どのように本を読むか?
自分は本が好きだ。自分は多読だ。自分はビブリオマニアだ。
よろしい。
では、あなたはどのようにして本を読むのか?
kow@suhitoにとって本をどう読むかはまだまだ暗中模索というところだ。
実はkow@suhitoは涙もろいので、本を読んでいるとすぐ泣いてしまう。そしてkow@suhitoは直ちにそれに憤る。
「本を読んで涙を流す! なんて胡散臭い行為だ!」
もし、わたしがこの内省ができなくなるようになれば、わたしは遂に死んでしまっている。ここでいうことを、ロシアフォルマリズムのようなケチな話にはしたくない。本を読んで涙を流す、それがどのような経路を辿るかは興味深い。ただ、わたしはその部分を敢えてショートカットする。たとえば、これを安易にショートカットするようであればわたしは遂に死んでしまっている。わたしがこのショートカットを軽視しているのであれば、是非わたしにとどめをさして欲しいと願うのである。
注意深い感得者であれば、自分が涙を流すときに必要以上に内省的になる。「自分が涙を流す」という行為から「涙を流す」という人称不定に持ち込みたいと思うだろう。さらに「涙」が誰の涙かを不問とする程度までに「な・み・だ」としようと試みる。
結構なこころみである。
さて、これほどまでに内省的な読者には「同情的に」理解できるところまできているだろうけど、「涙」というのは存在するのかと懐疑をもって注視しているだろう。
ここで全く不愉快な交叉が起こる可能性がある。「涙」は存在するのか、と思って限界ぎりぎりの懐疑でくってかかっている。だがわたしは<涙>を流してしまっているのではないか。
ほほう。はて、これにたいして「疑義」を感じるとすると「涙」に懐疑を持ったこと自体に疑問を投げかけなければならない。それはいい。だけれども、その副問い合わせは今、直前にある問いを完全な問いに修正するだろうか?
結構な疑心である。
ここで無限階層を危惧するかもしれない。
ここには単純化すると二つのクライシスがある。物質的涙と精神的涙である。このクライシスを感じる方なら「同情的に」理解いただけるかもしれないが「物質的」「精神的」という括りに憤りを感じてしまう。
ここに来て、ある決断を下すことは想定できる。
「涙」は存在しない。しかし「涙」は流れている。
<ボーダーライン!?>
<なんとなにの?>
線をひくことに要心しようではないか。線をひくことは「なぜ、そこに線を引いたのか?」ということになる。そしてその線は「論理的で、空間を占めず、点の集合」であるとすれば、より悪い交叉を生み出してしまうこともにもなるだろう。もし今も涙が流れるならばわたしはそれを認知しつつ、その涙の一切を外部に押しやるだろう。