去人たちの外側
去人たちを作ってきていてるわたしは、去人にいろいろなことを思っている。
つい、数ヶ月前まで去人に腹を立てていた。
でも、この制作の中で、わたしは大切なことを学んだように思う。
制作している人がいるということの意味は、それは言葉にしてはいけないぐらい重要なコンテクストが潜んでいる。「ヤハウェ」だってはじいって、穴に隠れるぐらい重要な意味が隠れている。
去人たちがどのような単語で構成され、どのような物語を写しだし、どのような生理学的反応をもたらし、どのように意識の表層に立ち現れるのか、という考えは、これからも考えなくてはならないことだろう。
これは必ずしも制作者の特権というわけではないと思っているが、去人たちはWindowsの中だけで立ち現れる類のテクストではない。より十全に去人たちが立ち現れるのは、今この開発現場である。またプレイそれ自体が開発現場へとレベルが下降する。
去人たちが拒絶した、認識は、「去る」という行為の中で、ペシミスティックに実践されただろう。
去人たちはそのテクスト自体が、すべてを書きつづりたいという欲望を保持したまま、継続的に冷笑する。
「で?」
去人たちは、まるで自分がノーベル賞確実とでもいうような発見をしたとでも言いたいみたいに、すべてを置き去りにして躁状態で再生し続ける。何度も何度も同じ位置に、同じ単語を、同じシチュエーションで再生し続ける。何度でも生まれ何度でも死んでいく。
去人たちは「生きている」がために、不毛で意味のない拒絶を繰り返す。だが去人たちはそもそも「生きていない」。その対立は解消されるべきであり、去人たち自らがその境界に明確な線を引き、どちらかの領域に立たなければならないと感じている。99.99%左側に属しているなんていうのは拒絶し続ける。左か右、どちらかしかないのだと意欲している。去人たちは、この対立を了解しながらも決して、どちらかに100%身を置くことはしない。それは拒絶し続けるためであり、記号という惨めな位置にあるからなのだろう。去人たちのテクストは、去人たちが自身で綴っているのだという否認。否認をやめて受け入れてはならない記号。記号の否認。記号を受けれればそれで終了なんだという苦痛。去人たちが記号であれば、そんな苦痛はない。
そこで「時間」に手を伸ばした去人たち。手は「時間」に限りなく近づく。手が触れるか触れないかの極限の至近。
ユークリッド空間で点が空間を占有した瞬間、その大系は根底から崩れ去るというのに...