kowさんは天ざる大好き

創作に絶望すると、世界が反転した日記

連続した創作

1ピクセルのズレも許されない創作が増え、そしてその表現媒体の解像度は増加の一方を辿っている。
メディアは今後もどんどんと解像度を増し、それは生理的な限界を超え、実存にとって無意味なまでに向上していくだろう。
生理的な知覚を超越した超感覚のためのデバイスが登場し、肉体という制約を超える時代がやってくる。それは楽しい虚構ではなくて、十分に到来を予感しうるリアルな未来である。

その状況は「去人たち」という古い作品にとって不愉快な状況になってしまった。
「去人たち」という作品に超時代性はない。500Gbpsの海底ケーブルはいま現在では容量不足で、2TBのメモリはオーダーをペタに変えてもいいのではないかと思うほどだ。
自己消尽を免れたとしても、ただ、個として、そこで見苦しく右往左往している。去ることもできずに。

だから、「消尽されない作品」を今のうちに創らなくてはならないとおもう。
私たちは「消尽されない作品」を「作ることができない作品」と絶望しているわけではない。

「去人たちⅠ」でやってみたことを、「去人たちⅡ」で越えようとした。
その試みは本当に分かりにくかったし、成功はしなかったと思う。けれど、その「抵抗」とその「結果」については、評価を抜きにして説得力があった。
「神」が死に、「物語」は失われつつある。そして目の前にあるのは「ヒューリスティックス」という「機械的物語の変形」だ。


「主題は何か」とそれを書いていない誰かが設問を作り、それに答える誰かがいた。
ポストモダンとかなんとかいわれても、いまだ其れは終わってはない。設問はつくられ、答え続けられる。それは何某かの都合であって、常に正しい答えがあるわけでもない。


「たまたま評価される作品」や「運良く口コミで広まった作品」はもうなくなる。
であれば、そこにどのような議論を差し挟む余地もないものを切に望む。良くも悪くも――