kowさんは天ざる大好き

創作に絶望すると、世界が反転した日記

7月30日(木)

スヌーズを止めることすら難しい。目を閉じたまま音の源を探り画面をタップする。なんでもいい、不快な音を止めたい。寝るか寝ないか、ギリギリで意識を保っている。まぶたを開けたのは七時すぎ。頭のなかに泥水がつまっているようだ。ちゃぷちゃぷんと音がする。前日の酒が少し残っている。胃の不快感、胃薬を飲むようになってからは少しマシにはなっている。

昨日は仕事も残業、そのあとにエクリプスの企画会議で二十五時までひっぱってしまった。寝たのは二十六時ぐらいだろうか。睡眠の質は悪いし、お酒は残ったままだしメチャクチャである。アル中はまあ一滴で元に戻るからなあ。でも、お酒の力をかりないと自己がシャットダウンしないんだ。誰もが十四歳のときに、「くたばれ、このクソ自意識」と叫んだだろうけど、罵倒したところで自意識は亢進する一方なのだ。お酒をのんで眠らせておくに限る。
エクリプスはシナリオライター不在という夜も眠れない問題をメンバーで共有しながら、それでも勇気をもってプロットの企画を検討する。宮崎駿のいないジブリ庵野のいないエヴァ、押井のいないパトレイバー麻枝准のいないkey、スーパーゼネコン設計の太陽の塔……オタクコンテンツには優れた作品に一人の名前が紐付くイメージをどうしても持ってしまう。GoFのような個人名抜きでよいアーティファクトに出会うという体験が少ないし、あったしても印象が残りにくい。でもそれは絶対のルールじゃない。なら突破する何かがあってもいいはずだ。オレはどちらかというとそういった創発による突き抜けて優れた作品があればいいのにと思う。なぜ、宮崎駿という個人がアーティファクトの品質の上限にならなけばならないのだろうか? エヴァ庵野庵野個人の力で新しい作品を生み出せているのだろうか? この問いは @lice が「一旦、作者について置いておく」ことを試すきっかけになった。もうずっと前にオレはこの問いと向かい合った気がする。作者はいつだってついて回る、だからそこから去る必要がある、という非論理的な展開は去人たちⅡで表現した通りだ。個人の能力の上限がアーティファクトの上限になるとすれば、人間は生理学的な情報処理の上限に縛られる。そして記号学認知科学のDC/AD変換装置における情報伝達のレイテンシの上限が人類の知識の限界になってしまう。さらに、コンピューターを情報処理の補助装置として使っていくとすると、その情報処理の仕組みが人間の知識、解釈に影響を与えるようになる。情報処理方法に人間が合わせるようになると主体が人間にあるのかコンピューターにあるの分からなくなる。この構図はやり尽くされたSFのテンプレートでもある。しかし、その環境状況下にキャラクターを送り込んで徹底的に妄想的に妄執的に偏執的に主観を語らせる試みを人間はやっておかなければいけないのです。自分自身のために。感覚、悟性、理性の境界を感じて快楽感じるべきなのです。その境界が曖昧になっていく今、わざわざ、それをやる必要があるのです。でもそれを分かってくれるのは一握りのプレイヤーだけなのです。しらんけど。
打ち合わせの合間に雑談をする。ラーメン大好き河合さんも行方さんもロックだなあとおもう。価値観や体験の話をきいていると、オレも盗んだバイクで走りだしたほうがいいのかなと思う。でもそれは窃盗だし。ロックが犯罪を助長しているっていう勘違いがどうもオレの中にあるようだ。河合さんも行方さんもアナーキストとしておこう。まあオレの勝手な分類だし、誰にいうわけでもない。永ちゃんの界隈ともトラブルを起こしたくはない。エクリプスはアナーキスト二人とうつ病サラリーマン一人がが企画をつくっている。こう聞くとすこしだけ期待のもてる企画だ。なにか思いもしらない化学反応よ、起こってしまえ!

さあ、今日もおぜぜを稼ぐためにお仕事、お仕事。一人作業がおおいし、やっておきたいタスクもたまっている。午前中は組織課題についての分析作業。途中、DMがきてイラッとする。オープンチャンネルで発言する勇気! プロジェクトチームやスクラムのことについて聞いてもらえるのは光栄と思うが、そこで困っていることはスキルを持っている人ではなく、チームメンバーに問いかけることだ。対話がないのは希望がない証拠。関係が悪い状態になったら勇気もなにもあったものではない。それはそうだけど。指揮統制型のチームリードを買ってきっかけを作ってあげるのがいいんだろうけどオレがつまらないんだよなあ。午後は趣味のコーディング。一人作業がつまらないので、チャットでアイコン芸をやってかまってもらう。コミュニケーションは苦手だけどボケてちゃんとつっこまれると楽しい。お笑い芸人という選択もあったのかも知れない。いや、ないな。頭がまわらないのでつまらないことでも、苦痛を感じることなくできる。そのダメゾーン状態にはいるとゾンビのようにタスクが終わるまでのそのそと続けることができる。結局、パフォーマンスもでてないのに残業してしまう。

知恵熱で頭の泥水の水分が蒸発してヘドロになる。眠いけどなにか脳の奥は覚醒している。躁になりかけかな。風呂にはいる。風呂上がりに冷凍ご飯と冷凍お肉で簡単焼き肉丼。エバラは至高。されど、スタミナ源のタレはあらゆるタレのなかで究極。

お酒を飲みながら執筆作業。この二日間の記憶があんまりない。忙しすぎて、自分がいま正しいことをしているのか、間違っている可能性はないか、ふりかえる時間がなかった。アドレナリンジャンキー化するスーパーエンジニアたちをなんども見てきた。象牙の塔を本当に作っちゃっうんだけども、それは神にしか使いこなせないというキワモノを生み出すスーパーフィーバータイム。自戒。

お薬を飲んで寝る。頼むから今日は八時間寝かせてほしい。

7月28日(火)

前日は寝付けずどうしても酒量が増えてしまった。睡眠時間は減るし睡眠の質は低下するし。アラームとの格闘に一度だけ挑んだがすぐにスヌーズを拒否。起床は七時すぎ。今日の仕事も人との対話ばかり。最近はこの役割が多いせいかちょっとだけ負荷が減ってきた。ダメならダメなりになんとかなるし、あまり怒られることがないことが分かってきた。

昨日と変わらない一日。皿洗いを拒否して仕事を開始する。平和な Slack のチャンネルたち。昨日との差異が何かすらよくわからない。オレは同じ毎日を繰り返している。オレは神経生理学的な限界を超えて世界を認識することができない。ありのままの世界は神経生理学を超越しているに決まっている。オレは再現性のある状態として保存されて永遠に再生されいるだけかもしれない。変化を感じることがオレに時間を感じさせる。むしろ時間という概念は必要せずこの世界に棲まうことができる。連続性すらいらない。離散的よい。離散的瞬間が順序だっていると認識さえできればよい。時間と存在はなんであんなに分厚い本になってしまったのか分からない。新しい一日にするために少なくとも昨日はやっていないとオレのアイデンティティが確信できるタスクをやる。なぜオレはこの組織でずっとオレのままなのかという問い、その問いは、なぜ共に成長できないか、という正しい問いにたどり着く。営利活動を拡大するなかでオレたちは成長し、オレたちが成長することで利益が拡大する。開発者にとっては自分たちがプロダクトの発展をコントロールできている自負と自信、経営者、ビジネスサイドからは自分たちのビジネスモデル、販売戦略がうまくいくことで開発に資金投資できているという手応えとやりがい、この成功体験のサイクルが大切だ。オレの見立てではそのサイクルには到底達していない。ニッチなビジネスだから競合がいないだけだし、先行している分有利だなだけ。むしろ将来の市場を開拓しなければジリ貧なのに正しい施策を打てていない。現代の健康ブームは個人的にはどうかしていると思っているし、生権力に対抗する思想がでてきてもおかしくない。楽観すぎる。開発全体としても個人的には技術志向、あるいは技術偏向といっていいかもしれない文化が蔓延している。ユーザーの要求やセキュリティ要求に対して技術的課題のみが議論されがちである。オレたちが理論物理学者とか研究職ならそれでもいいのかもしれない。それなら方法論はある程度きまる、あるいは方法論そのものを議論すればよい。一方で実際的なプロダクトをつくるオレたちは、いまあるプロダクトに整合するにように拡張し、継続的に運用と保守を行い、さらに将来発展できるように、誰もがソフトウェアを改善できるように改変を入れるということをしなければならない。そこには多少新しい技術の話があるかもしれない。それは要求の内容による。だが、実際に書かれるコードのほとんどはその技術的な詳細には関与しない。むしろ疎結合にするために関与してはならないともいえる。技術者はAWSの新サービスやGCPの新サービス、新しい概念やバズっているワードに反応しすぎである。k8s でマイクロサービスの夢をみて失敗する。それは自分たちが抱えている問題のほとんどは技術的課題だという問題分析の誤りに起因しているとおもっている。あるいは、「技術確認によって今の課題が解決する」という妄想によるものだ。ソフトウェア開発が困難である人が作って運用し保守するからだ。人は不確実で命令を遵守しないし、期待したことを達成する保証がない。そして人は居なくなるし、死にもする。コンピューターに正しい指示をし続けることによってソフトウェアは正しく動く。「失われた時を求めて」の続きを書け、といわれて絶望する、実際20年もののプログラムの保守作業は存在する。当時の文脈、社会背景などを理解しいま、続きを書くなんてことは至難の業だ。プログラミングコードにも多義性はある。ある変数(記号)を違う文脈を使うことができるからだ。プログラミング言語として変数がどのように使われているかを分析して論理的に分解することで理解することはできる。しかしそのプログラムが複雑である場合い、その作業は途方ない時間をようする。循環的複雑度はコンテキストを指数関数的に大量に生成し、なんでもない変数(記号)を暗号にしてしまう。そういうコードを体験したエンジニアは大江健三郎の作品をとても好む傾向があることを知っている。リズムとパターンを理解し、推論と代数的な置き換えを試行錯誤をすることで確定的でない世界が浮かび上がってくる。大江健三郎はエンジニアリング的アプローチから文学に入門するには個人的にはオススメである。大江健三郎は文学における科学の側面を強調した。科学であるから文学は定量的に評価されるようになると言った。ソフトウェア開発はまだ工学の域に達していないというエンジニアは少ない。ただ新しいというものを評価する、WHY を意識せずただ課題を解決するかというだけでツールを選定し採用する。誤った正しいと確信する選択は硬直性うむ。硬直性はソフトウェアの発展性を阻害する。それに気づいて直すとき、そこにいるエンジニアはその技術を選択したエンジニアとは別なことがほとんどだ。そのとき気づくのは正しい技術の選定ではなく、たぶん正しい技術の選定とそれを置き換えることができるための仕組みをセットで考える必要があったということ。そしてそれをソースコードに実現すること、それが難しければドキュメンテーションとして残すこと。どのように残すかはその技術選定をしたアーキテクトに任せられる。境界を定義してインターフェースとその非機能要件を明確にしながら、その技術的詳細をの実装を捨ててしまえ!というやり方もある。オレはこれが好みだ。コラボレーション図を書いてそのメッセージの機能仕様、非機能要件までしっかりと書いておく。さらにインターフェースのユースケースをシーケンス図で網羅しておきたい。ユースケース図はその上位レイヤーとしてユーザーの操作からそのサブシステムにアクセスするパターンを網羅しておきたい。そうすることで、ユースケース図、コラボレーション図(アクティビティ図)、シーケンス図の順で必要な詳細について理解していくことができる。大事なのはインターフェースの先の詳細は理解せずにすむというところだ。ところがこれが昨日するためには UML とはなぜあるのか? の理解も必要だ。一般的な理由とともに、なぜここにおいてこの UML を残したかというWHYも大事になる。UML 書きたいですか? NO!! みんなそうである。ソースを変えたら UML も変えないといけない。メンテナンスコストはゼロじゃない。ソースからわかれよ! ソースは多義性を含んだ記号だといったな、あれを理解できるエンジニアがどれだけいる? パフォーマティブな `public getWild() : Wild` とコンスタンティブな `public getWild() : Wild` があるかもしれない。そもそもなぜ、`getWild` という函数として命名する必要があるのか? そこには何らかのドメイン領域の責務があると考えてよいのか? テクストのことをしっていればそんなに難しいことではない。エクリチュールを理解しているならなお良い。プログラムの世界においても「もはや」断定的なことがいえない。文学とは違い断定的なことはいえるが、あまりにもありふれていてその価値が低下してきた。かつ、プログラマはソースの快楽を楽しむだけではすまない。原著を書き換えてリリースするときにはそれはチーム(自分たち)の責任だ。
「明日、世界が滅ぶとしてもわたしはこのコードを書く」という人がオレと一緒に働いている人にどれだけいるだろうか。ゼロだ。正しい。明日死ぬのに家族や親密な間柄の人と過ごさないのはどうかしている。一方で何かのアウトプットを出すことで世界とつながり具体的に関わりつつ自分を成長/アップデートさせていく人はいかほどいるのだろうとも思う。
技術偏向にはもう飽きた。技術エキスパートかっこいいのは今も昔も変わらない。でもお前たちの活躍の場はもう限定されている。むしろレッドシーである。優秀なアーキテクトが多すぎる。一方で偉大な現場マネージャーが少なすぎる。本当に大事なのはそこなのに。現場マネージャーは開発者よりも薄給で歯を食いしばって腐らずに頑張っている。
つまりオレはエンジニアとして無能で上位エンジニアになるのは無理そうなので妬んで批判しはじめたということですね。他意しない。ただ、ソフトウェア開発は面白いということだけは本当なので弁解しておきたい。

明日はもう会社休もう。イライラしてこんな日記を書いてしまった。薬を飲んで寝る。

7月27日(月)

連休明け。仕事をしていたほうがマシ。目が覚める。なんとか這い起きる。ルーチンワークをする気もない。排尿し水を飲み、歯だけ磨く。何も出来ない苦痛から逃れるために勤務を開始する。

Slack の未読を消化する。平穏なメッセージ。今日は社内は平和だ。何か予定外のことでも起こっていて首を突っ込みたかったのだけど、そういうのもない。今日のオレのタスクはプロダクト開発チームの次期プロジェクト、サードパティのライフログサービスとのコネクトプラットフォームの開発プロジェクトのための、チームビルディングの検討。現状は Google Fit にしか対応していないが FitBit や MyFitnessPal を含め、将来の未知のサービスもふくめライフログアドホックにうちのサービスに取り込めるようにする。OAuth を前提にした汎用的なコネクト画面や認可トークンのセキュアな保持、破棄の仕組み、透明性のための連携ログの表示など。比較的シンプルなプロジェクト。各サービスごとにライフログの形式が異なるのでどこでうちのサービスで扱える形に変換するかは考えないといけない。何かのストリームにいれてAWS Lambdaで処理してもいいし、自前のバッチでもべつにいいだろう。ユーザー数がそれほど多くないのでそのへんはアーキテクトの判断次第だ。オレはプロダクト開発チームメンバーではないのでそのへんについては開発チームに任せる。スクラムマスターとして彼らがこのプロジェクトをスクラムでうまく開発できるように支援するだけだ。オレは何故、スクラムなのかという簡単なドキュメントを書いて、個人的なスクラム失敗の経験と成功までの道のりを書く。スクラムを型どおりやれば何かが解決するのだという幻想をまずは断ち切っておく必要がある。スクラムでチームが変わるのではない。スクラムでメンバー個人が変わり、結果チームが変わる。そもそもソフトウェア開発とは未だに未成熟な工学であるということ、ソフトウェア開発は不確定で複雑なものだらけである、だからどれだけ小さな失敗にとどめられるか、そしてより正しいほうに進めるかが大事、ということを説明する。スクラムはそういった不確実性、複雑性に立ち向かうためのツールである。万能ではなく、その現場の課題にあわせて自分たちでカスタマイズして使うものだ。カスタムするためには、型を知ることはではなく、何故スクラムなのか、という原理原則を知っておくことが大事である。漫然とスクラムをしていてもチームの成長はない。常に何故かを問い続けることが大事である。熱い思いをかいた資料ができた。オレは個人的に満足する。午後に共有会のミーティングを設定する。
お昼は食欲がなかったので卵かけごはんをたべる。身体がだるい。布団で横になる。
午後のミーティングでの共有はオレだけが空回っていた。まったくそのとおりだ、希望がもてたぞ、なんていう外野からの応援はまったくなくシーンとしている。なんで響かないのだろうな。それとも響いているけどウェブカメラ越しにはわからないだけかな。疲れる。
人事との打ち合わせ。体調が悪化して死にたい時間が増えたと伝えておく。まずはフルタイムは様子みして週四勤務で様子をみる。チームで働きたいので働ける部署などがあれば是非とも検討してほしいと伝える。まだウォーミングアップで一人であぶれたタスクをちくちくやっているだけ。仕事にやりがいがないのも生活の質を下げているのではないかと伝える。マッキーも疲れている。相手も疲れていると何故か気が楽だ。ぐいぐいとこないと分かっているから。むしろオレがぐいぐいいってマッキーを疲弊させていないかな。あとで少し反省する。
今日も誰ともまともな仕事の議論はなかった。つまらない。定時で退勤する。

頭の中から仕事が抜けない。苦しい、助けてくれ。Zwift でペダルを回す。ヒルクライムのレースに飛び入り参加する。死ぬほど回す。手がしびれる。どうしてこんなつらいことをしているのだろう。後半完全に脚が終わる。どんどんと順位を下げる。置いてけぼりになりたくない。食い下がるが脚がいうことをきかない。ずるずる順位が下がる。ゴールして空気をむさぼる。一時間を三倍で踏めない。ピークにくらべてFTPの低下が痛々しい。

風呂に入る。疲れすぎて風呂にも少ししか入れない。仕事が終わったあとに仕事をすぐに忘れられる別の方法が必要だ。たぶん他者の視線があると楽だろう。でもそれはなんだろう。カフェにいって読書というのはどうだろう。店員さんはいるだろうし、あるいはお客さんがいるかもしれない。よさそうだ。明日トライしてみよう。

風呂上がり。執筆作業をする。追い込み過ぎて胃が大変なことになっている。ペダル合わしているときになんどかゲロ出そうになったし。

今日もずっと二人きり。つらい。薬を飲んで寝る。

7月26日(日)

眠りすぎて目がとろけそうだ。目覚めは悪くない。ただ、退屈な世界に来た。レベル1で身体能力が底辺なせいか身体は重い、賢さが底辺のせいか何も考えられない。夢の中ではファンタジーの世界で誰かとパーティを組んで何かと戦っていた気がする。前線でたたかう職業なのにチキンがですぎて後方でうろたえていた。でもパーティはオレを白い目で見ずに励ましてくれた。オレは疑心暗鬼に陥る。オレは非常食としてこのパーティに参加している気がする。かくある戦史においても食人の事実は多かったし、単独で兵站能力をもつパーティとしては合理的だ。食糧とならないためにはそれ以上の戦力となるよう成長しなければならない。そのためにはリスクを覚悟して前線にでなければならない。目を覚ますと世界を俯瞰的に見られる。二次元の存在が空間を感じられれないように、目が醒めた世界は次元が一つ上にあるきがする。神ではないが、それに近い存在。オレは夢の内容を理解しても夢のなかに干渉できるわけではない。夢を見ていた自分を包含する世界にオレがいるわけじゃない。夢の世界とオレがここに棲んでいる世界の差集合世界にナニかはあるような気がするが。
オレの棲まう世界に戻る。いつの間にか身体やは思考は清明さを取り戻している。外は雨が止んでいる。世界の全てが停止している。時間が進んでいない。置いてけぼりの世界から抜け出している。その間に生きるためにどうでもよいいろんなことをやるべきだ。時間はとまっている、思想、哲学、歴史の課題と考察を誰もしていない。オレは今のうちに補給し、時間が進み出したときにリーマン予想を考えればいい。天符堂本舗にいって日用品を買う。田舎ではティッシュペーパーやトイレットペーパーのラインナップがすくない。またこのなからオレの生活スタイルにあったものを探していけるのは嬉しい。高品質製品から価格重視製品まですべてをためして、費用対効果がもっとも高いものを選び出す。楽しい。レトルト食品とお菓子、虫刺され塗り薬、お酒を買う。ドラッグストアがお酒売る、このマッチポンプ感、すごく好きである。レジは混雑している。時間は惜しくない。世界は止まっている。余裕である。レジがまわってくると袋を一枚欲しいと伝える。レジ担当は袋一枚ではたりないのではという顔をする。すかさずオレは自分で袋詰めしますとつたえる。カゴからカウンターにだして精算し、またカゴに戻す作業をする。時給換算で3円とか5円ですまない作業である。本当にレジ袋が環境破壊の主たる原因の上位にいるのだろうか? 目的にレバレッジの効かない政策をしているならオレは人間を辞めたい。
家に帰る。時間はまだ止まっていた。サイクリングに行くことを決める。今日は自分を少しでも殴りたい。羊鳥ヶ岳周遊ではなく、羊鳥ヶ岳の峠越えと半周コースを選ぶ。羊鳥ヶ岳周遊コースが円だとするとその中心線を越えるのが峠越えで、あとは左か右周りでもどってくる。峠越えは獲得標高で三百メートルほど加算される。林道のようなものなので二桁の勾配が続く。距離は短いがかなり負荷がかかる。三十分ほどで峠、下ってからは右回り。こちらも登り。プラス二百メートルの獲得標高。湿度が半端ない。びしょびしょ。峠の茶屋でアイスクリームをたべるのだと、気合いをいれる。でも脚が死んでいる。筋肉疲労とは違う、ずだ袋になってしまったような軋みながら動きの悪い太もも。朝飯まともなもの食ってない。エネルギー切れだ。なんとか海を望む茶屋について息を整える。するとまさかの磯貝さんである。お疲れ様、熱中症に気をつけてと労いの言葉。坂道でへろへろになっているところを見られたのが恥ずかしいがまあサボっていたこともありイキがることもできない。ペコペコとしながら世間話を交わし別れる。突然のイベントで混乱してしまいアイスクリームをたべるのを忘れてしまった。そのまま部屋に戻る。途中九%で脚を使い果たす。何故オレはこんなに弱くなったのだろう。

家にかえり、風呂にはいる。先客二名いる。今日は人に強い日だ。まるで存在しないように振る舞える。頭、顔、身体を洗うと湯船で瞑想する。一人ではないのに今日は比較的瞑想に集中できる。今日の夢やパーティーが使っていた魔法のことが気になるが追い払いながら暗い世界に沈降しようとする。今までの瞑想が五点とするなら十五点ぐらいの瞑想。百点を目指したい。自我や他我を越えた境地、どうやって突破していったらいいのか。自我でないという状況を意識している状態では逃れない境地。森田療法とか戸塚ヨットスクール療法を試したい気持ちある。
風呂上がり、眠い。Amazon Prime をみると Amazon.co.jp: 俺、ツインテールになります。【TBSオンデマンド】を観る | Prime Video が配信開始している。くだらないなあと思いながら、病的にツインテールが大好きなオレ向けの作品であることを理解する。正直、オレも自分をかわいいツインテールの女の子と思い込んでうつ病日記を書きたい。戦隊ものツインテールとか最強のアニメである。第一話を見終わったあとに異常に性欲が亢進してしまったのでこれは嘘ということにしてオレはそんな俗物ではないんだと思い込むことにした。ツインテールの良さとはなんなのだろうか? あまり考えたことない。歴史ではなくとても個人史的なことだろう。十四歳末期のツインテール論という本をかいてもいいかもしれない。オレは未だに自分が書きたい本のテーマがみつかっていない。二話はまた生きるのが嫌なときになったら見よう。
疲れたので仮眠する。

起きると二十一時。明日は仕事だ。このまま寝ても良いかなと思うが執筆作業をしなければと思う。この執筆作業がなにを意味するかは分からないが、必要だと思うときがある。ぬる燗でゆっくりと頭をほぐす。オレには友人が何人いるだろうか? ここでは議論をわかりやすくするために友人の定義を決める。友人とはどのようなものであるかは個人的なものであるから、この定義について思いが違ったとしても割り切って欲しい。三年以内に互いの部屋に訪問したことがある人のこととする。リモート友人が存在しえないという定義は自分のなかでの定義にしっくりくる。従って友人はゼロである。かつて友人だったのはヤマシタさん、そのまえは、@lice である。十二歳のころから友人はいなかった。友人とは酒を飲んで本音で話すことを恐れなかった。嫌われるかもしれないことをいって喧嘩になってもまた酒を飲もうと思えた。十四歳なりの幼稚な友人観にってオレの友人になろうという人は誰も居なくなった。十二歳を終えて気づいた。友人であり続けるためには友人であるための心遣いが必要だということを。オレはSFや精神分析に傾倒しそこで議論できないことを下にみるという、屑オタクになっていた。おれが本当のオタクなら突き通せばいいのだけど、にわか、という痛々しいオタクだった。いまでもそういう痛々しいオタクをみるとオレは胸が痛む。虚栄心は成長につながるから、などと励ましたりもするが相手はその言葉の意味を理解してくれない。
オレは友人がゼロになってしまった。いま、友人が必要だと感じている。あやはただ正しくしく、オレはただ間違っていて、友人ではなれなかった。この二人の対話はもう結論がでてしまった。一人でもいいから友人が必要だ。レンタルフレンドでもいいしレンタル彼女でもいい。荒唐無稽な話を真剣に聞いて、オレがリスクを冒してもいいという相手が必要だ。

今日も二人っきり。薬をのんで寝る。

7月24日(金)

九時に目を覚ます。昨日と同じ一日のような気がする。重たい身体。目標のない一日。ポタリングにでかけたりシュノーケリングにでかけてもいいかもしれない。生活用品の買い出しもいい。でも肩と二の腕がずっしりと重い。そのまま布団に転がりながらスマホでニュースをみる。新型コロナウイルスの話、ドクターキリコの話。オリンピックの話。パワハラの話。
どんなに生きやすい社会でも人が死にたいと思うことは止めることはできない。まずは良い社会の問題と死にたいと思う個人意思は分けて考えなければならない。そのあと、個人と社会の相互作用について検討する必要があると思う。完璧な抗うつ剤ができた未来、自殺者がゼロになる、それでいいのだろうか? うつ病とは純粋に神経生理学的な誤作動なのだろうか、誤っていないとは誰が判断したのだろうか?

夢想しながら眠っていた。起き上がる。暗い。時間は十九時。今日はエクリプスチームの Left 4 Dead 2 大会がある。しんどい。気合いで起きる。とりあえず風呂に入る。目を覚ます。冷凍ご飯と冷凍肉を焼いて焼き肉丼を作って食べる。肉うまい。こんな生活をしていたらいつかどこかでツケを払うことになるんだろうなと思う。死にたくないよね、死にたくない。独り言。

上半身は重厚な甲冑でもまとっているかのように重い。Left 4 Dead 2 を起動して一人でウォーミングアップをする。行方さんと河合さんがログインしてプレイする。Left 4 Dead 2 はエイムよりも立ち回りが大切という知見を得ている。周囲の状況把握と位置どり、特殊感染者への対応。グループでの集団行動をし特殊感染者の襲撃にたいして適切に対応すること。一般感染者は漫然と攻撃してもチームを崩壊させるまでの被害はでない。マウスクリックも億劫ながら、やりはじめると少し元気がでてくる。誰かと何かをやって成果ができるのは楽しい。今回は一度全滅したが、なんとかステージをクリアする。行方さんは犠牲になったのだ。南無。

みんなケツがあるので二時間ほどやって終了。オレは酒を飲みながら少しだけ執筆作業をする。この日記ってなんでやっているのだろう。なんか最近楽しさも減ってきた。ああ、日記が問題じゃないのか。同じ毎日が繰り返されることが原因か。日記は悪くない。今日も同じ一日。

薬を飲んでる。