身勝手なしりとりゲームの途上
しりとりバトンの途上で、あたしに番が回ってきたのでみんなで悪戦苦闘しながら、言葉をつないぐという経験を味わっている。
しりとりは条件付き自由連想法であって、初期はかなり興味深いものであった。そのついでにテクストの経済性をつまみ食いして腹を壊した。
ゲームを作るとなって、きまじめにゲームを作り始める。マーケティングを考える。競合相手はこのぐらいある。自分たちの技術力はここ。需要。マーケティングセグメント。売るためにポイントなる幹。三年後の展望。
こういうことを考えるのは本当に面白い。
こういった物作りは何故か、冷める。
計画を立てて、実行して、反省して、また計画を立てて、実行する、という循環は本来モチベーションを高める。
でも、あたしゃ、道で警官を見かけると、「追われている」という強迫観念でつい走り出してしまうし、煮えたぎる油をみて「どのぐらい熱いのだろうと」中に手をいれみたくなる。
たぶん、普通の人は、馬鹿げていると思うのだろうけど、そこにはモチベーションを越えた衝動がある。
ヒトは大脳新皮質を進化させた抑制系の生き物だから、ことさら理解しがたいのも分かるのではあるが...
あたしゃ、哲学者でもなんでもないので、本当のところ哲学なんてどうでもいい。それでもウィトゲンシュタインを何度も読み返すのはそこからのパースペクティブがもしかしたら、それが最もよく見慣れた眺望、あるいは見たい眺望、だからではないだろうかと思う。語り得ないものを語ろうとし、それをしたならば、どうなるかぐらいは分かるのだろう。
でも、どうしても手をつっこんみたくなる。とんでもない火傷をし再起不能になるかもしれないというところで、そこで本質的に手を引っ込めるというのは、大脳新皮質が萎縮したあたしにとっては、魅力的なテーマであるのだ。