去人たち開発ブログ

同人サークルK2Ceeが去人たち開発についての記事を掲載してきます!

断酒すると人はどうなるのか実験してみた

憂鬱症なんて症状はたぶん、定義されていないと思う。定義に当てはまるか当てはまらないかを気にしているとなんもできなくなる。当てはまる部分と当てはまらない部分を取り出してその差分から何らかの傾向を見出して一般化しなくてはならない、という気がする。断酒の実験レポートを書くにあたって、本題に関係ないところはテキトーな用語を使って自分自身の注目をそらしておく。

断酒をはじめるまで

慢性的な憂鬱症と何年も付き合い、こういうもんだろう、と諦めている。かかりつけのドクターには、受診するごとにお酒をやめてみよう、となんども提案されてきた。「やってみようとは思うんですがねえ……」とか「最初は少しずつでもいいんですかね......」などとはぐらかしていた。去人たちを作らなければならないというプレッシャーや、何かを作らなければならないという思い込み、焦燥感から逃避するための手段が酒になっていて、その代替となる方法なんかないだろうと、判断を留保し続けていた。
そんなことが続き、症状も一向に改善しないのでドクターもしびれを切らしたらしく、アルコール依存の専門クリックを紹介されることになった。
自分にとっても慢性化した憂鬱症は変化も見られないし、本当に死ぬまでこれが続くように思えていた。それはそれで退屈だろうとなんとく想像はできた。臨終の際で楽しくなかったと思うぐらいなら、いっちょ実験がてら酒をやめてみないか、と自分に相談して断酒をはじめた。

断酒メソッド

これまで、一年のうち360日はなんらか酒を飲んでいたのではないだろうかと思う。量としてはだいたい純アルコール量で 50 - 60g / day 程度だろうか。一般的に適正飲酒とよばれる目安が純アルコール量で 20g / day といわれているのでまあ多い。ただ、速攻で身体がぶっ壊れるほどでもなかった。連続飲酒もしていない。基本的にお酒を飲むのは夜だけにしていた。
さて、この状態からどうやって断酒しようか、と考えた。
一般的には家にある酒をすべて流しに捨てるところから始めよう、などというやり方があるようだ。だがそんなことはしない。絶対にしない。しこたま買い込んであって、しかも(自分にとって)なかなかのお酒たちであるからして、そんなことをしたらお酒を造っている人にも申し訳ない気持ちになって死にたくなるに決まっている。
そこで、酒はいつでも飲めるという状況はそのままにすることでストレスをためすぎないようにし、いつでも飲めるんだし、少しずつゆる~くゆる~くお酒の量を減らしていく、という方法をとった。この方法は禁煙するときにも使ったメソッドなので、自分の中では信頼できる方法だった。
さらにストレッサーになっている「去人たちの作業」について考えた。「去人たちの作業」はじわじわと効いてくるタイプのプレッシャーで、いざ作業しようにも何も浮かばない、手が動かせない、そこでお酒を飲んで逃避してはなにもアウトプットなく寝るようなことを繰り返していた。じゃあ、簡単だ。「去人たちの作業を一切やらなくてよい」という約束事を決めた。プレッシャーから逃れたい一心で酒を飲むのなら、まずは原因を取り除く必要がある。ただプレッシャーをかけているのは自分自身であり「やらなくていい」というルールを作ったからといってプレッシャーがゼロになるわけではないことは分かっている。このへんは理性の作業だと考え自分なりの合理化を自分自身に押しつけた。飲酒したところで作業はできないし、飲酒したからといって何かよいアプトプットができるわけでもない。もう数年にわたってそんな状態なのだから、ここで数ヶ月の中断があったとしても断酒実験とそのあとの創作への影響を試す方がいいではないか、という自問自答をひたすらやる。

あとは自分の決めたルールのなかで節酒、断酒に向けて計画を実行する。

断酒を開始してみると、早々に離脱症状(酒がのみたい、酒がのみたいとおもい煩悶する状態、それにともない集中できない、イライラするなど)が出てくるだろうことは想像通りで、これに関しては運動してくたくたになる、クスリを飲んでさっさと寝る、という対処が有効だった。自然と一日、8,9時間寝ることになり二日酔いにも悩まされなくなるので、離脱症状のしんどさと比べても遜色ない効果ががあった。それでも苦しい時はある。それには追加の代償行為で気を紛らわすことにした。ゲームをする、新しいガジェットを物色して買う、マンガ・小説を読む、こんなところか。能動的なアクションがよく、動画をみるというような受動的なものはよくない。むしろ、手持ち無沙汰でお酒をのみたくなる。
そんな試行錯誤で、最初の2,3日ぐらいにお酒の量を減らしてあとは、ぴったりと断酒できている。

断酒するまえと、断酒後一ヶ月

断酒以前

  • 社会生活が破綻しない程度に無気力的憂鬱。何をやるのも面倒
  • 自分自身に対する無力感、無能感で胸が締め付けられる
  • 漠然とした不安感
  • 何をしても申し訳ない気持ちで一杯。生きていてすみません状態
  • 去人たちの事を考えると胸が苦しくなる
  • 集中力がもたない。本を読んでいても頭にはいってこない
  • 何かをしなければならないというぼんやりとした焦燥感が断続的に続く
  • お酒を飲まないなんて人生の九割がた損していると確信
  • お酒おいしい、肴が最高。ハッピー!
  • お酒の席で張り切りすぎて翌日、強烈な自己嫌悪に陥る
  • amazarashi の曲を聴くと安心できる

断酒以後

  • 自分はつまらない人間だと思う。でもそれは事実だし、反省することもない。つまらない人間、ただ、それだけ。迷惑もかからない。
  • 社会生活が破綻しない程度に無気力だけど、つらくない。ただ、どうでも良いし、自分ってそういうもんだと諦められるし悩まない
  • 自分自身に対する無力感、無能感はあるが、つらくない。ただ、どうでも良いし、自分ってそういうもんだと諦められるし悩まない
  • 何をしても申し訳ない気持ちは続くが、嫌な顔もせずに対応してもらえてありがとうという気持ちに切り替わってきた
  • 何かをしたいなと思うけど、思いつかない。でも焦るわけではない
  • ハッピーだと思うことがなくなった。いつか死ぬということを考えてもつらくない。生きていることに価値はないけどつらくない
  • 去人たちの事を考えるとつらくなるが、それは去人たちに自分が期待してないからだというシンプルな話として理解できる
  • 内省することが減ったことにより人と話してみたいと感じることが増えた。自分が何を考えているのか、対話のなかで見出したい。コミュニケーションを成功させたり失敗させたりしたい
  • 相変わらず、本を読んでいても頭にはいってこない。ただ、ちょっとマシになった
  • お酒の席に一切参加しないので変な風にみられる
  • 物忘れが減った気がする
  • amazarashi の曲を聴くとノリノリで絶唱しまくる

一言で言おう。ネガティブなダメ人間が、ポジティブなダメ人間になった

簡単だ。ダメ人間は変わらない。でも陽気になった。陰気なダメ人間より陽気なダメ人間なほうがいい。
ただ、周囲への迷惑は確実に増えたのだろうと思う。借りを作ってばかりいるという負い目は昔は耐えられなかったが今なら、お互い様、イエイ! といって、10分後にはけろっとしている。
もう一度いっておきますが、離脱症状は抜けたと思っているし、幻覚もみえていませんからほんとうに。何も見えてない。

アルコールと去人たち

ツラトゥストラはかく語りだったろうか、酒を飲んで数日で書き上げたとか。
去人たちも展開した精神で一気に出力できないかなとか、試していたらこのざまである。
いま酩酊もせず素面で何かをかいても作文程度のなにかでしかなく、これまでの去人たちになっていった暗部やぞくぞくするような得たいのしれないものはでてこないだろう。誰かの書き方をまねて自分にもできるかもとか、まあ、考えが甘すぎ。
自分なりに無意識に接近する方法をみつけて酩酊と似たようなアウトプットっていうのは可能かもしれないけれど、強い葛藤がないなかで、アニマは登場することはないんだと思う。そうそう、やっぱ、アニマ的なもの必要だと思うんだよね、今も。

巨大な檻の中に閉じ込められた人間の見ている夢という検証不可能な仮説

数ヶ月のうちにネガティブなダメ人間、ポジティブなダメ人間という急激なパラダイムシフトを経験して足許がぐらつくのを感じた。そこで精神を安定させるために検証不可能な仮説を立てることにした。
未知の大きな存在によって捕らえられた人間がいて、とてつもなく大きな檻の中に入れられている。一辺が数百キロにもおよぶ巨大な檻で鉄格子それ自体は見えないのだけれど、確実にその檻の中にいることだけは分かっている。
自由を奪われたことに腹をたてて、不平不満をいい、愚痴をこぼす。そして気が済んだら少し寝て、目が覚めればまた同じ事を繰り返す。
自分はその人間が見ている夢の中で連続しないアイデンティティを瞬間的に意識する存在である。一生変わらないことは一瞬にして変わってしまい、一瞬にして変わってしまうことは一生変わらないと思い続けることができる。「一瞬」はスライダーバーを動かせば最後の瞬間に即座に移動し、一生になる。
ピントがずれた像しか結ばないこの夢のなかで自分を更新するためには「巨大な檻に閉じ込められた人間」を想像することしかない。それ苦痛なら「巨大な檻に閉じ込められた人間」なんていないのだと思い込んで、今の自分に見えているもの、聞こえているもの、感じているものがすべてなんだと覚悟して受け入れるということもできる。
いまも「巨大な檻に閉じ込められた人間」を想像するこのはなぜかとても恐ろしい。