kowさんは天ざる大好き

創作に絶望すると、世界が反転した日記

モバイル銀河英雄伝説。帝国 vs 同盟。しばしばフェザーン

ひさしぶりに振り切った記事タイトル。
iPhone6 が発売になって、お、おうということが多かったので、少し振り返ってみる。
個人的に Android ユーザであるが、別に iOS アプリを使ったことがないわけでもないし、むしろ iOS アプリは造ったことがあるが Android アプリはつくったことがない。
どちらかを擁護したいとかはないのでご安心を。

iPhone6 発表

発表会の記事を起きてみる感じ。なんかこれ毎年恒例。さて、リーク記事とどんな違いがあるかなあってみる。第一印象は、これ Apple 製品とだしてええんか……?

iOSAndroid について

あたしにとってはオープンかどうかの違い。ただ、オープンかどうかの違いは宗教じみたはなしになる。たとえば、オープンな Linux を使っているかといえばノーである。いま、こうして Windows 上でブログを書いている。オープンな OS なんて関係ないじゃないか、といわれるだろう。
だとすれば言い換えたほうがいいだろう。非クローズドな OS が Android でクローズな OS が iOS である。
今回の iPhone6 の発表ではっきりとクローズドな OS、ひいてはクローズドなプラットフォームの弱点を見たと思った。
iPhone を使っているユーザにとっては、つねに Apple の新製品しか選択肢がないという弱点である。新製品がどんなに自分に魅力がないとしても、それしか選べないという状況になる。

あたしが思った。これは銀英伝で考えると分かりやすんじゃないかと。

iOS vs Android。しばしば Windows Phone

銀河英雄伝説をご存じない読者には大変もうしわけないが、あれを説明するとグイン・サーガを説明するよりも気が重いので省略させていただく。
iOS はハードウェアも含めて多様性を許容しないプラットフォーム。Android はその逆でハードウェアから改変まで自由である。
極端なモデルとしてはわかりやすい。

優秀なトップが存在する場合

優秀なトップがいれば、iOS が絶対的に革新な製品が生まれやすい。
Android の場合、優秀なトップがいても競争のなかで評価を得るまでのタイムラグがあり、かつ評価をえる対象(民衆)の教化レベルによるところもある。

愚鈍なトップしか存在しない場合

iOS は滅びる。致命傷どころではない、iOS は存在しなくなる。
Android は「愚鈍なトップしか存在しない」という状況を回避でき、かつ、多様なベンダーがいい製品、悪い製品をつくるなかで、メーカーごとの得意分野や苦手分野がはっきりしてくる。競争の原理だろう。

暗躍するWindows Phone

すでに既得権益を得ている MS はモバイル旋風に危機感を感じながらも、ある意味で冷静な判断をできる立ち位置にる。
銀河の覇権がどちらにわたっても都合がわるいが、わたるならわたるでその背後で経済的な利益は確保したい。
iOSAndroid がどちらが勝利しようと「うまくやること」ことは容易。あるいはそれ以外の第三の勢力がでてこようとかわらない。MS は「デジタル経験」というすべての原体験を握っている。
MS がこの立場を追われる次世代までは悠々としていられる。
もちろん、今の立ち居振る舞いを一つ間違えば大事になる。

帝国が銀河を支配する……?

同盟は結局、一人の優秀な独裁者に敗北する。
日本で iPhone が多くの支持を得ているのは Apple の偉大さの結果だろうとおもう。
だが、iPhone 以前を思い返して欲しい。Power Mac のころでもよい。それは『スマートでクールな PC』だった。クリエイターにとっては特に。だが、なぜ Windows に勝てなかったのだろうか? 第一にユーザ数が少なすぎた。クリエイターだけが使っていた。Adobe 製品に関しては相当最適化された製品がだった。
だが、現在ではハードが円熟し、UX 的な差別ができなくるともはや Mac での最適化も魅力はなくなった。技術力が政治力を凌駕してしまう自体に発展してしまったのではないか。

技術者は模倣を繰り返しつつも、自由でいることを望む……?

著作権の話は一つ置いておいて。
すばらしいプロダクトのなかで多様性がなければ、選ばれることもない。
選ばれることない製品がどのようになるだろう? 逆にいえば、選らんだことの製品がこんごどうなるかは、自分の意志が微塵も顧みられることもないだろう。

最後に

自由でいようとするために不自由になってしまうという寓話がある。
いずれにしても、そう判断するのは自分自身なのだから、そう判断することの意味について考えると、どの陣営にいたとしても「判断する」ということ自体に快楽がともなうようになるよね。