kowさんは天ざる大好き

創作に絶望すると、世界が反転した日記

去人たちZERO -prologue- 製品発表会@ニコ生(2016/03)

今月のニコ生

2月のニコ生は延期となり申し訳ありませんでした。
2月・3月の合併月例報告会、あらため

去人たちZERO -prologue- 製品発表会

をニコ生で行います。


■日時

 2016/03/20 (日) 22:00 ~
※今月は変則的に日曜日に行います

■ニコ生チャンネル

 美の去人たち-ニコニコミュニティ

■参加

■内容

  • 去人たちZERO 製品版について
    • 製品版紹介
    • 販売方法について
  • 月例作業報告
  • 創作にいかす芸術鑑賞のコーナー
    • kow@suhito担当
      戦争は女の顔をしていない
    • nitino担当
      未定
  • ユーザ質問など
  • 雑談など

事前に質問などがあれば、コメントや @kyojintachi でおねがいします。


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戦争は女の顔をしていない (岩波現代文庫)

戦争は女の顔をしていない (岩波現代文庫)

再読:虚航船団

創作という行為はつねに何かと何かの断絶によって分断から生まれている、と仮定してみる。
仮定するからにはケーススタディを挙げる必要がある。だが、できない。故にこの仮定は破綻している。

だが、続ける。

(以下、この全否定された空間でどのように語るのだろうか?)
葛藤という点に注目して文学を比較論評したものがあるが、ある価値観同士の境界である「裂け目」は創作空間における強い動機付けになっているのではないかと思う。
「裂け目」をどう自覚的に物語り構造に持ち込むか、という点で「メタフィクション」はとてつもない効力を発揮した。
たとえば虚航船団の特徴的な「裂け目」は、擬人化された文具と被虐的なまでにカリカチュアライズされた人間性ではなかったろうか。
そこにおいては、良くも悪くも「カリカチュアライズされた」ために「直視するしなくてもよい」喜劇的な人間のおかしさとして消化することができた。
「直視するか」「直視しないか」という中で、虚航船団は「直視しない」という選択肢とともにを偶像的なキャラクターとして消化しやすかったのではないかと思う。


ところで、奇人変人の集まりが快進撃を続ける作品ってすごい楽しいと思う。
だからさ、虚航船団もそのジャンルにいれてお終いでいいんじゃない?


いや、それはダメだとおもう。
そんな合理的な説明で納得させてはいけない。
そもそも、どれだけ文房具が好きだといっても、作者が読者に文房具への感情移入を強制できるものではない。
ましてや、その強引な感情移入を合理化するためにメタフィクションという構造でもってその構造すら相対化しようなどとはもってのほかである。


え? 虚航船団ってだめなん?


再読に耐えうる作品というのは限られていると思う。
さらにその中で、再読中に前回の読みとどれだけ新しい発見があるかというと、それもなかなかない。
虚航船団の中でのメタフィクションは、こんにち多用されているような「メタい表現」とはちがう、限定的な使用に徹しているようにおもう。


さて、分断された個人が同時並行的に1つの記述を解釈してみようとした。
いまあたしはここにいる?という実感と、いまあたしはここにいる!という実存と、いま読みつつあるメタフィクションという嘘が渾然一体となって、いまそのときの意識を形作るという虚構も最高にサイケデリックでイケテルと思う。

非/反ソーシャル――お話を書いて殴り合おう――

過去、何度か個人的にお話を書こうとしたことがある。

文学理論をかじったりしたのは筒井康隆の影響かもしれないが、それまでの読書経験によって近・現代小説という文化を空間的に仮定し、その中に自分の立ち位置をx,y,zで具体的に措定することで、そこから語ることができる言術をはじめようとしたわけだ。

上記の一文は、わたしが書いてわたしが読み、わたしが推敲する。
そこで率直に思う。

ひどい……本当に、ざんねんだ!!!


わたしは、ここで支離滅裂な文章を書き始め、それを訂正しようとしている。
まず、政治的、宗教的、文化的な毒をすべて取り除く。
その限られたフィールドの中で、本音と建前を慎重に分別して、本音を縦糸に、建前を横糸になんらかのテクストを編もうと腐心している。

ミクロな時系列を遡ろう。この技法は冬が長いロシアフォルマリズムが得意とするところだろう。(これは興ざめな言術の典型だ)
腐心する前に、わたしは何を考えていたのだろう? 『政治的』を意識するときに、左や右やコミュニストポピュリズムが空白をくり抜く。
宗教的』を意識するときに、世界宗教と新興宗教は宗教のほとんどの空間を埋め尽くしてしまう。
文化に至ってはもはや、地球上の殆どを覆い尽くしている。

わたしがいま、ここでこのように匿名で滔々と語ることは、本当にしあわせなことだと思う。
言術に権威は失われて、自由に語ることができるこの空間を本当に喜ばしく思う。皮肉ではない、本当に。
わたしたちはこのようにわたしを知る機会が失われたが、その代償としてわたしたちはわたし以外をより深く知る機会を得たとも思える。

オーケー。わたしはいまもここで自由だ。

月例去人たち活動報告会@ニコ生(2016/01)

今月のニコ生

2016年01月の月例報告会をニコ生で行います。

■日時

 2016/01/29 (金) 22:00 ~

■ニコ生チャンネル

 美の去人たち-ニコニコミュニティ

■参加

■内容

  • 月例作業報告
  • 去人たちZERO 製品版のクローズドベータについて
  • 創作にいかす芸術鑑賞のコーナー
    • kow@suhito担当
      「日本文学全集08」より「宇治拾遺物語」町田 康 (翻訳)
    • nitino担当
      未定
  • ユーザ質問など
  • 雑談など

事前に質問などがあれば、コメントや @kyojintachi でおねがいします。


連続した創作

1ピクセルのズレも許されない創作が増え、そしてその表現媒体の解像度は増加の一方を辿っている。
メディアは今後もどんどんと解像度を増し、それは生理的な限界を超え、実存にとって無意味なまでに向上していくだろう。
生理的な知覚を超越した超感覚のためのデバイスが登場し、肉体という制約を超える時代がやってくる。それは楽しい虚構ではなくて、十分に到来を予感しうるリアルな未来である。

その状況は「去人たち」という古い作品にとって不愉快な状況になってしまった。
「去人たち」という作品に超時代性はない。500Gbpsの海底ケーブルはいま現在では容量不足で、2TBのメモリはオーダーをペタに変えてもいいのではないかと思うほどだ。
自己消尽を免れたとしても、ただ、個として、そこで見苦しく右往左往している。去ることもできずに。

だから、「消尽されない作品」を今のうちに創らなくてはならないとおもう。
私たちは「消尽されない作品」を「作ることができない作品」と絶望しているわけではない。

「去人たちⅠ」でやってみたことを、「去人たちⅡ」で越えようとした。
その試みは本当に分かりにくかったし、成功はしなかったと思う。けれど、その「抵抗」とその「結果」については、評価を抜きにして説得力があった。
「神」が死に、「物語」は失われつつある。そして目の前にあるのは「ヒューリスティックス」という「機械的物語の変形」だ。


「主題は何か」とそれを書いていない誰かが設問を作り、それに答える誰かがいた。
ポストモダンとかなんとかいわれても、いまだ其れは終わってはない。設問はつくられ、答え続けられる。それは何某かの都合であって、常に正しい答えがあるわけでもない。


「たまたま評価される作品」や「運良く口コミで広まった作品」はもうなくなる。
であれば、そこにどのような議論を差し挟む余地もないものを切に望む。良くも悪くも――