kowさんは天ざる大好き

創作に絶望すると、世界が反転した日記

構造に還元する試みは成功したのか?

たぶん、どんな人でもバルトについて書く事は困難を極める。
わたしは、バルトのようにうんざりできないし、バルトのようなエクリチュールを試すことも出来ない。


以前に絶対領域を大胆にぶった切ってみながら有耶無耶にしていたのだけれども、やっぱり「絶対領域」はデリケートだなと思っていた。
最初は、「モードの体系」からいけば絶対領域とは議論するまでもない、一つのコードとすることができると考えていた。しかし「絶対領域」は副次的なコードになるんではないかと思っていたのである。絶対領域がまず存在するのか、それもともそうさせるコードが事前に存在するのか。
そこで、わたしは後者であると考え、絶対領域はレトリック上のお遊び、またはコードの残余と考えてみることにした。
そして、動物化したわたしにとってはそれは容易に受け入れることが出来た。
そう考えると、名前付けること=認知することして解体したいなという矛盾している欲望を覚えたのである。しかしメタコード、なんていうものを認めることはできない。そこを構造化する必要はなく、また構造化できようはずもない。
では、絶対領域はとりあげることのほどもないありふれた指示だろうか。しかし絶対領域という指示がおこなわれたことによってそれ以前のコードが強化されていないか? いや、それはない。絶対領域の位相はそれを幻出させた位相とは断絶している。絶対領域は、それを指示される側になく、それを指示した側が所有しているのではないか? 
本当にそうか? わたしは、疑り深い。絶対領域は神話ではないか?
わたしははっとした。絶対領域になってしまったところのそれは、わたしたちが反響している絶対領域とは音色が異なっているはずだろう。
とすると、わたしがいま反響している絶対領域とはノイズに過ぎない。絶対領域は現代的な技術的問題による輻輳でしかない。
マイクの音が増幅されスピーカーが発し、その音がマイクに入り、増幅されスピーカーが流し...ハウリング


コードがある。そして、そのコードのもとにある誰もがマイクに向かって主張できることが可能となる。










果たしてそうか?