kowさんは天ざる大好き

創作に絶望すると、世界が反転した日記

5月29日(金)

目覚めの儀式は効果がでているようだった。何であるオープンワールドから、クエストが1つしかないシンプルな世界へと視野を狭めてくれる。複雑な事象が相互にからみあって解決が難しい現実への準備運動になる。

今日は十時ごろに馬カフェ「タンブルウィード」に出かける。治療のことを考えてアニマルセラピーという思いつきだったのだが、前から生き物と触れ合いたいと思っていた。特に自分の力でどうこうすることができない生き物に興味があった。自分のパーソナリティのやっかいなところは制御癖であり、そして対象物に圧倒されてしまうと自己との乖離をひきおこして抑うつ状態になる。我が強いというか幼児的というか硬化した思考パターンというか。現実をありのままに受け入れるという森田療法的なアプローチとアニマルセラピー的な神経伝達物質の改善の両側面からトライする価値があると考えていた。
馬カフェ「タンブルウィード」はご夫婦が経営していて、馬も三十頭ちかくいる。アイスコーヒーを注文する。最初は厩舎にいる馬やグランドで一生懸命草をたべているポニーを遠巻きに見る。馬は独特な目をしている。優しい目をしているという風にもみえるし、何かトラブルを抱えていて困っているようにも悲しんでいるように見える。オレが人の視線を避ける理由のヒントがある気がして怖くなる。触っても大丈夫と教えられたので首のところを撫でてやる。馬は人間よりも体温が暖かいらしくほかほかである。撫でているオレを馬は見てないふりでじっとみている。馬はいきなり目を見つめて深い話をしようとしない。オレは馬に対して好ましいと思う態度を投射し、人間に対しては好ましくない態度を投射している気がする。乗馬もどうですかと進められたが今日はやめることにした。人間にも馬にも、オレはオレを中心にしか関係を持てない。みんな不幸だ。

今日は夜にヤマシタさんとオンライン飲み会の予定がある。絶品の毛ガニをヤマシタさんが送ってくれるとのことだったので、それに合わせて日本酒を買う。ハイパーマートの中にあるお酒専門店は我文町というへんぴなところなのに充実していた。純米生酒のおすすめをもらう。ただ買うのに、素性を根掘り葉掘り巧みに引き出してくる。最近我文町に越してことをいうとどこから来たか聞かれたので、月の嵐の大洋から来たと率直に伝えた。絶句して言葉をのんだ。田舎特有の強力な情報ネットワークでは明日には月面から来た変態の噂が広がっているだろう。それはそれでよし。

帰宅すると産業医との復職にかかる面談の準備をする。マッキーから面談前に記入する資料がくる。久しぶりにイライラする。短時間で記入できるものじゃないのでリスケをお願いする。つい文句を言ってしまったが、マッキーどうしてしまったんだろうという不安もある。勘違いしいただけか、マッキーに期待しすぎていたのかも知れないし、社内手続きが煩雑化しているのかもしれない。いずれにせよ、オレは忘れることにした。手に届かないものに手を伸ばさない。自制、自制。

十七時すぎから、ヤマシタさんとオンライン飲み会。活き毛ガニは大ぶりでずっしりと重みがある。調理方法をヤマシタさんに確認し、蒸し器で十五分ほど蒸す。過去にはロブスターも同じく蒸されてきたが、殻に覆われたやつは旨い。オレは殻に覆われているが中身はない。蒸し上がった毛ガニとともに乾杯する。贅沢に味噌からいただくが絶品である。困難なコミュニケーションクエストを経て入手した日本酒も相性ぴったりである。ヤマシタさんはお子も人間性を獲得しはじめてきている。悪魔的な時期で手間がかかるらしい。人間のお子は本能がぶっこわれた上に、理性の発達は時間がかかるというもっとも制御不能な危険生物である。オレには恐怖の対象ですらある。黒目が大きくて目がくりくりしていて悪魔には見えないけども。
ヤマシタさんは年内仕事が決まっているようで自分の作品を作る時間がとれないようだ。自分自身の表現したいものを表現する、そういった創作が目標があり、その手段として使えるのが得意な作画と、いつも潔い。小説でも漫談でも説法でもいいのだけど、自分が得意なのは作画。器用貧乏ではなく突き抜けて好き、得意といえるのは大事だと思う。オレも胸を張っていえるような得意スキルがない。
酔いも深くなってくる。いつもの去人たちの昔話をする。若おかみは小学生の話をする。オレは若おかみが見やすいアニメ以外には何の思い入れもない。一方で作品構成としての若おかみの仕組みをヤマシタさんの解釈を教えてもらう。なるほど、丁寧にしっかり歯車が組み合うようにできているのかもしれない。作品が入ってくるか入ってこないかは、受け取り手次第なところもある。批評的に鑑賞しないのであればとくにそうであろう。監督業とは理想的で読者であることなのか、現場でプレイヤーとしてチームを率いることなのか。
一緒に何か創ってみたいなと思い話してみたがヤマシタさんにはフラれる。まあ、これまでにもたくさん機会はあったしヤマシタさんも実際に手を動かしてくれた。そこにあったのは創作ではなくてたんなる分業であったというころが痛恨の極みであるが、今となっては取り返しがつかない。オレは自分に都合のいい理屈を取り入れ批評を学ぶことで批評を批判してきた。批評こそが文学を育てるなどという信念があるわけではない。好きとか嫌いとかで去人たちが判断されることに悲しみを感じ、好きとか嫌いとかオレが区別した作品たちはいっせいにオレを攻撃してくる。精神安定剤としてなにかの理論を必要としただけにすぎない。変な話、オレは去人たちの感想を消費しなければいけなかった、オレが本当に必要だったのは創作そのものの方法論だったのだと思う。まあそれも問題がないではない。自身の創作を機能分割されたなんらかの装置の分解しようという試みは創作においては敬遠される。静的な批評文化がそれらを下支えしている。生きてくために評価されないといけないなら、そんな創作、やめちまえ!!! もう、誰もそんなこといえない時代。

二十二時をまわって飲み会をお開きにする。旨い酒と創作の話をしているのは楽しい。十二歳のころを思い出す。日本酒は空になっていたから四合を飲み干したらしい。道理で泥酔しているわけだ。明日は一日ダメになるかもしれないが、その取引はありであろう。
少しだけ片付ける。足許がおぼつかない。洗い桶に皿を付けると下にあった薄張りグラスの口を割ってしまう。いわんこっちゃない。片付けを放棄してふて寝する。失恋はつらい。