神のように批評できなくった以降
高エントロピーの物語に注意にしなければならない。
おかげでわたしは、未だにペシミスティックだ。
何を言おうと思い、それを綿密に計画を練り、慎重に行えば、それはなんらかの対象に伝達されると思っている。
当面のところ、わたしはそれができるなんて思っていない。
それは確信に近いが、残念だけど、ほつれがある。
そのほつれについて、わたしはまだ探っている。
高エントロピーの物語と接するときに用心するのは、ほとんどのユーザがやっていることだ。それは不完全に解離している。
カーネギーの名言集を読んだとする。
わたしだって、プロジェクトを企画して、リーダーうんぬんを考えればそのぐらい読む。
でも、そこに何が書かれているを知ろうとすることで、否認はより強力なものになってしまう。
物語を作るものは、いつも決断をせまられる。
「決めセリフを言わせるか、それとも言わせぬべきか」
その中で、決めセリフを言わせなければならない、と決断する書き手に、我々はどれだけの敬意を払えるだろう。
敬意など払えるはずはない。むしろ、それを受容した側が不快に思う。
おぼれる者は藁をもすがる
嗚呼、この諺は酷すぎる。このセンテンスは、自分自身が意味を維持し続けるために、藁にすがっている。でも、このセンテンスは具体的な藁というものにすがる、身体をもってやいやしない。
高エントロピーの物語の、身体を持たない言述が、不完全に解離した受容者に、とりあえずの、同情のような批判をさせる。
断言とは、それ以降、ずっと弁解し続けるか、沈黙せざるを得なくなるものとなる。よい小説家は、結論をできるだけ先延ばしにするというのも納得できる。書き続けるために、何もいわないように用心する。
何も言わない物語を読み続けられるのは、誰だろう?
何かを言わなければならないとして、それを決断し、それで書き手は自分をすり減らすとしたら、その行為を物語として誰かが賛美してしまうことになりはしないか。
誰かが形相を意味させようと監視している...