kowさんは天ざる大好き

創作に絶望すると、世界が反転した日記

去人たちレビュー応答:その7

投射とか合理化とか楽しくて愉しくて仕方ない。いやあ、人生って最高である。
どうも、kow@suhito14歳です。
いつもこの導入の枕詞で多くの読者を失っている気がしますが、個人的にはマストなんですよね。サイコー!


さて、今回のレビュー応答はこちらです。

去人たち完全版sh1n5ke.wordpress.com


このレビューに対しては

「本当に残念です。次回作の参考にさせていただきます。」

などと、弁えた応答では生ぬるいわけです。


というわけで、応答していこう。
このレビューの登場人物だが、良い感じに簡潔にまとまっている

  • レビューア
  • 2ch小賢しい投稿者
  • 一般的なプレイヤー像
  • 仮想のメンヘラ友人


去人たちをつくっていいた私たちこそが、このレビューアの立場と似たような場所に居た気がする。
当時わたしたちは、エヴァというコンテンツに対するカウンターコンテンツがたくさんでてきた、というエヴァをオリジンにすえた解釈を愉しんでいた。カンターコンテンツの多くはベクトルを多少変えるものだったが、「位相変換」(我々の言葉で深い意味はない)という大胆な手法もあった。少なくとも私たちの肌感覚ではそうだった。
去人たちも、そのような「位相変換」のようなコンテンツたろうという気持ちはあったのだと思っている。


という、まどろっこしい前置きをして応答していく。

2ch理論武装したカキコをよく目にしますが、
ああいう感じで世界と設定を表現しちゃうと、
こういう病的なものになるんだと思う。
たぶん、悪いものではないんだと思う。
間違っても、理解できたとは言えない。

去人たちという作品が、世界と理性と自我の中で葛藤してたからってさ、しったこっちゃないわけで、何が超自我やねん!って話。
ラカンの説明をしたってみんなあっけらかんとするしちゃうわけ。
















wwwwwwwwwwwwwwwwww
















大阪に来てからなおさら、笑いのセンスに自信がなくなったkow@suhito14歳です。


ゲームやる人のことを考えてないんだろうと、思った。


これ、本当に考えてないだろうとおもう。事実考える必要が無かったし、考えることで作りってる側が愉しくないならそれを採用する理由は一切なかった。オナニーの中でももっともフェティッシュな独善的な出力形式である。だから、このレビューに対する応答は、尤も! という一言になってしまう。
これだけだと感じ悪いので、印象操作を重視するkow@suhito14歳は、あいすみません、と謝罪もしておこうと思う。

「オレ、小説書いてみたんだけどさっ!
 オマエ、本とかよく読むし好きだろ?
 ちょっと読んで明日感想聞かせてくれよっ!」
って精神病んでるメンヘラなダチに強制されているようなもんでした…。

わたし個人も同様の感想である。そりゃ、去人たちⅡの文章をいきなり渡されてみろっていう話である。
いや、パロディにせよ、あそこまでガチでパロディするとあれはもう、病的といっても差し支えないわけで。パロディだと知っていてもよっぽどなのに、そうでないプレイヤーはあっけらかんである。らかんらかん。


まぁすごいな、って思った。これはすごい。
すごいな、と。


去人たちは一般的な価値はない。しかし、その無価値は無駄と徒労とオナニーでできていて、その無駄なアウトプットがすごいのだと理解した。
そんな無駄なアウトプットはすごいという評価はうれしい。わたしたちは価値を決める立場にないのだから。



新しい文学のために (岩波新書)

新しい文学のために (岩波新書)

去人たちレビュー応答:その6

去人たちとかいう作品を発生させることと創ることは全然違うことなんだよな、とか無から有が発生した瞬間にロマンを感じる14歳です。


今回取り上げるレビューはこちら。


去人たち


infoseek や nifty がぞくぞくと撤退し、HTML4 は絶滅していく中で、 geocities はいまだ頑張っている。
リンクを張っていて価値があるのも今のうちで、数十年もすればこの記事も孤立しているかもしれない。
それでもこの記事の潜在的な価値は変わらないんだ、というスタンスなのは去人たちならではないだろうか。


このレビューは現存するレビューや感想の中でもかなり古いものだとおもう。
dl ライブラリ版、yanesdk版、 yanesdk4d版、 yanesdk.net版と、それぞれ角をとってわかりやすい表現の去人たちを何度も作り直していた私たちの中で、yaneSDK4D版はまだ尖っていた去人たちである。まだアートだった、といっていいかもしれない。

しかし、この独特のシナリオに読まされました(難しい単語が出てきますが^^;)。
荒削りですがオリジナリティがあって、個人的にはこういうものに出会えたら嬉しいですね。一般向けな作品ではありませんが、ツボにはまる人には良さそう。


この感想は、わたしたちにとってとてもうれしいものだし、同時に突っ込んでインタビューしたくなるような感想なのだ。
今後も同様のレビュー応答をすることを予期しているのだけれども、わたしたちは一般的に「去人たちを創ったら褒められる」と思っていた。14歳は自信過剰で周りが見えていないのかもしれない。でも、多少はわきまえていたようで、こんなものをつくったら「叱られるだろう」ということも少しは予期していた。そして、そのように「きちんと叱りつけられる」こともセットで必要なのだと思っていた。
キョジンたちという「反転した実存」、「シミュレートされた実存」はそれ自体の矛盾によって批判されると同時に、相反する指標によって止揚されていくのだ! アウフヘーベン

はあ……

主観的に振り返って、今でもその試みが価値のないことだと思っていない。その基準においてはよい試み、トライであったと感じている。ただ場況を読み違えたことについては間違いない。そしてその間違いは致命傷だった。物語と現実がより乖離し始めるという情況をよめていなかった。巨人たちや虚人たちの文学的価値は、それ以外の価値とほとんど共有できる部分がなかった。

今後に期待できる作品ではないでしょうか。後半の展開がよくわからなかったのが残念ですが・・・
個人的には、こういう作品は大好きなので点数は甘くなります。

後半の展開――そもそも去人たちⅡの展開は、どうやってもおかしくて、それを許容できる人だけ受容しているかのようだ。対話をやめた、あるいは限定したように見える。
でも対話ってなんなんだろう? それがなければ無価値なんだろうか? 価値がなけばだめなんだろうか? 無価値に価値はないだろうか?


……………………

価値観は複数あり、その価値観の対立はその価値観の数だけ対立するパスがある。多様な価値観がある世界では、それだけ多くの対立がありそれをコントロールすることなんてできないんだろうと思う。
去人たちⅡとは、社会統制不可能性と実存の関連性を明確にしたい、っていうありがちなAI論の延長にできたものじゃないのかって思ったりしますが、みなさんはどう思いますか?
わたしの仮説がうまく説明できているかもわからないですが……

去人たちレビュー応答:その5

去人たちとかいう作品のレビュー応答ができるのは価値のある時間だ。
その時間がいつとれるだろうと思いながらすごしている。今日はその時間がとれるのでとっても充実した日といえるだろう。



本日取り上げるのは下記の感想です。

650の無味乾燥:C72作品レビュー47 去人たち 完全限定版


いわゆる、「去人たちⅡ」の部分の感想を掲載していただいている。
まず、こちらも全体としては好感をもった評価になっている。(パフォーマティブってなにかおいしいの?)
レビューアの戸惑いが筆致から伝わっているし、それについて解説しようという試みは、本来の目的を差し置いても魅力のあるレビューとなっていると思う。


作品概要はシンプルでわかりやく、去人たちⅡ本編を読み始めるよりも、ずっとプレイしたくなる。

とある診療所に精神異常者達が隔離され、共同生活を送っていた。
その異常が故に衝突もあったが、秩序は保たれていた。
しかし、指令役が不在するようになり、その均衡が次第に崩れていく・・・

そうそう。キチガイたちがいっぱいがいきなり出てきて、ヘンテコなことになっていく。
この説明で「去人たちⅡ」の導入のモチベーションはほとんど語られていて、でもこれに対する共感を過剰に求めるのはきっと違うんだろうなって、今は思っている。


以下は、感想として。

この作品は異常を単なる異常で済まさず、
異常の特質性もあるのですが専門的に語ってくれます。

これについては、価値観の転倒をやってみせる、という物語、ドラマツルギーの型どおりなんだろうな、と思う。
その手法の一つ。でもさ、そんなことをこんな一言でいうと「去人たちⅡ」をやりたいと思わなくなるだろう。
「夜のみだらな鳥」を読んだのは、最近で「去人たち」をつくっているときには知りもしなかったのだけど、最近読んで「去人たち」原型なり、あるいは「虚航船団」のサブテキストなり、連綿とつながるコンテクストを意識した。「人間らしさ」を扱うために、「人間らしくないもの」を基点にアプローチしようとする。だが、それが「人間らしく見えてしまう」逆接。さっきも言ったが、価値観の転倒、ドラマツルギーである。1つめの逆接として発生してくる「人間性」は二項対立の構造を提示するが、それを脱構築ために登場するのが読者である。価値観の転倒はその解釈を訂正され、解体と言い直される。ドラマツルギーは複数の位相に複写されて、その意味自体が希薄になる。読者は物質的に固定された文字が刻み込まれていない以上、意志をもって選択をせまられる。無視するか、肯定するか、否定するか、受容するか、否認するか。
でも、これは応答のなかでわたしたちが何も結論めいたことは書くことができない。あらゆるところであなたがそう感じたことに関して、だれが意義を差しはさむ余地があるだろうか?

元から壊れているのに、さらに壊れていく様は、
実に鮮烈て、ある意味人間味が溢れるもの。
あまりの気持ち悪さに途中でやめずにさくっと読了してしまえ~と一気にいきました。
・・・とても疲れました。

極限状態におかれた人間ってどうなるなろう? って創作の中では定番だしモチベーションになる。
去人たちⅡは、「キチガイたちの日常」~「キチガイたちの狂躁」という重畳状態を楽しめるかどうかってことでしょうか。
楽しんだ結果、疲れるような作品は、今現在消費価値はないと思う。
残念だけど、いま、それについては納得できる。


いま、「去人たち」が一般的に不必要で無価値なのは正しい。作者がそれを全く許容できないとしても。作者乙w。

去人たちレビュー応答:その4

記事は沢山読んでもらえるように書かないとダメ、っていうこと、これ本当に大事だよね。どんなに素晴らしいものでも読んでもらえないなら、価値を発生しないんだから。 ね?
ところで、こんな冒頭ではじまる記事を読みたいと思う? いま、書き手自身はそんなことをひとつも考えていないのに引き込まれたなら、それは偶然だと思う?
などと、へんな導入から始めましたが、今日もレビューの応答をしていきたい。

個人的な見解の表明~批評とレビューと感想と

とても沢山レビューされている方ですので
(下記参照)
isumiさんのサマリー ErogameScape-エロゲー批評空間-
レビュー当時の「差異」などもあるのではないかと、いま、ここで応答する段階で自由に解釈してみようと思います。
作り手も読み手も等しく自由であって欲しい。


去人たちの点数は「80点」である。
なにか優劣を競う中で
「1位がいいですか? 2位がいいですか?」
と問われたらなんてこたえたらいいんだろう。
ある人は
「もちろん1位がじゃなきゃだめ!」
というだろうし、ある人は
「2位じゃダメなんですか?」
という人もいるだろう。
何に価値を見出すかという主観的な指標のなかで、「どんなコストを支払っても1位こそが最高の価値」というのと「できる範囲の中で2位という順位でも価値がある」という基準があっても何もおかしくない。
ただ、その主観的な指標をどれだけ多くの人と共有出来るか、ということは大事だ。

わたしは「批評」という言葉を、「過去と現在と近未来を含めて、最大限まで多様な価値観のなかで分析した1つの見解とその社会的影響を述べた言術」だと思っている。
だから、わたしは「批評的」にゲームをしたりしないし、小説を読んだりしない。知識的な制約、時間的な制約、それは様々だが。
正直、「批評家」という肩書きの可能性すら疑ってしまうぐらいだ。
一方、「レビュー」はもう少しカジュアルな言葉として捉えている。個人的な思想や趣向をしっかり意識した中で、自分のおおよその立ち位置を措定しながら一般的に分類された指標カテゴリの観点を軸に「主観的な中立性」をもって執筆される感想だと思っている。


そして最後の「感想」は「感想文」に代表されるような「楽しいもの」だと思っている。
自分の「感想」はだれがなんというと揺るぎないのである。「みんながいい」と思っていても、自分はそうは思っていない。それこそが「感想」だと思っている。
逆にいえば、それだけ原始的、根源的なものなんだとおもうけど。
「感想」はいわゆる「印象主義の悪い面」の代名詞になったような気がする。これ自体はすごく残念だ。「感想文コンクール」なんてものがあるとすれば、それは「感想」という文化にたいする挑戦を申し込む場でしかないと思う。

isumiさんの「去人たち」の感想(ネタバレ注意)

前置きが長くなった。今回とりあげるのは、下記の感想です。

isumiさんの「去人たち」の感想

レビュー観点は明確で、

システムの評価
テキストの評価
音楽の評価

で明確である。そこに対して豊かな知見のなかできちっと評価する筆致は真面目な印象をとても感じたし、個人的には共感を受けた。
とくに感想の部分では
「普通とは違う」
というな部分に価値を見出して強調してくれる部分には、うれしく思う。

これ以降いつものようにグダグダ感想を書きなぐる予定ですが、こんな私の感想を読むよりも実際にDLしてプレイしてみた方が手っ取り早いと思います。

ゲームをプレイしたあと、それを誰かに勧めたい思うことがある。そのとき名作を引き合いに出して「○○みたいですごい!」とかいうのは楽だ。でも、そういう類型にはまらないやつがいるよね? っていうのが「去人たち」であったらうれしい。

この作品人によっては0点にも100点にもなり得るのですよ。ここまで人を選ぶと断言できる作品は久しぶりかもしれません。
序盤でハマれば楽しめますが、そうでなければただただ苦痛なだけ。

これは率直な思いなんだろうなと、私個人も共感する。共感するという言葉を使った瞬間に、このテキストはわたし個人が所有してるかのような錯覚も含めて。
「去人たち」の採点をしてくれるひとが沢山いたとして、最小点は0点で最高点は100点だと思っている。少なくとも、0点をつける人は知っているし100点をつける人も知っている。問題は採点者数が沢山いることと、平均点、中央点、標準偏差である。去人たちはどちらかといえば「偏り」について顕著な傾向が出るのではないかと思っているけど、なんせ評価しようがないよね。

難解な表現が盛りだくさんで知恵熱が出そうになったり、単語を一々調べてゲームを楽しむどころではなくなったりするかもしれませんが、このゲームにおいて重要なのは何となく楽しもうとする心。
書き手が理解させる気がないお話を読み手が完璧に理解しようとするなんて無理ですから、適当に読み進めて何となく理解した気になって楽しむのもありだと思うのです。

「難解な用語」ってこと自体が当時は手法だったと思う。SFでは新語を造る。新語は物語の中で自動的に言術される。
去人たちでは精神病とからめた「マニエラ」がぎりぎり利用法としての新語になっているが、その説明も最低限だ。辞書をひけばかることは書かない、っていうスタイルはもはや「常軌を逸している」という考えもよく分かる。

そしてさらに重要なのはえげつない描写に耐えられる精神力

あっ。これって「去人たち」っぽいのかなって思う。逆接的にっていうことなんだけど。
「えげつない描写」ってどういうことなんだって思うだろう。
「人は大量出血をしたら死ぬ」は当然だし意外性もない。
<Aは大量出血のため失血死した>は分かりやすいし、疑いも差し挟む余地もない。(そのものの言術を疑わないという前提に於いて)
では、この死を<異化>なりの文学表現をしてみよっか♪
どの血管から、毎秒何ミリリットルの血液が吹きだし、その血液がどのように周囲を濡らしたのか、みたいものを表現することはできる。けど、それってあんま価値ががない。もし、それが事実であっても。そう、価値は事実に優先するんじゃなかってこと。

万人向けではないのでお勧めはしにくいのですが面白いですよ。

まとめると、そういうことですよね!!! わかる!!!
(作り手側がいうことかよ……)

〈このゲームを楽しめそうな人〉
・難解な文章大好き
・よくわからないストーリーでもなんとなくで楽しめる
・狂気と電波と鬱にまみれたシナリオ大好き
・グロOK!切断、ぐちゃぐちゃ何でも来い!汚物も平気だよ!←重要
・差別表現が許容できる(白○、メ○ラなど)

「難解な文章好きな人」っているよね。最近小説ではなくなったけど。
狂気、鬱、電波はたいした問題じゃあない。世界に境界線を引けるかどうか、読み手にその素養があるかということになるだろう。
え? グロ? 「去人たち」は12歳以上ならプレイできる優良なコンテンツです! ぜひ!(すっとぽけ)
え? 差別表現? 障害者の「害」はひらがなの「がい」でかこうよ! とかいってる人よりはまだマトモだと思うんだけど!

最後になりましたが、プレイする前にHPの作品紹介を必ず読んでおきましょう。
何の説明の無いまま舞台に放りだされて、プレイヤーが混乱しているうちにどんどん話が進んでいきますので読んでおかないと意味不明になります。
現に私がそうでした

すでに、いまのHPを見ても理解不能です。ありがとうございました。

以下、感想

レビューと感想を切り分けて書くとか頭が下がるおもい。

〈テキスト〉
感想書くときにはいつもシナリオから書き始めるのですが、今回はテキストから。
とにかく異質。おそらくこれ書いた方はプレイヤーに理解させる気がありません。
プレイヤーに合わせるつもりはねぇ!付いて来れる奴だけ付いてこい!!ついて来れない奴?そんなの知らん!!!そんな印象。
また所々鬼気迫るような描写や圧倒されるものがあり、読んでいて楽しくはないのですが引き込まれて一気にプレイしてしまいました。

「テクストの可能性」とかいったら笑われるんだろうけど、10年前だって笑われていたのだけど、「アート」としてテクストみたいなものが、微妙に変形しながら存続しえるのではないか、ということを考えさせられた。
ただ、「圧倒されている場合じゃない」んだと、いま、ここでもいう。

〈シナリオ〉
2つのルートをやって初めて繋がるものもあってああなるほどねーと納得もできますが、これは人を選ぶと断言できます。
多分理解しようとすればするほど楽しめなくなります。作り手が理解させる気がありませんもん。

考えるな! 感じろ!

全体としては鳥肌の立つような展開やわずかながら萌えもあり、個人的には好きなシナリオですが人にお勧めすることはないでしょう。

なんか、フロイトユングみたな楽しいエピソードを思い浮かべました。
実際、去人たちⅡの部分では、それを想像させるような部分があったのではないかと、「勝手に」思ってます。
ただ、「きまった1つの正しい解釈がないから、おすすめできない」というの違うと思っている。

対してⅡは一定の水準以上ではありますが、あまり評価していません。
読めば読むほどこちらまで狂いそうになるテキストと相まって狂気に満ち溢れていますが、展開がよくわからなかったので楽しもうにも楽しめません。
『精神病十種』までは異常性を堪能しましたが、それ以降、具体的に言うと○が登場した辺りからは頭の上にクエスチョンマークが出っぱなしでした。
登場人物が死んでいく描写は圧倒されるものがあるのに肝心な部分が語られないので気持ち悪さが残ります。
これはものすごく惜しい。
どうやら筒井氏の『虚航船団』のオマージュであるらしいので、それを読んでいれば理解できるのかもしれませんが、読んでいない私にはなんのこっちゃ?でした。
また、ⅠとⅡの繋がりが分からないので最初に混乱しました。

「虚航船団」知ってれば楽しめるよ! っていうのはたしかに在る。でも、そうでなければならないとはいってない。たぶん、ここなんだろうとおもう。
かくいうわたしも、小説はラノベ以外一切読まないところで、いきなり「虚航船団」を読んだ。なんも理解できないし、冗長だし、投げだそうと思ったが、<楽しくて>最後まで読んでしまった。

結局Ⅰのラストは何だったのでしょうか?

っていうか、そもそもどっちが正史なのか気になる。

普段なら書き手の独り善がりなシナリオ(所謂ライターのオナニーというもの)は私にはマイナスポイントなんですが、本作の場合プラスにせざるを得ません。
むしろここまで徹底されるといいぞもっとやれ!!って思ってしまいます。このサークルとライターさんにはずっとこの路線を貫いて欲しい。

そもそもオナニーでなければならないよね。

ところでプレイ後に気づいたのですが、この作品にはCGがありません。ここにCGが欲しいのになーと思うこともなくプレイしていました。

できるできないはおいておいて。
最後に自分がのたれ死ぬ瞬間を最高のアングルとかカットでみせらても、死ぬゆく当人はどう感じるんだろう。
たぶん、そういうことじゃない?
いや、あったほうがいいと思っていることは黙っておくけれども。

〈キャラクター〉
評価不能……。個性的といえば聞こえはいいですが、アレな人が多いです。

キチガイを差別するのはやめて! このキチガイめ!
今は反省している

〈音楽〉
ここで+5点するくらい音楽がいい!音楽のせいで未だにアンインストールできません。

もっと褒めたってください。
サントラがほしい!?
こちらでどうぞ(宣伝乙)
www.dlsite.com

非常に評価がしにくいですが、シナリオはⅠ80点、Ⅱ70点の平均75点。それに音楽+5点で80点。
商業では絶対できない同人ならではと言う作品のため好き嫌いが分かれると思いますが、興味を持った方はまずは一度プレイしてみてください。
たまにはこういう毒たっぷりの作品は如何でしょうか。

多くの作品をレビューしてくれた方がここまで評価してくれるのはうれしい。
新しい視点、視座、価値観的なものを持たなければ、自分がこれまで好きな作品も正しく興奮できないんじゃないかってね。
現状で満足できるなら、それでいい。

疑問点+雑談

レビューや感想なんていどうでもいいんですよ。

あの国民的アニメを垂れ流しながらプレイしていたせいか、プレイ中何度もタツヲをタラヲと見間違えました。
そしてそのたびにあの声が頭の中で何度も流れて、別の意味でおかしくなりそうになりました……。

いったい、なんのことでしょうか。
色川武大とか知らないです。

翠子がありすを認識できたのは義体だったから?
翠子やタツヲは何時自分たちの正体を知ったのか?
Ⅰのありすルートで何故実体のないありすが料理ができて、且つ主人公と一緒に食事もできたのか?

SF考証があいまいなのはいかんよ!
っていうか、その仕組み自体は最強すぎて…っていうことで……解決してない?
このあたりの説明ってさ、「そういうもの」ってかいたらそうなっちゃう小説もあるけど、科学的に妥当かはあるよね。
あると思うんだけどなあ(妄想)

Ⅱの疑問点は……ほぼ全て
一番の疑問は虎は何かの比喩表現だったのか?ということですね。後最後に猫が喋り出すのも分からない。
もしかするとこの2つは『虚航船団』にあるシーンなのかもしれませんが。

応答になっていないかもしれませんが「虚航船団」のラストは最高のシーンだと思っています。
1,2,3章を読んできて、あのラスト。
去人たちは形式的にそれをなぞらえたのはまちがいないとおもいます。ただ、それがどのような意味であるかは、ただのオマージュなのか、そうでないのか。それは読み手にしか分からないのではないかと思う。


唯幻論大全

唯幻論大全

去人たちレビュー応答:その3

今回は、ふりーむの感想、レビューに応答していこう。


www.freem.ne.jp


敬称などは省いて引用しているのでご了承いただきたい。

No.9999 - 2007-11-15 12:00:17 - kimura

kimura さんは昔にわたしたちが想定したプレイヤーイメージだったかもしれない。

タイトルからして筒井康隆虚人たち』のオマージュであるように、
SF的ガジェットが多く、メタフィクションな色の濃い作品となっている。
難解な用語が頻出するが、その説明はほとんど省略されるところはギブスン的。

虚人たちのオマージュであることを知っていて、SF界隈のキーワードをある程度持っているプレイヤー。
この選択は到達可能なプレイヤーの範囲を恐ろしく狭める選択だったと今では思う。
マーケットアナリストが Google Analytics の画面とキーワードトレンドを突きつけて
「去人たち、ダメ、ゼッタイ!」
とわめき立てそうな作品である。
それは正しいと思う。なにか間違っていると指摘できるところもない。
違うのは制作者にとっての目的に合致しているかしていないかだと思う。

それでも、こういうレビューは本当に前向きになれた。
SFガジェットをきちんとたのしみ、メタフィケーション(メタフィクションをそれとして受容し解釈すること)するプレイヤーは実在していると知った。
公開から7年目にして。

No.10000 - 2007-10-30 01:07:14 - fff

展開がどうこう以前に、唐突で理解しがたいところが多く観られたよ。

シナリオは上記の通り難解なところもあるけれど、日常など、
全体的に面白く、一読の価値はあった。

多くのレビューは「理解」に関して言及している。
「理解できないこと」はメリットではない。それが理解できる可能性があったとしても。
フリーゲームを批評的にプレイする人はほとんどいないし、さらに「理解困難さ」にどういう意味を見出すかなんてしったこっちゃない。
わたしもそうだが、休日になんとなくフリーゲームをプレイするときに、何かを読み取ってやろうとか、批評的にやってやろうなんて思わない。
であるから、これは率直な感想だと思うし、それでも「一読の価値がある」のなら、本当にうれしく思う。

No.10001 - 2006-08-24 11:48:49 - KURO

ストーリーで少々無理を感じたところもいくつかありましたが、丁寧に作りこまれており、なかなか面白かったです。

おおむね好意的なレビューばかりなので、記事全体のバランスがとれていない気がする。
正直、悪口よりは褒められたほうがうれしい。でも、これはわたしの個人的な見解ということにしておこう。
「誤解されて褒められるより、誤解されて悪口言われた方がマシ」とか言い出しそうなシナリオライターもいるだろう。
まあ、本質的には大差ないように思うけど。

「ストーリーに無理があっても、丁寧に作り込まれている」という指摘は、上述のレビューでもいくつか共通する点があるとおもう。
超展開と呼ばれるような因果関係を無視したり、飛躍に飛躍を重ねた展開に発展するストーリーでも、とまどいつつ、プレイし続けられる作品はいくらでもある。
プレイし続けるモチベーションが維持できているから。そこでは因果関係や、ストーリの整合性は一旦置いておいてもプレイを続ける欲求を提供する何かが残っている。
むしろ個人的には綺麗すぎたり、予想できる展開の作品は投げたしたりするから、「無理」も意外性や予測不可能性という意味では価値になり得るのだろうと思う。

ただ、三、四話ぐらいから一気に戦争チックなストーリーに急変して登場人物がばたばた死んでいくんですが、ほとんど出番ないままに死んでいく人もいたんでもっと活躍する場面が見たかったです。個人的にそういう場面も切のうて好きですが。
二話までの主人公の日常(?)は非常に好きだったので毎回そんなカンジでやってほしかったなーと思います。

「ほとんど出番なく死んでいく人」というのも、感慨深いモノを感じてしまった。わたしたちって、「ほとんど出番なく死んでいく」よね。当人たちは激しく憤ったり、嘆いたり、生きる意味はなんだろうとか煩悶しつつ、でも、結局ほとんど出番なく死んでいく。「ほとんど出番なく死んでいく」キャラクターが活躍しているところを見てみたいとわたしも思う。でもそれをするのは、わたしたちではない誰かにやってほしいと思う。わたしたちが送り出した「去人たち」はもう、どうやってもここに連れ戻す事はできない。それができるのはあなた方なのだと思う。去人たちは相対的にみたときに、ある地点においては「来る人たち」なのかもしれないでしょ。



巨人たち (1976年)

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