kow@suhitoは今日をもって絶滅しました。
今まで本当にありがとうございました。
でも、人里離れた山奥にひっそりと隠れて生き残っている可能性はないのだろうか?
こういった議論を進めていくと存在論がでてきて、そしてとても誠実で実直で憎めないけど、あたし的には友達になりたくない学者がでてきて、どんな場合にも“100%絶滅したとは言えない”と主張する。
彼らの言うことはもっともだが、絶滅を宣言する側にだってそのぐらいのことは分かっているのだ。全世界の生物の名簿を作ってもっているわけじゃない。新種が発見される可能性があるように絶滅を宣言した生物がみつかることだってある。
これは“絶滅”という言葉が、力場によってニュアンスが微妙にことなって使われるように見える。そしてあたしが、kow@suhitoは絶滅しました、という言葉もまた新たなニュアンスに聞こえている。
言葉というのは広辞苑が指示するだけの意味に収まらないのだ。言葉に標準はない。社会的であり、アカデミック的であり、通俗的であり、個人的である。
標準的絶滅、社会的絶滅、アカデミック的絶滅、通俗的絶滅、個人的絶滅……あなたは、文章の中に絶滅という文章がでてきたときにその“絶滅”という言葉に自分なりの荷札をくくりつける(ニコニコ動画のタグみたいにね!)ことをする。
こういった意味の私有化を行った場合、真実が永遠に先送りされていることに気づくか、そして気づいたとしてそれをどのような方法論をもって解決するか、あるいは方法論の方法論について考慮する必要はないか……等々のアカデミックな思考をするか、暗黙の了解で済ませるか、それとも個人的な信仰にゆだねるか……
「いやあ、これがポストモダンってやつの初期症状ですよ!」
「ああ……なるほど、わたしが聞きたかったのはその言葉なんですよ。これはすでに充分に問題とされてきたことなんですよね」
そういって納得した基本的な苦悩者は、ポストモダンという言葉で一時の安寧を手に入れるが、すぐに不安になるってわけである。
自分は近代文学用語で代表されるような用語が提示してる部分までたどり着いた。そしてその部分はIQ128を越えるあたしとは違う優秀な学者連中が、あたしの理解できない言葉で延々と議論しても、正しい“アカデミック”で“直感的な”結論が出ていないものだから、それ以上はあたしは何も語ることができない。
あはは。あなたは“われ思うゆえに、われあり”という言葉を過剰に評価し、結果、論理ではなく信仰と呼べるほどにそれを信じてしまったのだろう。
“あたしは思考しているのだから存在している”
“あたしは思考しているのだから存在していないわけがない”
ここには神経質なあたしたちが、重要だと考えているニュアンスが見え隠れている。え? これにどういった違いがあるか答えがほしいって。 ちょっとまって、あたしがこのアーティクルをアカデミックに書いているなんて錯覚していないよね?
あたしは、あたしも解決できていないこと、みなさんにも興味をもってもらえるように、しかも、不定形の快楽的な複数の位相をもちえる表現で書いてみたら面白いかもしれないと思ってるから、「オチ」のないアーティクルをこしらえることをやっている。
そもそも技術者なら存在論は、アカデミックな卓論で済ますことができるはずである。それに真剣に取り組む技術者は、チャンスをつかみ損ねているか、典型的なニヒリストかのどちらかである。
もし技術者で哲学に傾倒しようとしているなら、専門分野の技術を使って自分の状況を分析するとよいだろう。自身の状況が合理的で往々にしてありうるものだという結論は(おそらく、87%はそういう結果が出る)視野狭窄に陥っている。
熱狂的に希求される結論はいつでも、絶滅してしまいました。
理想主義者が全世界が平和であることを希求して宣言するのは、絶滅したとはいえない、ということ。
妥当性のある結論はいつでも、絶滅に条件付賛成。つねに再評価が必要だってこと。
あたし:「あいつは魔女だ、いますぐ焼き殺せ」
A:「そうだそうだ」
B:「冤罪だ!」
C:「歴史的状況を理解しなければならない。死刑はよくない。無期懲役だ」
D:「彼女は聖女だ。われわれが理解できないだけだ」
C':「文化的に、社会的に厳正な宗教裁判を行うべきだ」
B':「冤罪だ!」
A'「そうだそうだ」
あたし:「あいつは冤罪だ、しかしそれを正しいというだけで文化的な要因や社会的要因を無視しているのは罪だ。いますぐ焼き殺せ」
あたし':「なら、焼き殺すこともないんじゃないかなあ」
(続かない)