去人たち開発ブログ

同人サークルK2Ceeが去人たち開発についての記事を掲載してきます!

“現実”と“虚構”というように並置されるとき“誰が”笑う...?

ニヒリズムの蔓延は、作品の評価にまで及ぶ。
ある一定の作者は、自意識の吐露、誇大妄想、自慰的感傷、こういったものをそれを意志として、快不快、善悪、優劣を超克して作品として折り込むことをする。
これを直ちに評価に値せず、というのは本当にニヒリスティックであろう。


読者の目は疲労困憊し、さらにそれによって自分自身を疲労困憊させている。
いま同時代の読者として、大正、明治の生まれではないのだから、そういったノイズまみれ―こういった意味合いであると想定して―小説の叙述に否定的になるのはアナクロではないか。
個性を奪われた自分自身の怨恨を外に投射しては、対象にむかって個性ゼロを強要する。
あなたは、いま、どんな地平に立っているのか?
その良く出来た認識は、一体何の目的の認識なのか。その理性は誰の理性なのか。
世界を見渡す玉座に座って、一体なにを瞰視しようとしているのか。
自意識の吐露、誇大妄想、自慰的感傷と認識した上でそれを外に向かって非難するやり方は順序を取り違えている。それを非難しようと欲するなら、まず今自分が立っている地平の"未知の領域を再訪"し、その道々で多くの目撃者を殺すことをしなければならない。そこで、まだその自意識の吐露、誇大妄想、自慰的感傷を含むものが作品の趣を保っているならば正々堂々非難できるだろう。
そのとき、あなたが今、どの地平に立っているか。そのトリックによって自分は死ななくてはならないと衝迫するとしたら、その好機を逃さず今立っているところから、荒々しい曠野に踏み出していく選択ができることだろう。その先では、自意識の吐露、誇大妄想、自慰的感傷なんていう“おぞましい”ものとは出会うことはない。