1日15分創作し続ける意味、あるいは現実から乖離する15分の意味
ブログを書くことに意味はないだろうと思っていたが、まあ、確かにブログを書くことに対した意味はない。プロのブロガーではないし、文筆家でもない。
当初からあたしもそれについては予期していたし、結果、良くも悪くも予期したとおりになっている。
書くことの意味はおいておいて、書き続けたことの意味は大いにあったと実感できる。
書き続けること
まず、このような『書くこと』が一般的であるかないかはいったん置いておく。
書くことというのは読者を想定して書くことになる。自分の中の他者というか、他我というか、自分が認識できる範囲での他者というものに対して行うエクリチュールみたいな……そういう敢えて韜晦して語りたくなるようなことを日々繰り返すことにどんな意義があったかということだと考えてほしい。
日々に他者は無数に立ち現れるが、他我は意識的にしか立ち現れない。あたしたちは他者に圧倒され、やり過ごし、抑圧し、うっちゃり、他者でなくする。砂塵が通り過ぎるときに、本当に小さな石塊が靴の中に入り込んで足の裏に微かな違和感を残す。たいしたことではない。だが、それでもしらない間に足の裏に蓐瘡ををつくる……つくることだってある。
書き続けること、それは靴の中に入り込んだ石ころを取り出す作業のように感じる。
予想外だったこと
良くも悪くも想定ないだった、とは言ったけれど予想外なこともあった。というのも、このブログを興味をもって読んでくれる人がいたこと。
『読まれたくないなら、ブログじゃくて、プライベートな日記で書けばえやろ。ブログで書いているのだから読まれたいのだろう』
なるほど。それはそういう風に思われても当然だ。
だけど、そういうつもりではない。
『読まれたくないとは思わない。だが、無理に読んで欲しいとも思わない』
こんな言い方するから感じ悪く思われるし、なんで上から目線やねんとしかられる。
まあまあ、そのおしかりも当然とおもうし、その反面アホらしいともおわなんでもない。
隠喩
あたしはこのブログに興味を持ってくれた人に素直に言えない感謝の気持ちを持っている。
あたしがこのような気持ちで居る間に、このブログに興味を持ち続けている人に<ありがとう>と言わずに居続けることと思う。
それがこのようなブログを書き続けるためにいるためのあたしがし続ける自由な抑圧なのだと思う。
まとめ
1日 15 分でいい。明快な評価基準を離れて、両面感情の中に身を委ねよう。
創作的 QOL 向上するでしょう。まあ、それ以外で何がどうなるか、どのように退廃するかはしったこっちゃないですが。