kowさんは天ざる大好き

創作に絶望すると、世界が反転した日記

去人たちレビュー応答:その9

メンヘラが力場から解放されて語る場は失われたよね。lain の中で示唆されていたネットのディストピアが本当に実現した、きちんと。
メンヘラは会員制のサロンで閉鎖されたブログを書くか、非ワイヤードのマテリアルな日記をしたためるしかない。そして後者こそが至高の自慰行為である。
いや、何を問題化したいかっていうと、ブログという虚構と小説という虚構と虚構の境目の複雑化がもたらした功罪についていつか語ろうぜ、お前ら! ってことである。

さて、今回のレビューはこちら。
毎度のことですが、レビューアの方に許可は一切とっていません。そして、今回はマジでメンヘラっぽく支離滅裂でいこうと思っています。攻撃的で自虐的で最終的にはこういう記事を書いたことを後悔して日々を過ごすタイプのやつをやらなければならないと思っています。

今回のレビュー応答記事
Free AVGの感想

システム面のダメだしって当時からさんざん受けていた。とくにセーブについては開発者からも増やしたらいいのにといわれつつも増やさなかった。ひとつの理由としては、私たちにとってしおりを複数挟んで本を読むという体験がなかったからだ。もちろんこれは「しおり」の問題ではなくて、読み返す方法がないことに対する問題なのは知っている。しおりは1枚でもいつでも読み返せて、そしていつでもしおりの位置に戻れるのだから物理的な読書では問題が無い。だが去人たちはもどれる場所も制限されつつ、しおりの場所からの再読を強要されるわけだから、そこに異論がでるのは当然だと思う。

ただ、わたしたちは次の二つの違いはわかっていたつもりだ。分けて考えている。

  • 既存の読書体験が、去人たちというノベルゲームでできない
  • 既存のノベルゲームでできることが、去人たちというノベルゲームでできない


このうち、後者については一切どうでもいいことだった。つまりなんどか同様の選択肢を経て、新しい分岐が発生するという当時のノベルゲーに対して強い反論を持っていた。今現在では便利な言葉で説明できる。たとえば、アンチポストモダンであったり、アンチ動物的ポストモダンとか、そういうことである。家内制手工業のノベルゲーを現場レベルで実感したときに、このやり方はきっと物語を衰退させるのではないか、的な危機感をもっていた。
とかなんとか、後出しでいうのは簡単だけど、これ、ブログに書いちゃうと、「去人たち」という作品を切り売りしてるみたいで大っっっっっっっっっっっっっ嫌いなんだよね。だから、こういうの書きたくなかったし、印象批評でいいし、自由にやったらいいと思ってたわけ。でもさ、印象批評ができる神様だってパチモン使いされるって lain は暴いててそれは愉しいわけ。これは形式の転倒ってあるよねっていう学術的な閉じた議論じゃなくてもっと展開していかないとっていうふうに思うよね。必然的にさ。物質と精神の間の神であったり、神と人間の間のキリストであったり、そういうものがさ過渡期はには必要だって思うじゃん。幼年期の終わりだってそういう緩衝的な時間が必要だったっていうお話だよね。


以上を踏まえて、反省するべきところはした方が良いと思うが、以下については今でも後悔していない。

セーブ3つもあるんだから、むしろこれは妥協だ! と思っていたぐらいである。
去人たちにセーブは不要とすらおもっていた。

こんなことを書くと同時に下記のような妄想が頭の中を占拠する。

インタビューアー:
バックログやセーブが増えたことで好印象を受けました。どう思いますか?」

K2Cee:
「読書体験をデジタルでしたいならそれでいいんじゃないですか。渠らがそれでいいなら」

みたいな、インタビュー記事が載る。もちろん、上記は想像の中だけであり、現実にはこうはいかない。日和ったうえに、「ユーザが喜んでくれてなによりです」というにきまっている。そんなことをいう自分が想像できる自分なんて最高に大嫌いだ。

ちょっと、応答がおろそかになってしまった。続けましょう。

とにかく誤字の多い事には閉口。スタッフの人達は、書きっぱなしで読み返していないのでしょうか・・・。
 少し誤字がある位は愛嬌ですよ、私なんかとても人の事なんて言えませんし。でもこうまで多いと、すらすら読めないですよ。改行も少ないし(人の事は言えんか・・・)。
 漢字もね、読み辛いのを使うのは文章スタイルとしてカッコいいのはわかりますが、・・・読めますけど読み辛いんです。全体的に実験的作品という事で、こういう部分も実験の内なのかも知れませんが、読者が読む時の事を考えないで、勢いで書いちゃってるような気がするんですよね。そこだけでも改善されればかなりの人がたっぷり去人たちの思いに浸れて楽しめるのに、凄い残念です。

誤字脱字はまじで誰も気付かないという、奇想天外な状態だった。これは昔から申し訳ないと思っている。正直、読みにくいのはしょうがないとしても、誤字脱字は反省している。
あと漢字のルビがないのは、システム上の問題で、前に言った創作的などうこうではなく技術的問題です。かっこで読み仮名入れるのだけは反対されたので。でも、ひらがなにするよりは漢字のままで、ということになった。
あ、読めなくても漢字のままでいいのです。そこはね。そういうこともわたしたちの読書体験としてプラスであったから、という程度の理由で。

実験的なのは特にシステムの勉強と言う意味で強い印象を受けます。逆に言えば、ストーリは二の次って事なのかもしれませんが、ストーリ自体はシステムよりはるかにハイスペックである点が何とも皮肉。ツールで展開してくれればもっと完成度が上がると思うのは私だけでしょうか。

フルスクラッチD言語や、Csで書いた kow@suhito のプログラムが気にくわないって? なるほど、なるほど。
キミの言うことには一理も二理あるけれどもだ、ノベルエンジンをさ、フルスクラッチで書く経験ってなかなかないわけなの。何が面白いって、まずパーサを書くことね。パーサ書くってまずないから。そしてシナリオって状態をもつわけでだからさ、状態管理するでしょ、そして、その状態に対してビューがあるわけ。もうね、ゲームプログラミングの基礎がすべてはいっちゃってるんだよね。ゲーム業界でプログラマやりたいっておもったら、これは最高のゲームだと思う。まあ、正直アクションのほうがゲームプログラミングの習作には向いていると思うけどね。

完全版Ⅱβの感想:βですが、最後までちゃんとプレイできました。良かった、いや去人たちそのものがね。結局、完全版Iに対するこれはメタフィクションだったのか、・・・いや、逆か。完全版Iがメタフィクションなんだ。

去人たちⅠをプレイした後に、去人たちⅡを高評価いただく希有な例だと思っている。
前作が「不本意に評価」され、それの反動で……みたいな芸術家あるあるみたいな話だったら、いいのだけれど、前作が不評だけど、それは我々が日和っていたからでもっと突き抜ける必要がある、というタイプの開き直りは同人ならではというところなんだ、と自分で言っておこう。といいつつもわたしも「去人たちⅡ」は去人たちⅠの応答としてここまで皮肉ったものはないなと思った。正直、もっと物語的な絡ませ方はあったのに、分断させたのではないかと思っている。これは@liceしかしらないので、わたしも想像でしかこたえられない。ただ、個人的には lain 以後というときにはすんなり受け入れられた。

★2007.12.25:この嬉しさをなんと伝えれば良いのだろう。ムービー見れた!かっちょ良い映像!極度も達成した!そん時何点だったか忘れてしまうくらい嬉しい。サンタさん有難う!

おめでとうございます! あの音ゲーはわたしの勝手な一存でつくりましたが、ご堪能いただけて大感激! なぜ音ゲーなのかということについていつもご質問いただきますが、いまのうちにいっておきますね。
去人たちⅡのエンディングを見ているとき、それはあなただけのエンディングなのです。

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去人たちレビュー応答:その8

前置きは抜きで行く。

だから、去人たちをプレイした多くのプレイヤーはレビューを書こうしなかった。


こういう、結論でプログを書いたら、静的で価値のないコンテンツになるだろうと安心している。さて、書いてみようか♪


blogs.yahoo.co.jp

長い時間をかけてヤケクソで最後まで読みきった。

切らずに最後まで読んでいただいたことには感服する。おそらく前評判があったらこそだと思うが、むしろもうしわけないという気持ちがある。
前評判をもとに、がっかりした映画を見たとき、アルバムを視聴した時の気持ちを私はよく知っているつもりだから。
時間や対価を支払って消費するコンテンツに価値がなかったときの絶望感は皆が知っていると確信している。
とくにコンテンツの中には最後の最後でコンテンツの評価を覆すような大どんでん返しでその作品を成立させるようなものがあるので、切り捨てずに最後までやってしまう場合があるが、ざんねん! 去人たちはその手の作品ではありませんでした! という応答になってしまう。


当時の状況において、ノベルゲームをやっていればいるほど、去人たちにははまり要素はないだろう。あらゆるノベルゲームが出てきた中で文学的な挑戦は一切無視されていた。筒井康隆が文壇から無視されていること書いたエッセイを読むのが好きだった。「あんなに面白いものは文壇などという権威から無視されているのだから、わたしたちが個人的に愉しんで応援しなれば」みたいな少々やっかいな勘違いすらしていた。

しかし、そのわりに読んでいてあまり楽しくない。とにかく、無意味に難解かつ読みにくい文章が、ひたすら延々と最後まで続く。

実は、この現象、わたしもよく分かる。貧乏性で最後まで読んでしまうが、「良く最後まで読んだね」といわれることがある。思想・哲学書では良く或る話だけど、近代の文学では有名どころでもそういうのが多くて本当になにもわからないのに、最後まで読んでしまうことが多かった。
たとえば当時、「ねじまき鳥クロニクル」は理解できなくて愉しい作品だった。「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」から「ねじまき鳥クロニクル」という文学的事情はおいておいてもこれは愉しい体験だった。正直、わたしにとってはこの体験があったから、大江健三郎のような作品を読めるようになった。そして、文学とはなんなのか、ということすら、やっと考え始められるようになった。


セカイ系とはなにか! などと深くが考えていなかったのだけれど、非合理的な事で空想的で非現実的でありえないことが、虚構の中で起こることに恐怖を感じなくなっていた。超虚構という概念によって虚構が解放されたこともあるが、これはまた別の機会に。


最後に。
直感的に相容れない作品を最後までやって得する確率は、3割。ごく控えめに言って。


ねじまき鳥クロニクル〈第1部〉泥棒かささぎ編 (新潮文庫)

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去人たちレビュー応答:その7

投射とか合理化とか楽しくて愉しくて仕方ない。いやあ、人生って最高である。
どうも、kow@suhito14歳です。
いつもこの導入の枕詞で多くの読者を失っている気がしますが、個人的にはマストなんですよね。サイコー!


さて、今回のレビュー応答はこちらです。

去人たち完全版sh1n5ke.wordpress.com


このレビューに対しては

「本当に残念です。次回作の参考にさせていただきます。」

などと、弁えた応答では生ぬるいわけです。


というわけで、応答していこう。
このレビューの登場人物だが、良い感じに簡潔にまとまっている

  • レビューア
  • 2ch小賢しい投稿者
  • 一般的なプレイヤー像
  • 仮想のメンヘラ友人


去人たちをつくっていいた私たちこそが、このレビューアの立場と似たような場所に居た気がする。
当時わたしたちは、エヴァというコンテンツに対するカウンターコンテンツがたくさんでてきた、というエヴァをオリジンにすえた解釈を愉しんでいた。カンターコンテンツの多くはベクトルを多少変えるものだったが、「位相変換」(我々の言葉で深い意味はない)という大胆な手法もあった。少なくとも私たちの肌感覚ではそうだった。
去人たちも、そのような「位相変換」のようなコンテンツたろうという気持ちはあったのだと思っている。


という、まどろっこしい前置きをして応答していく。

2ch理論武装したカキコをよく目にしますが、
ああいう感じで世界と設定を表現しちゃうと、
こういう病的なものになるんだと思う。
たぶん、悪いものではないんだと思う。
間違っても、理解できたとは言えない。

去人たちという作品が、世界と理性と自我の中で葛藤してたからってさ、しったこっちゃないわけで、何が超自我やねん!って話。
ラカンの説明をしたってみんなあっけらかんとするしちゃうわけ。
















wwwwwwwwwwwwwwwwww
















大阪に来てからなおさら、笑いのセンスに自信がなくなったkow@suhito14歳です。


ゲームやる人のことを考えてないんだろうと、思った。


これ、本当に考えてないだろうとおもう。事実考える必要が無かったし、考えることで作りってる側が愉しくないならそれを採用する理由は一切なかった。オナニーの中でももっともフェティッシュな独善的な出力形式である。だから、このレビューに対する応答は、尤も! という一言になってしまう。
これだけだと感じ悪いので、印象操作を重視するkow@suhito14歳は、あいすみません、と謝罪もしておこうと思う。

「オレ、小説書いてみたんだけどさっ!
 オマエ、本とかよく読むし好きだろ?
 ちょっと読んで明日感想聞かせてくれよっ!」
って精神病んでるメンヘラなダチに強制されているようなもんでした…。

わたし個人も同様の感想である。そりゃ、去人たちⅡの文章をいきなり渡されてみろっていう話である。
いや、パロディにせよ、あそこまでガチでパロディするとあれはもう、病的といっても差し支えないわけで。パロディだと知っていてもよっぽどなのに、そうでないプレイヤーはあっけらかんである。らかんらかん。


まぁすごいな、って思った。これはすごい。
すごいな、と。


去人たちは一般的な価値はない。しかし、その無価値は無駄と徒労とオナニーでできていて、その無駄なアウトプットがすごいのだと理解した。
そんな無駄なアウトプットはすごいという評価はうれしい。わたしたちは価値を決める立場にないのだから。



新しい文学のために (岩波新書)

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去人たちレビュー応答:その6

去人たちとかいう作品を発生させることと創ることは全然違うことなんだよな、とか無から有が発生した瞬間にロマンを感じる14歳です。


今回取り上げるレビューはこちら。


去人たち


infoseek や nifty がぞくぞくと撤退し、HTML4 は絶滅していく中で、 geocities はいまだ頑張っている。
リンクを張っていて価値があるのも今のうちで、数十年もすればこの記事も孤立しているかもしれない。
それでもこの記事の潜在的な価値は変わらないんだ、というスタンスなのは去人たちならではないだろうか。


このレビューは現存するレビューや感想の中でもかなり古いものだとおもう。
dl ライブラリ版、yanesdk版、 yanesdk4d版、 yanesdk.net版と、それぞれ角をとってわかりやすい表現の去人たちを何度も作り直していた私たちの中で、yaneSDK4D版はまだ尖っていた去人たちである。まだアートだった、といっていいかもしれない。

しかし、この独特のシナリオに読まされました(難しい単語が出てきますが^^;)。
荒削りですがオリジナリティがあって、個人的にはこういうものに出会えたら嬉しいですね。一般向けな作品ではありませんが、ツボにはまる人には良さそう。


この感想は、わたしたちにとってとてもうれしいものだし、同時に突っ込んでインタビューしたくなるような感想なのだ。
今後も同様のレビュー応答をすることを予期しているのだけれども、わたしたちは一般的に「去人たちを創ったら褒められる」と思っていた。14歳は自信過剰で周りが見えていないのかもしれない。でも、多少はわきまえていたようで、こんなものをつくったら「叱られるだろう」ということも少しは予期していた。そして、そのように「きちんと叱りつけられる」こともセットで必要なのだと思っていた。
キョジンたちという「反転した実存」、「シミュレートされた実存」はそれ自体の矛盾によって批判されると同時に、相反する指標によって止揚されていくのだ! アウフヘーベン

はあ……

主観的に振り返って、今でもその試みが価値のないことだと思っていない。その基準においてはよい試み、トライであったと感じている。ただ場況を読み違えたことについては間違いない。そしてその間違いは致命傷だった。物語と現実がより乖離し始めるという情況をよめていなかった。巨人たちや虚人たちの文学的価値は、それ以外の価値とほとんど共有できる部分がなかった。

今後に期待できる作品ではないでしょうか。後半の展開がよくわからなかったのが残念ですが・・・
個人的には、こういう作品は大好きなので点数は甘くなります。

後半の展開――そもそも去人たちⅡの展開は、どうやってもおかしくて、それを許容できる人だけ受容しているかのようだ。対話をやめた、あるいは限定したように見える。
でも対話ってなんなんだろう? それがなければ無価値なんだろうか? 価値がなけばだめなんだろうか? 無価値に価値はないだろうか?


……………………

価値観は複数あり、その価値観の対立はその価値観の数だけ対立するパスがある。多様な価値観がある世界では、それだけ多くの対立がありそれをコントロールすることなんてできないんだろうと思う。
去人たちⅡとは、社会統制不可能性と実存の関連性を明確にしたい、っていうありがちなAI論の延長にできたものじゃないのかって思ったりしますが、みなさんはどう思いますか?
わたしの仮説がうまく説明できているかもわからないですが……

去人たちレビュー応答:その5

去人たちとかいう作品のレビュー応答ができるのは価値のある時間だ。
その時間がいつとれるだろうと思いながらすごしている。今日はその時間がとれるのでとっても充実した日といえるだろう。



本日取り上げるのは下記の感想です。

650の無味乾燥:C72作品レビュー47 去人たち 完全限定版


いわゆる、「去人たちⅡ」の部分の感想を掲載していただいている。
まず、こちらも全体としては好感をもった評価になっている。(パフォーマティブってなにかおいしいの?)
レビューアの戸惑いが筆致から伝わっているし、それについて解説しようという試みは、本来の目的を差し置いても魅力のあるレビューとなっていると思う。


作品概要はシンプルでわかりやく、去人たちⅡ本編を読み始めるよりも、ずっとプレイしたくなる。

とある診療所に精神異常者達が隔離され、共同生活を送っていた。
その異常が故に衝突もあったが、秩序は保たれていた。
しかし、指令役が不在するようになり、その均衡が次第に崩れていく・・・

そうそう。キチガイたちがいっぱいがいきなり出てきて、ヘンテコなことになっていく。
この説明で「去人たちⅡ」の導入のモチベーションはほとんど語られていて、でもこれに対する共感を過剰に求めるのはきっと違うんだろうなって、今は思っている。


以下は、感想として。

この作品は異常を単なる異常で済まさず、
異常の特質性もあるのですが専門的に語ってくれます。

これについては、価値観の転倒をやってみせる、という物語、ドラマツルギーの型どおりなんだろうな、と思う。
その手法の一つ。でもさ、そんなことをこんな一言でいうと「去人たちⅡ」をやりたいと思わなくなるだろう。
「夜のみだらな鳥」を読んだのは、最近で「去人たち」をつくっているときには知りもしなかったのだけど、最近読んで「去人たち」原型なり、あるいは「虚航船団」のサブテキストなり、連綿とつながるコンテクストを意識した。「人間らしさ」を扱うために、「人間らしくないもの」を基点にアプローチしようとする。だが、それが「人間らしく見えてしまう」逆接。さっきも言ったが、価値観の転倒、ドラマツルギーである。1つめの逆接として発生してくる「人間性」は二項対立の構造を提示するが、それを脱構築ために登場するのが読者である。価値観の転倒はその解釈を訂正され、解体と言い直される。ドラマツルギーは複数の位相に複写されて、その意味自体が希薄になる。読者は物質的に固定された文字が刻み込まれていない以上、意志をもって選択をせまられる。無視するか、肯定するか、否定するか、受容するか、否認するか。
でも、これは応答のなかでわたしたちが何も結論めいたことは書くことができない。あらゆるところであなたがそう感じたことに関して、だれが意義を差しはさむ余地があるだろうか?

元から壊れているのに、さらに壊れていく様は、
実に鮮烈て、ある意味人間味が溢れるもの。
あまりの気持ち悪さに途中でやめずにさくっと読了してしまえ~と一気にいきました。
・・・とても疲れました。

極限状態におかれた人間ってどうなるなろう? って創作の中では定番だしモチベーションになる。
去人たちⅡは、「キチガイたちの日常」~「キチガイたちの狂躁」という重畳状態を楽しめるかどうかってことでしょうか。
楽しんだ結果、疲れるような作品は、今現在消費価値はないと思う。
残念だけど、いま、それについては納得できる。


いま、「去人たち」が一般的に不必要で無価値なのは正しい。作者がそれを全く許容できないとしても。作者乙w。