寛解期といういやつだ。ウツは底を打った。お馬さんは良かったが一過性かもしれない。注意が必要だ。胸が苦しいのは変わらない。キモサベ。どうしてオレだけをみてくれないか。キモサベはいう。「おぬしは、自分にしか興味がないであろう?」 オレはワナワナと震える。「馬のくせに」。キモサベは聞こえないふりをしてぶるるんといななく。笑いながらキモサベがいう。「あなた、一旦死んで、馬にでもなってみれば?」

風呂に入って執筆作業。クスリを飲んで寝る。

たぶん、9月21日(月)

誰かの気持ちになって考えることが苦手なのです。情動的な共感しかオレにはない。うつ病になってもオレは喜怒哀楽が多い方だった。それは理屈ではなくて自動的だから。論理的には共感ができない。葬儀にいくといつも泣いてしまう。誰かが泣いているから。でもなんで泣いているかは分からない。前にも言ったとおり、自閉スペクトラムのドナは親しい近親者が死んだときに自分に意地悪をするために死んだのと思ったのだ。その文章をみたときほっとした。共感とは複雑だ。オレに共感して欲しいと思うなら、記号学や文学理論をつかわないと伝えられない。@lice もその感覚があってのではないだろうか。オレは盛り上げ役であれたのかもしれない。それが理解できる人間として。幾夜も酒を吐き倒し、できあがった作品は逆みたいに稚拙だと笑いあった。自分の世界の中だけで喜びあえる希有な時間だった。今になって思えば、ペアワークによってつくったシナリオであった。シナリオの打ち合わせを標榜してただ飲むだけだ。猥談だ、文学の話や、学校の話や、プログラミングの言語の話や、南条あやの話。当時、南条あやは存命していた。lain のようにアイドルとして。@lice 自身も慢性化したうつ病を患っていた。@lice は基本的にお酒を飲んでいる分には快活であった。オレは @lice が皿を割って暴れたり、自殺念慮がどうしようもなくなって119番したが、そのまま警察に連行された。こっぴどく叱られたし、悩み相談を交番の署員とした。@lice とおれはそれを肴にして大いに飲んだ記憶がある。OD してから救急車を呼べばよかったね、と笑いながら酒を飲んだ。自殺念慮だけで救急車を要請してもだめなのだ。オレは @lice のことや文学部唯野教授のことが気になってフロイドの本を読み始めた。精神医学の教科書も読んだ。知識を得ると世界のビューをいじりたくなる。何も変わらない現実を別のビューからみたくなる。
今、思えば、オレは何故をれを @lice の配置されている世界でやろうとしてしまったのだろうか。手段ばかりが先行し、その目的が適合しない。手段の濫用は関係性を悪化させる。最終的にオレが @lice を追い返し玄関を無碍に閉めることになる。オレが悪い。オレが @lice を拒絶した。でもそれはオレが死ぬのが怖かったからだ。オレが @lice を批判的に分析すると @lice は冷静にオレの心に土足で踏み込んできた。そこには礼儀がある。オレは間違ったことを気づいたのはそのときだ。
初対面ではただの見知らぬ二人が、「友達だよね?」と問うこともなく「友達」になり、「不都合な現実」が付随した @lice をオレは拒否した。そのとき @lice は苦笑いを浮かべ、オレは冷徹だった。オレは病院に通っていて、@lice から離れるように指示された。共感や依存は良くない、と彼らは口々に忠告する。去人たちを作れる人とは距離を取るように、というアドバイスはどうかしている。でも去人たちを作る必要はない。オレは @lice と離れることになる。
@lice を失う。でもこれもまた一時的なことのように感じている。家族や友達がそうであるように、原因には角をたてずに時間をかけることでやりすごす。時間が経つ。でもオレは @lice への連絡をすることはない。@lice からの連絡もない。おれはずっと気になってはいたが、携帯の機種変更をするときにアドレスを引き継がなかった。消えていった人々は、今においてすらもっとも心通わすことができた人々だ。でもオレはリセットをしたい。リセット癖のオレにこれまでの高い価値ががあるアドレス帳をリセットさせない手はない。
オレはたった一人で時間を過ごして学校を卒業した。ポンコツ頭と政治力をつかってぎりぎりの突破をした。学内の掲示板も見ない、単位だけに命がけの学生が得たのは卒業証書という肩書きだけだった。就職? なに? それ? おいしいの? 

目覚ましが鳴る。祝日対応ができていないのだからしかたない。オレは布団から出る気がしない。死なないためにやるべき良い方法は寝床でずっと居ることだ。寝床にずっといるやつはそこで死のうと思わないということを何故か知っている。あるコンテクストにおいては死は晴れになる。

みんなの話を落ち着いて考えよう。何も不幸なことは起こりえない。あるのはちょっとしたタイミングのミスだ。多分、オレたちの科学力はその瞬間の幸福量を最大化することが出来る。でも、それらが新しい何かを生み出すのかは知らない。知らなくても、まずは、それを率先すべきだ。それが生物であるのだから。適切なメッセージは、適切なタイミングでなければ逆効果だ。適切なタイミングでも適切な相手に伝えなければ逆効果。それらのコミュニケーションの発端であるオレが適切な心理状態であり動機があるのか。それが適切でないと結果世界が適切ではなくなってしまう。適切な世界で適切な自分で適切な対象とかかわりあえる適切なコミュニティでなんの苦労もなく適切に自殺したい。

9月18日(金)

生きていたい。生きていたい。目が覚めると畳の上で寝ていた。酒を飲みまくって正体を失っていたらしい。二日酔いはない。たぶん、お酒を飲みながらクスリを飲んだのでそちらの影響だろう。熟睡感はないが、眠気もない。ただ全身がだるい。見回す世界はコントラストがひくい。奥行きもない。のっぺりとしている。異常に拡大している自意識をこの世界に設置するには無理がある。スマホには燃えるゴミの日のカレンダー通知が来ている。ゴミを捨てなければ。オレはオレをゴミ袋をにいれて燃えるゴミに出す。

仕事を始める。胸が苦しい。イライラする。誰とも繋がっていない。Slackのチャンネルでメンション爆撃をしてまわりたくなる。Slackの雑談で自己を叫びたい。伝えたいことなどない。オレは存在しているのかを確かめたいだけだ。オレは死んでいてそれに気づいていない地縛霊ではないだろうか。誰にもあわず会話もしていないと、本当に世界が幻に見えてくれる。オレがオレであるままでいれるちょうどいいリアクションしか世界からは返ってこない。あまりにもできすぎている。マンガのキャラクターがこれは夢ではないかと頬をつねるように屋上から飛び降りてみたい。たぶん夢のような気がする。かぶりをふってバグ修正に注力する。吐き気がする。境界づけられたコンテキストを突破して私怨が依存性逆転して侵入してくれる。オレは大きな自己を牽制する。小さな自己にエネルギーだけに注力する。しかし、思考はもって三〇秒。大きな自己の侵入を排除できない。コンテキストスイッチが短い間隔でおこる。そのたびにメモリりジャンプしたり、ストレージに情報をスワップアウトしたり、ストレージからスワップインしたりする。そのあいだ、判断をくだす脳みそは虚無を味わう。人間という装置はほんとうに脆く、柔軟性がない。
デイリースタンドアップでも、数十秒ごとに頭の関心事が入れ替わる。連続性をもった会話をするのに苦労する。オレはチームメンバーに関心を向けることが出来ない。デイリースタンドアップととしては成立していない。ちがう、いまはオレ一人にしてほしいのだ。こんな汚れたオレを見て欲しくない。ゴミ廃棄されて回収待ちのクソみたいなオレを誰にも見られたくない。オレなんて死ねば良いと思う。でも死んだ方がよい合理的な理由はない。人に迷惑をかけても死をもってつぐなうほどのものはない。一切ない。死刑など無用だ。死刑を望むのは共感的想像力にだけ長け、論理的共感力が足りない日本人のみだ。そもそも死を以て償うという異常な常識はなにか? 今日もオレは自分が自死しない合理的な理由をしっかりを述べられる。社会に適応できず、社会的な決着がつけられないと、自分勝手な決着をつける。自死しない合理的な理由を考えるのは何の解決にもならないのに、それをすることで誤魔化そうとしている。誰にも見向きされないことを悩んでいるのであれば、でかけて誰かに話しかけてみればいい。恋活をするならマッチングアプリに課金したらよい。ストーカーになって好きな人に迫った過去を思い出してみればよい。内的には他者に対して病的な執着をしめせるのだ。それを抑圧して現実的に解決しなかったのが問題だとは考えないのか? 世界の人口はどんどんふえている。オレを理解できるような人間もそろそろ何人がではじめていいのではないか。でも逆に考えればほとんどに拒否されるわけだが、容姿や経済力でなじられるのはまあ心は痛まない。自他共に認めるやつだからだ。意識していない口調、しぐさ、奔放、性的嗜好、趣味、このあたりを本気で拒否されるとかなりのダメージがある。これが怖いから引きこもっている。脱衣を要求するときに靴下は脱がないで、という要求は周囲を困惑させることを知っている。はぁはぁ。それにオレが血縁に関する異常な複合観念(コンプレックス)はとくに関係をこじらせる。セカイ系はいまでも救いである。気がつくとデイリースタンドアップが終わっている。いや、おれが終わらせた。オレは午後休をとることを決断する。頭が使い物にならない。脳みそが暴走していて一貫した思考を継続させる状態にないことをさとる。一言でいえば役に立たないおれは死にたがっている。本当に死にたいという言葉が数十秒おきに想起されてくるのだからやっかいだ。そのたびに不合理な観念だと合理化するが、もはやそれにも疲弊して合理的じゃないとしても死んでもいいのでは? などと思い始める。ブラックジョークで済ませられる程度ではあるが。

午後休をとり脳みその過活動および暴走から逃れてるために、寝る。死にたいと思うならそれでいい。なんとでも思うが良い。死にたいの虚度は実際にそれをするまでとは遙かに隔たっているし緊迫もしていない。寝ようと寝ようとするが一向に眠れない。あまりにも腹が立つ。なんでこんなに勝手に観念が想起されるのだ。頓服で抗不安薬を飲む。これでダメなら病院に行こう。強いクスリが欲しい。

目が覚めると一七時を過ぎている。冷凍おにぎりを食べる。そして寝る。もう寝るほかない。寝て気を失いことは死ぬことの練習に似ている。違いはだた起きるか、起きないかだけ。