kowさんは天ざる大好き

創作に絶望すると、世界が反転した日記

映画の感想会―ラ・ジュテ

ラ・ジュテは古典SF映画でSF映画好きを名乗るのであれば、これを知らなければモグリと言われる作品である。
(っていう感じの慣用句でかたられるコミュニティってほんとうにいいよね! HaHa!)
今回は感想会なので、偉大な作品だとか、すぐれた演出だとか、思ってもいないことを権威にこびる形で難しい言葉でもってかくことはしない。まあ、あたしがそれをするのは自分の才能がなくて感性もありきたりだからなわけで、それ故少しでも偉そうだったり、頭が良さそうだったりするのが理由ですし。

好き

さて、批評は抜きにしよう。こんな場で語るには好きか嫌いかでいいのだ。
モノクロ写真の連続の絵が続く。モノクロでないということを除けば、チュンソフトのノベルゲームに通じるものがある。先駆けとして評価するか、先駆けでかつ、模倣されにくい芸術性をもっていると見なすかは視聴者によるだろう。
アニメでいう絵コンテに演出をつけて演出をつけた、という感じ。
では、動きを作るために間を分割していくという理由はどこにあるか? そこに先生のいう「主題」はあるのか? 動きによって揺さぶれる「何ものか」と先生のいう「主題」はどのように関わってくるのか?
などという、批評家根性と、自分の創作課題を混同して迷宮にはいりこむあたりの、古典SFなのだ。
あたしはこの作品をおすすめしない。新井素子を読んでいるときだって楽しい。ラ・ジュテもそうだ。

嫌い

実はこの手の作品は退屈で眠くなる。
止めた近代的な脳みそが刺激反応性のものになり受動性の思考に置き換えられてしまった影響だとおもうが、止めた画に対して演出をかけていくと脳みその反応しきい値をこえずに、意識になにも上ってこないという問題だ。
たとえば、当時は第3次世界大戦のリアリティがあったという点とこの演出は想像上で迫力をもつが、いまここのあたしの脳みそは、じゅるじゅると脈打ちながらそこにおさまって神経伝達物質を平常値でやりとりしている……という有様である。


映画を見た後、ラ・ジュテからインスパイアされて12モンキーズが撮られた、というのはショックだった。

「名作を名作と感じ取れるないものは名作を作る資格はないのかもしれない!?」

なんて本気で思ったほどだ。
でも、ふと我に返ると「名作」とはなにか? みたいな話になってしまうのが本当にいやになる。
マスに評価されることを名作だとおもっているなら、では名作をつくりたいと思ってしまったことは何を意味するのだろうか……などと自分を掘り返していくことになるんじゃないだろうか……


あっ……そういった動機の根源を探っていく上で、ラ・ジュテに出会えたらいい出会いだったかなあ。
また、どこかで見返したい作品である。