わたしが「現実」を目指すことは、誰でも分かる単純な動機がある。
kow@suhitoは色弱なのだけれど、小学1年の頃、色覚異常であることを認識した。
身体検査で、あの極彩色の点々の中に何が見えるか、というテストに落第している。
保健の先生に「何も見えない」とあたしゃ、いったのだけれど、彼らは冷静に「わかりました」というそぶりを見せる。
そこには同情はなかったし淡々としていた。
ただ、まだそこのころは「想像」と親密であったから、そこには言語を必要とせずに感じられることがあった。(そしてもちろんその感じたことを言葉にするつもりはない)
ただ、そこに何が書いてあるか読み取れなかったことに、あたしゃずっと罪悪感を感じていた。
そして、この同一の物体をみて、「読み取れる人」と「読み取れない人」がいることに驚いていた。
「これが読み取れる人」はどんなものを見ることが出来、また見ているのだろう。
御存知の通り、「色覚」の問題は哲学の分野でも今でもホットな話題である。ウィトゲンシュタインもこの問題について言及している。残念なことに、言及し尽くすことはできなかった。
ただ「我々は何を見ているのか?」という点についてはその頃からずっとあたしの重要な問題だった。
あたしは、12歳になった今でもそうなのだけれど、「赤」とか「青」とか言われても、確信をもって認知することができない。
たぶん、これは思春期以降の人なら誰でも思っただろうと確信しているけど、こんな風に思ったことはないだろうか。
赤、というけれど、この赤は、「わたしが見ているような赤」のように「誰もがわたしのような赤」に見えているのか。
赤色について質問したときに「血の色」と説明してもらったことがあるけれど、でも結局「血の色」は「わたしがみているような血の色」に誰もが見えているのかという点で、何の解決にもならない。
わたしが青と認知しているものが、「彼らの現実」としては赤だったりするんじゃないのか?
結局、そこに象徴的な結論を見出す前に、わたしはそんな結論なら拒否すべきだと決意した。
それよりも人間の持つ感覚器官には限界があるということが重要だと思った。そう思うと、理由も分からないけどわくわくしたのである。
鼻水を垂らした小学でも、この単純な論理は理解できたらしい。
わたしが見ているものは「色覚異常でない」人が見ているものとは違う。「色覚異常」でない人はどんなものをみているのだろうか。それだって正常とされる「感覚器官」が許容する範囲内でしか、この現実を把握することはできない。
「<現実>を見てみたい。暴いてやりたい」
<だけれど、いまわたしたちはそれを目の前にしてる!>
―だから、あなたはそれを拒否しようとしたところでそれは嘘だ―
という声をわたしは聞かない。
そんな言い方は、わたしにとって逆にニュートラルすぎる。だって、そこには<すべての瞬間の内に失われてしまっている現実>があり、それを安易に見過ごすことは公平な態度には思えない。
それがどんな無惨なものであれ、それを目の前にしたあと、「だから?」とわたしは、その当事者と向かい合うハメになる。それによってあたしの胸が痛んだところで、「わたしの胸が痛んだ」という言質をとってそれだけでいいのか。
その「だから?」は投げやりでも感情荒廃でもないと言いたい。それを象徴的に受け取る能力が欠如していると直ちに判断されるのは心外である。
さて、こういう話に胡散臭さを感じて貰えたらあたしゃ嬉しい。とくに、このプログという力場ではなんの効力もない。
実を言うと、にちのさんのブログにインスパイアされているのだけれど、これについて説明したりしないことを上手くいけば理解してくれる方もいるかな?