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去人たち開発ブログ

同人サークルK2Ceeが去人たち開発についての記事を掲載してきます!

K2Cee 忘年会 2016

 今年は忘年会と呼ばれるイベントが1つだけだった。ヤマシタさんから誘われなければゼロというところだった。忘年会という文化は残って欲しいが、あたしには関係の無いところでやって欲しい。酒を酌み交わしながら創作とか貧困問題とかアイドルとか文芸とか政治腐敗とか一番楽な死に方とかテロリズムとか美食とか環境問題とか性差別とかダークマターとか沖縄の基地問題とか世界のミリタリーバランスとか天気の話とか寺山修司の性癖とか、つまり、なんでもいいんだけどさ、着地点を求めない空中戦がしたいんだ。それが「忘年会」でしかできないなら、忘年会は必要だ、ゼッタイに。だけどそれが年末で行わなければならない理由はなさそうだ。いつだっていいじゃないか。そう思っていた。でもそうはいかないのかもしれない。溜まったガスは放出しなきゃあならない。あるラインを引いてそれ以前とそれ以後と。それ以前にガスを放出して、それ以後はうまくやらなきゃならない、というわけである。そういうことなら、いいじゃないか、いいじゃないかと思うが、ご存じのとおりそんないいもんじゃない。油断してゲロったものから来年の処遇は方向性は決まってしまうという恐ろしいイベント、それが忘年会。それでその組織で生きるか死ぬかが決まるだって? 馬鹿げている。
 くだを巻いて卑屈になって権威にかみついて、ひっかんだり、やっかんだり、ケチをつけるだけつけて、それでも来年になればそんなことをいったことはけろっと忘れる、そういう精神科領域では特異な文化的健忘をやってのける真の忘年会をここでやってみよう。残念ながらこれから先はしらふの読者はご遠慮していただきたい。忘年会会場は超法規的扱いでアルコール血中濃度が0.1%未満の方の閲覧は禁止されています。大変お気の毒ですが。え? 未成年? 未成年はお酒飲んじゃあだめです。お酒飲んだらダメだし、罰則もあるかもしれないしないかもしれない。

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去人たちレビュー応答:最終回

まえがき

さて、我々が広大なインターネットを巡回してなんとか拾い集めてきた「去人たち」のレビュー応答もこれが最後です。
「去人たち」を公開して十余年、我々が到達可能だったレビューの数としては多いといえるのか、それとも少ないのか。
我々は、「99人が下らないと言っても1人が喜んでくれるなら、そんな作品で良いからつくりたい」などとロマンチックなことをいっていた。このロマンチックという言葉で表現したかったことはかなり周囲に叩かれた覚えがある。ロマンティシズムが活発だった18世紀末だったらポピュラーな作家というカテゴリに属する事も可能だったかもしれない。しかし今ではロマンチックと言わない、ただ敗北主義者たちと我々は呼ばれた。我々は、然り、といって甘んじてそれを受け入れた、受け入れたように見せかけた。我々は価値感をこえる必要があった。価値感をこえれば勝敗も一つ下層の意味に分解されてある一つの構成要素になるからだ。「敗北主義者たち」はある物語の中では妥当性があるが、別の物語ではクリエイターだっていいだろう。ロマン主義の代表作を例にとろう。若きウェルテルが能力者でサイコキネシスをつかったトリックで恋敵を殺害してもウェルテルは物語の中で死ぬべきなのだ。ロマン主義の構造においてはかくあるべきだ。
我々はそんな思い込みを信じ我々については未定のままに創作を続ければよかった。必要以上に卑屈になる必要も無く、我々は「何ものでも無いかも知れない」という仮定を常に念頭において創作を続ければ良かった。いま思えばそれこそが「去人たち」をつくるためにもっとも必要なことだったと感じる。

レビュー応答最終回

eroge-pc.hatenablog.jp



多くの感想を書き残している猫箱ただひとつ氏による去人たちのレビュー、考察記事。全力でレビューしていただいたので全力で応答しようとしたが挫折した。一度は全力で応答を試みたが、マニアックすぎ、偏執的であり、それはいってみれば日記であった。そこでいまより改めて書き直す。レビュー応答するときにここまで気を遣うのもおかしい気がするけど、これはkow@suhitoのレビュー応答である。あたしによるレビュー応答、などといちいち書いて応答しないといけないのは、少しだけ愉しい。


このレビューは記事冒頭にあるように「作品"内"のみで完結しようとする語り」ということだ。この但し書きをつけられたら、あたしはそれ以後の批評について語ることは殆どなくなってしまう。物語の解釈についてはあたしも改めて気付かされる部分も多く、納得できる部分が多かった。あたしが @lice と酒を呑んでいるときだったら、こんな風に突っ込んで聞きかったぐらいだ。それらの批評について、氏も覚悟の上かもしれないが「作品"内"」というこの前置きは「作品"外"」との関係性を断絶せざるを得ないという別の物語を想起させる。……ってここで爆笑できるかどうかが「去人たち」のポイントかなとあたしは思う。あたしも爆笑はしてないけどね、ちょっとニヒリスティックに苦笑しただけ。でも、それは愉しい体験。冒頭で「内」と輪郭を作ってしまったら「内でないもの」を期待してしまう。あたしも「内」を意識すると同時に「内でないもの」の残像がなんどもよぎりつつこのレビューを読み進めた。


去人たちは「作品内」というときにその内にある言葉を誰も説明しない。我々も、@lice もあたしも。でも、氏の感想は説明しその組み立てを明らかにしてくれている。正直、これは物語の中で暗黙的に組み込み説明すべきことであろう。それをしないのは意図してのことかそうではないのか。あたしはそう思う。よくあるシナリオ講座でも「説明台詞はNG」というのは基本であり、それはその語りが物語の中での合理性しか持たないことを読者は即座に見抜いて作り物なのだと強く意識して興ざめしてしまうからだ。それは読者は物語に対して一方的にロールプレイを求めているからだ、とも考えられないだろうか。そこでの読者と物語の間にあるコミュニケーションは不全ではないか。その関係は従属的であり単方向であり、それぞれ交叉しないディスコミュニケーションがその痕跡だけを残す。今の時点において「一般的な物語」との関係をいったん解体しようとするとき、「説明台詞を求められつつ一切答えない」というやり方が固定された虚構を打破する一つの手法であると思う。それはいかにも粗野で趣もなく直接的だと思う。粗野で趣もない現実を文学は受容しやすい形で提供してくれる。あるときは脚色をしても。あたしは読者を直視するのも読者を完全に無視するのも同様に「メタい」ように感じうる。だからあたしは去人たちをツンデレ似非純文学の類いだと思っている。第一にはただツンデレなだけで、それが純文学の形式を借りたまがいものとして似非純文学をやっている。デレの要素は、虚構の読者だろう。作者は読者のレビューを経て苦笑しながらもデレデレとしただらしない顔をして「べ、べつにそんなつもりでつくってないよ」までが一つの形式になっている。そしてその読者とやらはたぶん実在する必要がないんだと思っている。作者の実存や読者の実存や世界内存在としての「虚構的実存(矛盾)」を含めて、クチャクチャにしてそれが最終的なゴールだと思う。すべてをうっちゃった、ということはないとおもう。そのクチャクチャの中で愉しんでいるんだと思う。想像だが、読者と作者は対等である、というところを越えて、可換ですらあるのだと、そこまで言っている気がする。


さて、あたしの前書きは終わりだ。ひどい前書きだと思う。あたしはふとすると露悪的になってしまうことがある。あえて去人たちの悪口を言うようなことはできるだけ避けていきたいと思っている。
――さて、
――冗談はさておき、
――それでは、
――閑話休題
――いやしかし、
――誤解があることを承知しつつ
――あたしの社交辞令能力を試すために
さっそく応答していこう。

『去人たち』はナニから去ろうとしているか?


個人的にいまでも考え続けている。去るということはどうことであろうか? まず、それを考察しておきたい。そもそもこの作品は「巨人たち」、「虚人たち」のパロディでなんだから、「去人たち」というタイトルもただの言葉遊びと考える事もできるだろう。いやいや、そうじゃない、そこには合理的な意味があると考えることが妥当なんだろうか。あたしは前者だと思っている。去人たちⅡは「巨人たち」と「虚航船団」を足して二で割っただけ。だから去人たちはSF同人作品なのだと思っている。監視者からの解放などどいう言葉も「巨人たち」のパロディだし、章立てと構成はまるっきり虚航船団のコピーである。あくまでも基本にあるのはただ「巨人たち」「虚航船団」あるいは「虚人たち」が好きというファンによる二次創作だ。その熱意は多少普通じゃないところがあるが、ただ、それだけ。尋常じゃない熱意が良い作品を生むことはあるかもしれないし、それが文芸として優れているとかエンターテイメントとして優れているのか評価されることもあるだろう。でも、ただそこにあるのは「キョジンたち」ファンによる二次創作だろう。あたしはいま、身勝手にしたり顔で自信満々に言う。「巨人たち」と「虚航船団」の二次創作とはそれらから派生した単に副次的な作品なのか、それとも @lice による独自の要素、創作物が盛り込まれているものなのか。


うむ、「去人たち」はそれらの焼き直しであり、二次創作といえる。既存の文学理論を援用しながら読者を少しずつ教化し、その結果得られる効果を超虚構的構図の中で「去る」というキーワードで象徴しているのだ。


なるほどなるほど。いやいや。でも……、でも……?
……あたしは結局わからなくなる。分からなくなって、いまも去人たちについて語ることは困難を極めている。つまりある共通的な価値感のもとで匿名で評価することは容易いことになっていると感じている。そして、去人たちはそれをそれといわず封殺したように思う。今日では、大概のことについて何も思わなくても語ることができる。でも何か強く思ったことは語るのが難しい。


つまりマニエラ患者はこの世界で粛々と生きるのではなく、よりよく去るため生きるための原則を変えてしまった存在ということだ。よりよく監視者から去るために生きようとしている生物である。


監視者は読者とか超自我の比喩とか言い出すとめんどくさいんだよ、文学ってやつは。よくあるギミック、外部構造と内部構造が入れ子になっているという、構造的なお遊びである。つまり、「巨人たち」における唖のボゴは……(うんぬんかんぬん) たぶん、超自我は世界によって監視されてるなっていう多重レイヤーにしたらSFっぽいし、重層的な物語はそれを説明しなくてもそれっぽい世界感を勝手に醸成してくれるよね。二次創作って原作のノリと勢いのままに、雰囲気のベクトルをほんの少し変えてよろしくやってくれる作品だと思う。たぶんノリと勢いの部分だけに K2C と小さく(c) しても良い記述が紛れ込んでいる気がする。

虚構世界を自覚するキャラクターというのはとても魅力的だと思う。当時も作中人物が視聴者や読者、プレイヤーに語りかけるシーンは行き過ぎない程度であった。それは人の生命を脅かす類いの禁忌ではないということと、作品と受容者の緊張を緩和するという点でも許容されていたと思う。ただし本編を逸脱しない範囲で許容されていた。そこにメタフィクションという用語でパターン化されるとその形式だけがコピーされはじめる。その形式にのっとっている作品を読んだら、自分を見失って頭のネジがガバガバになっている人間でさえあれば、ハイデガーを読んでいなくても実存を試してみたくて投企したくなっちゃうような作品が量産されるようになる。精神分析的アプローチや実存分析的なアプローチは90年代後半でホットな内容だった。だからこれも手法として単に使用されているだけだと本来の意味を失いはじめた。作品は細部に至るまでなんらかの形式で形作られていてそれによって解釈される、理性を越えた部分を含めて。では、歌穂の言述をどのように解釈するべきなのだろうか。去人たちⅡにおいて、歌穂と患者たち、そして男はなにか違う規範で動いているように見える。それらは独立して牽制し合っているようにも見えるし、階層構造を成しているように見えるときもあるし、部分的な相補関係に見えるときすらある。これは読者としてのあたしが作者が期待した混乱に巻き込まれ結果、そう感じたのだ、という評価が正しいと思っておけばいいんだろう。でも不思議なのは、何故歌穂が最終的に男とセックスしようと「発話」しなければならかったのかというところな気がする。歌穂は男とセックスしたいという欲望があったのか、それともセックスしなければならないという義務感があったのか、去人たちファンのみなさん、なぜ歌穂はそこでセックスを望んでいるんだと、声に出して男に伝える必要があったんでしょう? 精神分析アプローチをモチーフにした作品だから理由があるんだと思うし、ただリビドーという歯車を揶揄したいとか実はそんな理由かもしないし、もう考えるのやんなっちゃうよね。男の返答が関係性を少しだけ説明してくれているんだと思う。男にとって歌穂は死んでいて、歌穂にとって男は「対象」ってこと。その男の言い分においては、っていう但し書きはここでも必要だけど。


あたしがよりどころにできたのは「ブリスケット」だけだった。「ブリスケット」は形式の実装として使われたひとつの道具――それに反論したいけど説得できるような説明はできないし、うまい言葉も見つからない。


虚構世界を自覚するキャラクター達

生きるための原則を変えた結果が、「系統だった妄想を持ちながらもその妄想に価値を抱いていない精神病者」であり、その妄想によって自らの存在を異化させ、異様で未決なものにし、プレイヤーに判断不能な存在と知覚してもらうことを本意としているのである。さらに言えば、自身の極大にまで構築した妄想を遂行するため欲動エネルギーを使用し死んでしまう者なのだ。

あたしもこの点については読んでいて思った。設定や考証は「パプリカ」も影響しているんだろうなと理解していた。前述の通り90年代の作品ってゲームや小説において「メタ発言」は禁じ手という風潮はあったけれども、同時にそれを愉しむ読者がいた。当時はまだ「メタ発言」という言葉もない。メタフィクションという垂直方向の視点がうけいられてその後、「メタい」用語が一般に受け入れられていった。去人たちがここで虚構をあえて意識させるのは技術的な形式であり、そしてこれは二次創作として筒井康隆の引用程度だろう。「手法やら意味やら形式をころころ入れ替えて何を考えているんだ、この作者は」などと思ってもらえたら、それで良かったのかもしれない。っていうか、そもそも読者に何にも期待していなかった、なんていうと話が続かないのでなんとか想像を膨らませて続けていくよ。「系統だった妄想」って、合理的で説明可能な妄想ってことかなって思う。それって妄想っていわないんじゃない? なんか、マニエラ患者って殉教者っぽくみえるんだよね。なんとなく。その意味では歌穂は殉教者ではないんだよなあ。歌穂の説明の部分って他に比べて手抜き。SF小説ってこのへんもうちょい書き込むんじゃない? SFって専門家が読んだら噴飯ものっていうのが多いけど、もうちょっとほしかったなあってあたしは思う。設定や考証のほつれ、矛盾を読者に指摘されるのを怖れた? 誰が? 作者か? 歌穂か? 可能な限り合理的な世界であることが去人たちに必要なはずなのに、なぜここではそうしないのだろう? ここは必要な設定や、考証をつきつめて合理的な説明されるべきじゃないかな。あれ、なにか、去人たちの罠を感じてしまうな。こわいこわい。


『去人たち』は理解なんて求めていない


いやいや、去人たちⅡは意訳すれば『去人たち』は理解されうる、ことを見せていないかな? 直訳とか戸田奈津子版はたしかに読者拒否なんだろうけども。

しかし本作が唯一求めたのは、プレイヤーの「物語の見方」の変革だったのではないだろうか。

ショック療法的に物語の読み方というのを破壊して、物語とは何かを問わせるんだ!! 「去人たち」ってほんとうにそんなふうに見えるかな。否定的ってことじゃなくて、それはしたくてもできるのだろうかと、ずっと思っていたことだから。否定できないだけどももしそれがしたいんだとして、1つの仮説をたてて思考実験していこう。

「去人たちがやろうとしたことは、文学理論の講義をSFエンターテイメントのなかでやろうとした」

というまとめかたがあったときに簡単にはうなずけない。個人的とか、あたし的にとか、連呼しているせいでわたしたちの発言はどんどん希釈されてどこにも到達しない言葉になってきているようなきがするんだけれども、それはできるだけ無視して続ける。去人たちⅡは二次創作なんだ、そこに新しいもの、独自の解釈が追加されたりはしていないんだ。文学理論、精神分析の専門用語を多用し、異化し、消費者の判断力を喪失させることで一般的な価値感と比較して不相応な評価を集めたとして、公正取引委員会は去人たちの制作者と販売代理店を摘発しました、と夕方のニュースで流れるほうが釈然とする。どういうことかというと、去人たちⅡを語るときに、あたしはそのものについて語るのが難しいのだ。その理由は専門知識や読解力によるものかもしれないけれども、その一方であたしは架空のエピソードで去人たちⅡを理解することはそれほど難しくない。そこには良心だろうと、悪意だろうと、主体が見え隠れしている、それが大事なことなんだと思う。
幾重にも積み重なった平坦な地平は無限遠まで広がっている。そこに2つ以上の虚無的空洞があれば、去人たちは作ることができそうだ。新しい地平が積み重なればそこからまた去ろうとする何ものかが居ても不思議ではないと思う。

さいごに


以上より、去人たちというミステリーをささっと読み解くにあたって、どうすれば真実に辿り着くのか。それはミステリーの基本に立ち戻れば良いだろう。つまり去人たちを作ることで誰が得をしたのかを考えること。作者か? 読者か? あるいは両者とも? 主犯は作者で読者は共犯? あるいはその逆? 歌穂? 男? マニエラ患者?
個人的には確定的な言術はできないことを確信している。だから、こういう標語で締めておく。

去人たちは遍在する――――??


巨人たち (1976年)

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虚航船団 (新潮文庫)

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虚人たち (中公文庫)

虚人たち (中公文庫)

パプリカ (新潮文庫)

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去人たちレビュー応答:その9

メンヘラが力場から解放されて語る場は失われたよね。lain の中で示唆されていたネットのディストピアが本当に実現した、きちんと。
メンヘラは会員制のサロンで閉鎖されたブログを書くか、非ワイヤードのマテリアルな日記をしたためるしかない。そして後者こそが至高の自慰行為である。
いや、何を問題化したいかっていうと、ブログという虚構と小説という虚構と虚構の境目の複雑化がもたらした功罪についていつか語ろうぜ、お前ら! ってことである。

さて、今回のレビューはこちら。
毎度のことですが、レビューアの方に許可は一切とっていません。そして、今回はマジでメンヘラっぽく支離滅裂でいこうと思っています。攻撃的で自虐的で最終的にはこういう記事を書いたことを後悔して日々を過ごすタイプのやつをやらなければならないと思っています。

今回のレビュー応答記事
Free AVGの感想

システム面のダメだしって当時からさんざん受けていた。とくにセーブについては開発者からも増やしたらいいのにといわれつつも増やさなかった。ひとつの理由としては、私たちにとってしおりを複数挟んで本を読むという体験がなかったからだ。もちろんこれは「しおり」の問題ではなくて、読み返す方法がないことに対する問題なのは知っている。しおりは1枚でもいつでも読み返せて、そしていつでもしおりの位置に戻れるのだから物理的な読書では問題が無い。だが去人たちはもどれる場所も制限されつつ、しおりの場所からの再読を強要されるわけだから、そこに異論がでるのは当然だと思う。

ただ、わたしたちは次の二つの違いはわかっていたつもりだ。分けて考えている。

  • 既存の読書体験が、去人たちというノベルゲームでできない
  • 既存のノベルゲームでできることが、去人たちというノベルゲームでできない


このうち、後者については一切どうでもいいことだった。つまりなんどか同様の選択肢を経て、新しい分岐が発生するという当時のノベルゲーに対して強い反論を持っていた。今現在では便利な言葉で説明できる。たとえば、アンチポストモダンであったり、アンチ動物的ポストモダンとか、そういうことである。家内制手工業のノベルゲーを現場レベルで実感したときに、このやり方はきっと物語を衰退させるのではないか、的な危機感をもっていた。
とかなんとか、後出しでいうのは簡単だけど、これ、ブログに書いちゃうと、「去人たち」という作品を切り売りしてるみたいで大っっっっっっっっっっっっっ嫌いなんだよね。だから、こういうの書きたくなかったし、印象批評でいいし、自由にやったらいいと思ってたわけ。でもさ、印象批評ができる神様だってパチモン使いされるって lain は暴いててそれは愉しいわけ。これは形式の転倒ってあるよねっていう学術的な閉じた議論じゃなくてもっと展開していかないとっていうふうに思うよね。必然的にさ。物質と精神の間の神であったり、神と人間の間のキリストであったり、そういうものがさ過渡期はには必要だって思うじゃん。幼年期の終わりだってそういう緩衝的な時間が必要だったっていうお話だよね。


以上を踏まえて、反省するべきところはした方が良いと思うが、以下については今でも後悔していない。

セーブ3つもあるんだから、むしろこれは妥協だ! と思っていたぐらいである。
去人たちにセーブは不要とすらおもっていた。

こんなことを書くと同時に下記のような妄想が頭の中を占拠する。

インタビューアー:
バックログやセーブが増えたことで好印象を受けました。どう思いますか?」

K2Cee:
「読書体験をデジタルでしたいならそれでいいんじゃないですか。渠らがそれでいいなら」

みたいな、インタビュー記事が載る。もちろん、上記は想像の中だけであり、現実にはこうはいかない。日和ったうえに、「ユーザが喜んでくれてなによりです」というにきまっている。そんなことをいう自分が想像できる自分なんて最高に大嫌いだ。

ちょっと、応答がおろそかになってしまった。続けましょう。

とにかく誤字の多い事には閉口。スタッフの人達は、書きっぱなしで読み返していないのでしょうか・・・。
 少し誤字がある位は愛嬌ですよ、私なんかとても人の事なんて言えませんし。でもこうまで多いと、すらすら読めないですよ。改行も少ないし(人の事は言えんか・・・)。
 漢字もね、読み辛いのを使うのは文章スタイルとしてカッコいいのはわかりますが、・・・読めますけど読み辛いんです。全体的に実験的作品という事で、こういう部分も実験の内なのかも知れませんが、読者が読む時の事を考えないで、勢いで書いちゃってるような気がするんですよね。そこだけでも改善されればかなりの人がたっぷり去人たちの思いに浸れて楽しめるのに、凄い残念です。

誤字脱字はまじで誰も気付かないという、奇想天外な状態だった。これは昔から申し訳ないと思っている。正直、読みにくいのはしょうがないとしても、誤字脱字は反省している。
あと漢字のルビがないのは、システム上の問題で、前に言った創作的などうこうではなく技術的問題です。かっこで読み仮名入れるのだけは反対されたので。でも、ひらがなにするよりは漢字のままで、ということになった。
あ、読めなくても漢字のままでいいのです。そこはね。そういうこともわたしたちの読書体験としてプラスであったから、という程度の理由で。

実験的なのは特にシステムの勉強と言う意味で強い印象を受けます。逆に言えば、ストーリは二の次って事なのかもしれませんが、ストーリ自体はシステムよりはるかにハイスペックである点が何とも皮肉。ツールで展開してくれればもっと完成度が上がると思うのは私だけでしょうか。

フルスクラッチD言語や、Csで書いた kow@suhito のプログラムが気にくわないって? なるほど、なるほど。
キミの言うことには一理も二理あるけれどもだ、ノベルエンジンをさ、フルスクラッチで書く経験ってなかなかないわけなの。何が面白いって、まずパーサを書くことね。パーサ書くってまずないから。そしてシナリオって状態をもつわけでだからさ、状態管理するでしょ、そして、その状態に対してビューがあるわけ。もうね、ゲームプログラミングの基礎がすべてはいっちゃってるんだよね。ゲーム業界でプログラマやりたいっておもったら、これは最高のゲームだと思う。まあ、正直アクションのほうがゲームプログラミングの習作には向いていると思うけどね。

完全版Ⅱβの感想:βですが、最後までちゃんとプレイできました。良かった、いや去人たちそのものがね。結局、完全版Iに対するこれはメタフィクションだったのか、・・・いや、逆か。完全版Iがメタフィクションなんだ。

去人たちⅠをプレイした後に、去人たちⅡを高評価いただく希有な例だと思っている。
前作が「不本意に評価」され、それの反動で……みたいな芸術家あるあるみたいな話だったら、いいのだけれど、前作が不評だけど、それは我々が日和っていたからでもっと突き抜ける必要がある、というタイプの開き直りは同人ならではというところなんだ、と自分で言っておこう。といいつつもわたしも「去人たちⅡ」は去人たちⅠの応答としてここまで皮肉ったものはないなと思った。正直、もっと物語的な絡ませ方はあったのに、分断させたのではないかと思っている。これは@liceしかしらないので、わたしも想像でしかこたえられない。ただ、個人的には lain 以後というときにはすんなり受け入れられた。

★2007.12.25:この嬉しさをなんと伝えれば良いのだろう。ムービー見れた!かっちょ良い映像!極度も達成した!そん時何点だったか忘れてしまうくらい嬉しい。サンタさん有難う!

おめでとうございます! あの音ゲーはわたしの勝手な一存でつくりましたが、ご堪能いただけて大感激! なぜ音ゲーなのかということについていつもご質問いただきますが、いまのうちにいっておきますね。
去人たちⅡのエンディングを見ているとき、それはあなただけのエンディングなのです。

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去人たちレビュー応答:その8

前置きは抜きで行く。

だから、去人たちをプレイした多くのプレイヤーはレビューを書こうしなかった。


こういう、結論でプログを書いたら、静的で価値のないコンテンツになるだろうと安心している。さて、書いてみようか♪


blogs.yahoo.co.jp

長い時間をかけてヤケクソで最後まで読みきった。

切らずに最後まで読んでいただいたことには感服する。おそらく前評判があったらこそだと思うが、むしろもうしわけないという気持ちがある。
前評判をもとに、がっかりした映画を見たとき、アルバムを視聴した時の気持ちを私はよく知っているつもりだから。
時間や対価を支払って消費するコンテンツに価値がなかったときの絶望感は皆が知っていると確信している。
とくにコンテンツの中には最後の最後でコンテンツの評価を覆すような大どんでん返しでその作品を成立させるようなものがあるので、切り捨てずに最後までやってしまう場合があるが、ざんねん! 去人たちはその手の作品ではありませんでした! という応答になってしまう。


当時の状況において、ノベルゲームをやっていればいるほど、去人たちにははまり要素はないだろう。あらゆるノベルゲームが出てきた中で文学的な挑戦は一切無視されていた。筒井康隆が文壇から無視されていること書いたエッセイを読むのが好きだった。「あんなに面白いものは文壇などという権威から無視されているのだから、わたしたちが個人的に愉しんで応援しなれば」みたいな少々やっかいな勘違いすらしていた。

しかし、そのわりに読んでいてあまり楽しくない。とにかく、無意味に難解かつ読みにくい文章が、ひたすら延々と最後まで続く。

実は、この現象、わたしもよく分かる。貧乏性で最後まで読んでしまうが、「良く最後まで読んだね」といわれることがある。思想・哲学書では良く或る話だけど、近代の文学では有名どころでもそういうのが多くて本当になにもわからないのに、最後まで読んでしまうことが多かった。
たとえば当時、「ねじまき鳥クロニクル」は理解できなくて愉しい作品だった。「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」から「ねじまき鳥クロニクル」という文学的事情はおいておいてもこれは愉しい体験だった。正直、わたしにとってはこの体験があったから、大江健三郎のような作品を読めるようになった。そして、文学とはなんなのか、ということすら、やっと考え始められるようになった。


セカイ系とはなにか! などと深くが考えていなかったのだけれど、非合理的な事で空想的で非現実的でありえないことが、虚構の中で起こることに恐怖を感じなくなっていた。超虚構という概念によって虚構が解放されたこともあるが、これはまた別の機会に。


最後に。
直感的に相容れない作品を最後までやって得する確率は、3割。ごく控えめに言って。


ねじまき鳥クロニクル〈第1部〉泥棒かささぎ編 (新潮文庫)

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去人たちレビュー応答:その7

投射とか合理化とか楽しくて愉しくて仕方ない。いやあ、人生って最高である。
どうも、kow@suhito14歳です。
いつもこの導入の枕詞で多くの読者を失っている気がしますが、個人的にはマストなんですよね。サイコー!


さて、今回のレビュー応答はこちらです。

去人たち完全版sh1n5ke.wordpress.com


このレビューに対しては

「本当に残念です。次回作の参考にさせていただきます。」

などと、弁えた応答では生ぬるいわけです。


というわけで、応答していこう。
このレビューの登場人物だが、良い感じに簡潔にまとまっている

  • レビューア
  • 2ch小賢しい投稿者
  • 一般的なプレイヤー像
  • 仮想のメンヘラ友人


去人たちをつくっていいた私たちこそが、このレビューアの立場と似たような場所に居た気がする。
当時わたしたちは、エヴァというコンテンツに対するカウンターコンテンツがたくさんでてきた、というエヴァをオリジンにすえた解釈を愉しんでいた。カンターコンテンツの多くはベクトルを多少変えるものだったが、「位相変換」(我々の言葉で深い意味はない)という大胆な手法もあった。少なくとも私たちの肌感覚ではそうだった。
去人たちも、そのような「位相変換」のようなコンテンツたろうという気持ちはあったのだと思っている。


という、まどろっこしい前置きをして応答していく。

2ch理論武装したカキコをよく目にしますが、
ああいう感じで世界と設定を表現しちゃうと、
こういう病的なものになるんだと思う。
たぶん、悪いものではないんだと思う。
間違っても、理解できたとは言えない。

去人たちという作品が、世界と理性と自我の中で葛藤してたからってさ、しったこっちゃないわけで、何が超自我やねん!って話。
ラカンの説明をしたってみんなあっけらかんとするしちゃうわけ。
















wwwwwwwwwwwwwwwwww
















大阪に来てからなおさら、笑いのセンスに自信がなくなったkow@suhito14歳です。


ゲームやる人のことを考えてないんだろうと、思った。


これ、本当に考えてないだろうとおもう。事実考える必要が無かったし、考えることで作りってる側が愉しくないならそれを採用する理由は一切なかった。オナニーの中でももっともフェティッシュな独善的な出力形式である。だから、このレビューに対する応答は、尤も! という一言になってしまう。
これだけだと感じ悪いので、印象操作を重視するkow@suhito14歳は、あいすみません、と謝罪もしておこうと思う。

「オレ、小説書いてみたんだけどさっ!
 オマエ、本とかよく読むし好きだろ?
 ちょっと読んで明日感想聞かせてくれよっ!」
って精神病んでるメンヘラなダチに強制されているようなもんでした…。

わたし個人も同様の感想である。そりゃ、去人たちⅡの文章をいきなり渡されてみろっていう話である。
いや、パロディにせよ、あそこまでガチでパロディするとあれはもう、病的といっても差し支えないわけで。パロディだと知っていてもよっぽどなのに、そうでないプレイヤーはあっけらかんである。らかんらかん。


まぁすごいな、って思った。これはすごい。
すごいな、と。


去人たちは一般的な価値はない。しかし、その無価値は無駄と徒労とオナニーでできていて、その無駄なアウトプットがすごいのだと理解した。
そんな無駄なアウトプットはすごいという評価はうれしい。わたしたちは価値を決める立場にないのだから。



新しい文学のために (岩波新書)

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