kowさんは天ざる大好き

創作に絶望すると、世界が反転した日記

10月16日(日)

前日は、コロナで亡くなった近親者の葬儀だった。

葬儀というものは、いまだにどう振る舞えばいいのかわからない。
自分は感性が鈍くなっているのかもしれない。あるいは一般からみて認知機能がブレているのかもしれない。はたまた、人の心を持たない鬼の類いなのかもしれない。

殺したいほど憎んだ人も、尊敬する人たちも、なんとも思わない人たちも、死ぬ。
自分がどう思うかは、関係は無く、ただ死からは逃れられない。
偶然に生きていて、偶然に死ぬのだな、と魂が脱力した状態で、ああ、そうだそうだ、死ぬとは死なのだ、と無意味に反復しながら、意味から遠く離れて死を死のまま正しく受け止めようとはする。うまくはいかない。ただ、あまりにも理性的であろうとするばっかりに、ズラすことで視差から死を固定化させたくはないと、なんとはなしに思う。

昔から葬儀でうまく振る舞えない。
人間をやっていると不安になる。死を知っていて、そこから逃れるために虚妄に逃げ込む。その虚妄に没頭していても、油断をすればそれが死からの逃避の結果、いまここにいるのだったと気づいてしまうことがある。
そういった虚妄は理性的に理性を抑圧した結果でしかない。本質的には何も解決しない。

「悼む」とは個人的なことで良いと決めた。他人がどのように「悼む」かは考えないようにした。
葬儀は生きている人間のためであると決めこむ。

経過をチラと聞く。
意識がある状態での呼吸苦の訴え、さらに意識レベルが低下してから呼吸反射の状態、最期もモニター越しの立ち会いのみ。
限られた親族のみが防護服を着て面会する。直接、故人に触れることはできないのだと言う。
喪の作業に、防護服が割り込んでくる。

いろんなことに意味があると思っているけど、別に究極的な意味などはない。
ただそのようにあると思っていて、そのようにあるべきときに、意味が発現するだけなんだと思っていると葬儀はうまく立ち回れない。
死というコトは概念、言語を越えている。語れないことを語ろうとすれば、報いを受けるのだろう。自分なんかは途轍もない報いを受けるだろう。
それらは途端に失われた。
絶句する。

ただただ圧倒的な現実がそこにあり、現実は現実的な虚構や解釈余地を保留しし続けると理解する。
死の手触りなんてものはない。自分が死ぬときは自分の死だけしかない。それは誰とも共有できない。たった一人で死ぬしかない。


だた、そうだとしても            

   

1年という区切りを評価したり、ふりかえったりする(令和4年として)

年末あたり、流行語大賞今年の漢字、クリスマス、仕事納め、大晦日、年越しそば、年が変わる瞬間……

11月ぐらい。もう今年も終わりだなって思った瞬間に、想像していたテンプレートイベントが殺到してくるのを想像する。
繰り返し。
今年は前年よりもっと楽しくなるよ、という妄想は毎回裏切られる。だから、イベントを無理に無視するようにしている。

だから、12月は12月のように過ごさないことを心がける。12月ではなく、どのような月でもない1ヶ月のように過ごす。

年が新しくなる。特別なものを食べたり、特別な場所にいったりしない。
マーカー、目印、時間的相対化は代償として生命力的なものを消費しそうな気がしてしまう。

過去のみに捕らわれ続けたり、未来のみによって抑えつけられたり、現在にのみ圧倒され続ける人は、時間からの待避所が必要になるんじゃなかろうか。
それらを見つける試みは常に失敗する。そうと分かっていても、それにすがることはある。誰もが間違っているといっても、それを選択することがある。選択するのは自分で「誰も」の中に自分は含まれていない、というのは気休めにはなる。

書くことの恐怖について

何も言えない。時間は進まない。
時間は進まないまま、自分の意識のなかでは文字間ゼロで、句点、読点が打たれ続ける。四〇〇字詰め原稿用紙の最初のマスは黒塗りされている。
目をつむって、厚みゼロのまま重なった句点、読点をじっと見つめる。
自分はどうかしはじめていると、しっかりと分かる。

意味するものを書こうとすることが恐怖、なにもせず、そこにたたずむのも恐怖。気が触れてしまえばいいのにと思うが、それは起こらない。もしかしたらそれは起こっている気がする。自分はごく短い期間、急激に気が触れている。異常性に費やされるエネルギーは一瞬に消費される。結果、異常状態は解除され、一般化現象に対する符号化された意味だけが記録される。それが書かれたものなのかもしれない。
慎重にたぐり寄せないと分からないような空白地に引かれた線といわれれば線に見えるような境界が残る。それらは自分だけの作業ではなくなったのだろうか。

ふりかえり

なんの根拠もない仮説がある。
ドラゴンボールのように一度ボロボロにならなければ、次のステージにいけない理論、1パーセントぐらいの有意性を信じてみたい。
ふりかえりでボロボロになってみて、その1パーセントを試してみよう。

ある単位時間を切り取って評価したりするのを好まない。
自分のどの時間を切り取っても不甲斐ないだけで、自分を打ちのめすだけ。
それはそれでよい。評価方法論の間違いに気づけるかもしれないし、連続性についての新しい考え方を発見できるかもしれない。理屈はそうだ。だが、HPとMPは枯渇する。
しかし自分を打ちのめすことは、自分以外の関係者にもダメージを拡散させてしまう。周囲にダメージを拡散したうえ、その拡散したダメージも自分に加算される。ふりかえりは、間違えるとかすり傷を致命傷に倍加させる。

ただ、ここにおいては致命傷になりたいわけではない。ボロボロになっても致命傷ではない。死んでもドラゴンボールがあるような意味で。

よかったこと

念願の続編がリリースできたことが何にも代えがたいハイライトである。
開発チーム結成から2年ちかく、実際にリリースできたのは本当によかった。
プロジェクトチームにおいて最悪の状況とは「リリースできない」ということだった。
プロジェクトオーナーとして本当に良かったと思う。それしかない。

メンバーから声をかけてもらったことで、なんだかなんだで続編を作ることができた。それがなければ、いまのリリースは絶対になかった。
「絶対に動かない」と思っていたことは、誰かの助けによって動くことがある。当然のように聞こえるが、限りなく得がたいものであることを忘れてはいけない、と思う。

なにが我々の進捗を妨げたか?

自分のプロジェクトオーナーとしての適正

自分は何事にもよらず悲観的に構えるので、何事も最悪のシナリオを考える。はじめからダメだっていうのは楽だし、それで何もしないならゴミクズっていわれることもある。自分は悲観論に偏っていると正しく思う。
たとえば、全身全霊込め、身を粉にしたり、臓器をうりとばしたりして、できることすべてやっても、成功しない可能性は十分にある。それでも挑戦できるのか? と問われるなら、自分は「挑戦しない」と答えるだろう。
絶対に成功するとは言えないけど、そこを目指したいと腹の底から思えたらやる、ぐらいのゆるさでよい気がしている。
損得勘定を土台とするものは脱個性化するか、その土台の理屈の中で淘汰される。どっちがいいとかではない。たまたま、そこに居た、でいいのかなと、いまも、思っている。

少し横道に逸れるが、それでも自分が時々、割に合わないことを止められない時がある。今のところ、それを止められないとき、それを止めさせようとは思っていない。分断した個人を横断できていない。
分断した個人を横断できる人がプロジェクトオーナーになるほうが良いケースはあるだろう。

だれの作品なのか?

個人の勝手な感想でしかない。
当初から「(1+n)次創作同人作品」だったとは思う。「こうあるべき」「このほうがいい」「これはいやだ」というのは誰が言ってもよかった。そこには複合した個人の次元があってどうしたって共感不能な「余り」が含まれている。そのなかにおいてどうしても何かを選択しなければならいときにプロジェクトオーナーとしての自分が発言することも当然あった。
そのとき、自分は不在になってしまったステークホルダーを憑依させて答えようとした。誰を憑依させ、どのような回答をするか選択する。個人の意見ではないとしたかの結果、場当たり的な回答は、メンバーを失望させた。(同じ質問をして毎回違う回答する人に失望するのは、現場のクリエイターと当然のことであるし、反省いたします)

「どれでもいい」答えるのがより正しい応答だったかなって思うときがある。
もし、過去にもどってどういう発言をしたらいいんだろうと想像する。その場だけの合理性を取り繕うのではなく、過去や未来がある自分としてなんと発言すべきだったろうか?

???:「あなたが決めてください。自分はそのとおりに作ります」
???:「作品について深い理解することに努めました。ですから、このシーンはこれしかないです」
???:「あなたが最も良さそうだという表現をどのような批評にもさらされない、それそのままで鑑賞できるのが創作する側の享楽です。あなたも自分も悩んだままで、未確定なままで。自分は何も意見しません。あなたが決めてください。それが自分の楽しさであり、喜びです」

こういう気が狂ったタイプの回答は具体性をもった現場ではそぐわない。伊達や酔狂でもの作っていない。
その時々でその時々の責任者がその時々で最高の応答するが、そこには一貫性を求められている。
作っている作品の中に移住して、その世界を構築することで作品とする作り手は、いろいろを妥協をしない。


自分が思うところによれば、ソレについて唯一無二で最高でこれ以上がないものと思っているがたくさんにある。
たとえば
「好きなSF作品は?」
と問われたときに、最近読んだ作品から昔を思い出して想起して最高の作品を挙げるだろう。
「霊長類南へ」「虚航船団」「虚人たち」「牙の時代」「最後の喫煙者」「おーいでてこーい」「物体O」「宣伝の時代」………
その時々の自分の気持ちや、最近読んだとか、で毎回言っていることが変わるようではプロジェクトオーナーとして不適格であると言われて当然なんだと思った。


うまく反省できてないけど、どう反省するのがよいのか。
思考、感覚、印象、すべては大量に高速に流れていき、漂うだけ。
非常事態のときのみ時間をとめたり、超スローモーションにしてエネルギーを節約することができるだけ。これは自分がコントロールするものではない。自動的にそういう状態に陥るだけ。

誰の作品なのか、という問い自体が、今回のアウトプットを深く考えさせられている。

蛇足/読書と表現

エクリチュール以前、文字、記号でいい。
自分は読書から多くの衝撃を得た。それがいいことなのかどうかは、自分がいえることではない。でも、そういった体験の可能性は残って居てほしいなとは思う。
今では誰かが害悪だという本を読むことができて本当に良かった。
未来や過去は分からない。禁書、焚書の対象が増えるなら悲しい。
署名した作品が引き裂かれるのを目の前にしたときに怯えながら安堵する。恍惚のような錯覚。

自分の書いたものを添削推敲しているうちに、心身としての指や腕を削ぎ落として、書く能力を失うとは、なんて愚かなことだろう。
自らの指や腕を十分に削ぎ落としかけていたとき、中断命令がかけられる。制止した本人が思っていたことは自分とはまったく別のことなのかもしれない。
でも、それに助けられた。失われなかったものとしての自分の指や腕を改めて確かめられた。
ただ、それだけ。それだけのごく個人的な体験。

では、いますること

考えてみるが、変わらない気がする。
これまでどおり死なないようにあがき続けること。
本来的に生きることと遠く離れても、この位相における特定の局面においては生を感じることがあるような気がするし、それにすがりつづける。

09月04日(日)

誰でもがコンテンツ配信できるようになって、自分がものづくりをする必要はないな、と思うようになった。
その領域ですごく尖った表現をしていて、それは一般大多数に受容されるという類いではないけど、アートや創作といわれた、その表現に似ていると思う。
個別のアウトプットがあり、それを表現に変換し、それを受容するというその境界ごとに余韻があるアウトプット。

昔は境界などない方が良かったし、境界はシンプルなもので多様性には無頓着だった。

ゼロ年代以前、コンテンツを作るのは実務的なコストとスキルが必要だったとおもう。
現在では、同様のアウトプットをするにせよ、テクノロジーの進歩で必要な実務的コストとスキルはかなり低減されたように思う。
多様な質のコンテンツにさらされるというのはあるが、すばらしいコンテンツと出会える機会が増えたのも、間違いではないのだとおもう。

ゼロ年代以前、欲望は宙ぶらりんのまま期待に巻き込まれて、判断から離れたところで渾然一体となり曖昧な位置にいたとおもう。
いまにおいては、作品を公表したとして許容されるかされかどうかは短期的な時勢による、としかいえない。

08月26日(金)

安定した環境をつくりそこに閉じこもろうとする。
確信したい何かに囲まれて、それらの確信によって安定した自分でいられるなら、どれほど楽なことだろうと思う。
自分がそう思いたい対象はたくさんあるけど、それらを自分がコントロールできるわけではない。

自分が何かをコントロールするということすら幻想に思える。
本当のところ、見えているもの聞こえているものすら、確信がない。見たいと思っているものはその様に見ているだけだろうし、聞きたいと思っているものもその様に聞いているのだろうと思う。

瞑想を試みるたびにそのことを強く思う。
混沌はあらゆる前提の前に存在していて、自分や自我という言い方でなにか理由付けをしてやりくりしている。
混沌とはいうが、それはやりくりした結果の名前付けであって、それをプラスやマイナスと評価できるものではない。

作っている作品もそういった背景があったのかなと思う。
混沌と呼ばれるものをその瞬間に適当な断面で切り取った表面を記号化して提示するという作業の断続的な繰り返しは、生そのもののように無意味でしかないのだろう。

だたありのままに無意味そうなことをを、自己と思われるものを通して、また無意味なものに再加工する過程に、自己と思われるものは快楽を感じる。

08月20日(土)

身近な人が死にたいと訴えられる。よくあることではないけれど、まあ、経験がないわけではない。
自分も自分の終わらせ方についてはいつも考えているし、いま終わってほしいと思うと誰かに伝えてしまうことはある。自分が誰かを間違っていると断言したり、諭そうとするのは違う気がする。
それに「死にたい」は発信者によって意味が違うので、一概にあーだこーだといえることではない。

自分がそうでありたい状況からズレ続けるのがつらいなら、もはやその自分の中の一線を後退させればよい。
後退するぐらいなら死を選ぶ選択をする覚悟がある人もいる。
それで死を選んだとしても、絶対的に間違っているといえないだろう。たとえば、望まないような生き方を延長してもっと早くに終わらせておけばよかったという考えだってある。
「死にたい」状態の自身のまま、今後も生きようとするなら、たぶん「死にたい」状態は断続的に続くだろう。

死にたくなったとき、「自分は変化したいか?」 という問いをしてみるのも良いと思っている。
自分が変れるわけがないと思っていても良くて、それでも「自分は変化したいか?」という希望するかでよいと思う。


八方塞がり、袋小路、デッドエンドで追い詰められたという状況があるだけ。
「死にたい」という記号で思考を放棄してしまうと、ありえた活路も見えなくなってしまう。
たまたま生きているだけなのに、生きるべき、という空気で人を窒息させるのはやめよう。


世界にいる間であれば「死にたい」は転倒可能でり、仮にその転倒が倫理や道徳を越えて不謹慎であるとしても、そこでは超越することに意味があるのだから最大限転倒したほうがいい。
「死にたい」は可換な記号。可換であるものは、正当性が公には保証されているが、実際は個々人においてズレ続けることで世界を複雑たらしめている。
三回、自分の価値観と違うズレを観測できれば、世界の片鱗をみることができる。


解像度を下げることで不安な対象をぼやかしても解決しない。