kowさんは天ざる大好き

創作に絶望すると、世界が反転した日記

5月31日(日)

布団の上で目覚めたことを後悔する。生きるのは基本的につらい。でもそれをみんなうまくやっている。朝の儀式を一通り行う。トイレの汚れが限界に達している。トイレの神様に祈りながら掃除をする。日本は本当に糞便に対して寛容である。文化がゆるやかに肛門期に固着している。一方その反動で抑圧して生きづらくなっているものもいる。オレは後者だ。糞便が大嫌いだ。そんなことを考えていたら、トイレスタンプクリーナーをすべて押し出してしまう。一目盛りで手応えがあって止まると勘違いしていた。注意力散漫。洗浄剤がクレーターような形で便器に残ったがまあ困るものでもない。このままにしておく。

執務室の座椅子にすわりぼんやりする。状況、子泣き爺。強度の全身の倦怠感の事である。座っていることすら億劫で横になりたい。横になるとその重みでずっと起き上がれなくなる。結果が人間がダメになる。やり過ぎるのをそっと待つか、横になるか、飛び出すかして人間をやめるか、強引に散歩にでかけるか。部屋を占領状態にしたことで、敷居を作ってしまった。外は危険である。重みに耐えきれず布団に横になる。倦怠感が全身に分散し一体化する。つま先から頭のてっぺんまで倦怠に包まれれば、それは倦怠ではない。

目覚めると十八時。頭は重い。胃袋には小石が詰められたみたいに不快。病人らしい一日。それを否定するかしないかは自分がきめればよい。占領地帯をでて夜道を罰走とするか。葛藤しているとしっかりと闇が降りてくる。ここを走るのは難儀だろう。難儀すると思うと少しだけやってみようと思う。
夜になると車通りはほとんどない。街灯も四、五百メートルほとはなれてあるだけ。異界化した我文町は全身の皮膚にはりつくようにメッセージの圧をかけてくる。全身ありがたいお札でぐるぐる巻きにされた秘仏状態にされている。メッセージの圧さえなければ、異界化した我文町は美しい。湿気と冷気を混ぜた空気。カエルと虫の声。街灯と街灯の間の闇の濃淡。奇妙でどきどきする。
ライト一本では田舎道、しかも夜間の山道は厳しい。手前用のライトと奥を照射するライト、コーナーで視線に合わせて照らすライト、三本あると完璧であろう。オレは夜が怖い。

帰宅して大浴場に行く。先客のお兄さんと軽くあいさつをする。体中あらって湯船につかる。先客のお兄さんはまだ身体を洗っている。オレはしっかり自分の身体を洗っているが、せっかちなのかもしれないし、おにいさんがのんびりなのか。誰もいない湯船でストレッチとヨガ、座禅。座禅のころにはのぼせてしまい、いつも時間がたりない。脳内あついあついあついで集中できない問題。

お薬をのんで就寝。昼寝しているにもかかわらずすっと入眠。この状態、あまりよくない。

5月30日(土)

太陽の光がまぶしい。腹部がおもだるい。まぶたがおもい。弱い酩酊感。だが前日の代償としては軽い方だ。二日酔いの一歩手前で済んでいる。布団の中で、執務スペースの片付けをしていなかったこと、台所の片付けを一切していないことを思い出す。一気に毛布が重くなる。二百キロ。ここで身持ちを崩すわけにはいかない。片付けだけはやりきってまたダメになろう。ゴミ袋をもってごみというゴミを突っ込み、洗い物をやっつける。毛ガニの殻で潮汁をつくろうとも思ったが今日は元気がないし、冷凍する気力もない。ごちそうさまでしたとお礼をいってほうってしまう。

お昼にパスタを食べて落ち着いたら日記でも書こう。少しだけ横になる。目覚めると日が落ちかけている十八時すぎ。まあ現実こうなるか。体調も回復してきている。よしとしよう。軽くペダルを回したあとに風呂で汗を流し日記を書く。気づきをえる。第一手、片付けをやりきったのは好判断であった。

5月29日(金)

目覚めの儀式は効果がでているようだった。何であるオープンワールドから、クエストが1つしかないシンプルな世界へと視野を狭めてくれる。複雑な事象が相互にからみあって解決が難しい現実への準備運動になる。

今日は十時ごろに馬カフェ「タンブルウィード」に出かける。治療のことを考えてアニマルセラピーという思いつきだったのだが、前から生き物と触れ合いたいと思っていた。特に自分の力でどうこうすることができない生き物に興味があった。自分のパーソナリティのやっかいなところは制御癖であり、そして対象物に圧倒されてしまうと自己との乖離をひきおこして抑うつ状態になる。我が強いというか幼児的というか硬化した思考パターンというか。現実をありのままに受け入れるという森田療法的なアプローチとアニマルセラピー的な神経伝達物質の改善の両側面からトライする価値があると考えていた。
馬カフェ「タンブルウィード」はご夫婦が経営していて、馬も三十頭ちかくいる。アイスコーヒーを注文する。最初は厩舎にいる馬やグランドで一生懸命草をたべているポニーを遠巻きに見る。馬は独特な目をしている。優しい目をしているという風にもみえるし、何かトラブルを抱えていて困っているようにも悲しんでいるように見える。オレが人の視線を避ける理由のヒントがある気がして怖くなる。触っても大丈夫と教えられたので首のところを撫でてやる。馬は人間よりも体温が暖かいらしくほかほかである。撫でているオレを馬は見てないふりでじっとみている。馬はいきなり目を見つめて深い話をしようとしない。オレは馬に対して好ましいと思う態度を投射し、人間に対しては好ましくない態度を投射している気がする。乗馬もどうですかと進められたが今日はやめることにした。人間にも馬にも、オレはオレを中心にしか関係を持てない。みんな不幸だ。

今日は夜にヤマシタさんとオンライン飲み会の予定がある。絶品の毛ガニをヤマシタさんが送ってくれるとのことだったので、それに合わせて日本酒を買う。ハイパーマートの中にあるお酒専門店は我文町というへんぴなところなのに充実していた。純米生酒のおすすめをもらう。ただ買うのに、素性を根掘り葉掘り巧みに引き出してくる。最近我文町に越してことをいうとどこから来たか聞かれたので、月の嵐の大洋から来たと率直に伝えた。絶句して言葉をのんだ。田舎特有の強力な情報ネットワークでは明日には月面から来た変態の噂が広がっているだろう。それはそれでよし。

帰宅すると産業医との復職にかかる面談の準備をする。マッキーから面談前に記入する資料がくる。久しぶりにイライラする。短時間で記入できるものじゃないのでリスケをお願いする。つい文句を言ってしまったが、マッキーどうしてしまったんだろうという不安もある。勘違いしいただけか、マッキーに期待しすぎていたのかも知れないし、社内手続きが煩雑化しているのかもしれない。いずれにせよ、オレは忘れることにした。手に届かないものに手を伸ばさない。自制、自制。

十七時すぎから、ヤマシタさんとオンライン飲み会。活き毛ガニは大ぶりでずっしりと重みがある。調理方法をヤマシタさんに確認し、蒸し器で十五分ほど蒸す。過去にはロブスターも同じく蒸されてきたが、殻に覆われたやつは旨い。オレは殻に覆われているが中身はない。蒸し上がった毛ガニとともに乾杯する。贅沢に味噌からいただくが絶品である。困難なコミュニケーションクエストを経て入手した日本酒も相性ぴったりである。ヤマシタさんはお子も人間性を獲得しはじめてきている。悪魔的な時期で手間がかかるらしい。人間のお子は本能がぶっこわれた上に、理性の発達は時間がかかるというもっとも制御不能な危険生物である。オレには恐怖の対象ですらある。黒目が大きくて目がくりくりしていて悪魔には見えないけども。
ヤマシタさんは年内仕事が決まっているようで自分の作品を作る時間がとれないようだ。自分自身の表現したいものを表現する、そういった創作が目標があり、その手段として使えるのが得意な作画と、いつも潔い。小説でも漫談でも説法でもいいのだけど、自分が得意なのは作画。器用貧乏ではなく突き抜けて好き、得意といえるのは大事だと思う。オレも胸を張っていえるような得意スキルがない。
酔いも深くなってくる。いつもの去人たちの昔話をする。若おかみは小学生の話をする。オレは若おかみが見やすいアニメ以外には何の思い入れもない。一方で作品構成としての若おかみの仕組みをヤマシタさんの解釈を教えてもらう。なるほど、丁寧にしっかり歯車が組み合うようにできているのかもしれない。作品が入ってくるか入ってこないかは、受け取り手次第なところもある。批評的に鑑賞しないのであればとくにそうであろう。監督業とは理想的で読者であることなのか、現場でプレイヤーとしてチームを率いることなのか。
一緒に何か創ってみたいなと思い話してみたがヤマシタさんにはフラれる。まあ、これまでにもたくさん機会はあったしヤマシタさんも実際に手を動かしてくれた。そこにあったのは創作ではなくてたんなる分業であったというころが痛恨の極みであるが、今となっては取り返しがつかない。オレは自分に都合のいい理屈を取り入れ批評を学ぶことで批評を批判してきた。批評こそが文学を育てるなどという信念があるわけではない。好きとか嫌いとかで去人たちが判断されることに悲しみを感じ、好きとか嫌いとかオレが区別した作品たちはいっせいにオレを攻撃してくる。精神安定剤としてなにかの理論を必要としただけにすぎない。変な話、オレは去人たちの感想を消費しなければいけなかった、オレが本当に必要だったのは創作そのものの方法論だったのだと思う。まあそれも問題がないではない。自身の創作を機能分割されたなんらかの装置の分解しようという試みは創作においては敬遠される。静的な批評文化がそれらを下支えしている。生きてくために評価されないといけないなら、そんな創作、やめちまえ!!! もう、誰もそんなこといえない時代。

二十二時をまわって飲み会をお開きにする。旨い酒と創作の話をしているのは楽しい。十二歳のころを思い出す。日本酒は空になっていたから四合を飲み干したらしい。道理で泥酔しているわけだ。明日は一日ダメになるかもしれないが、その取引はありであろう。
少しだけ片付ける。足許がおぼつかない。洗い桶に皿を付けると下にあった薄張りグラスの口を割ってしまう。いわんこっちゃない。片付けを放棄してふて寝する。失恋はつらい。

5月27日(水)

酒量が増えたが目覚めはマシ。酩酊感のようなめまいが少しするが直ぐにおさまる。毛布も黙っている。radiko でニュースを聞きながら家事をする。規制、規制、規制。頭がおかしい。帰りの会でみんな目を伏せて、怒らないからやった人手をあげて。人間の児童化に気が滅入る。嫌いな皿洗いをしながら念仏を唱える。
「誰ひとり僕のことを知らず、僕の方も誰のことも知らない場所があるならね。そこで何をするつもりだってかっていうとさ、聾唖者のふりをしようと思ったんだ。そうすれば誰とも、意味のない愚かしい会話をかわす必要がなくなるじゃないか」
名案。野崎版と村上版で抗争を繰り広げることもない。

菓子パンとコーヒーで簡単な朝食を済ませて、自転車散歩にでかける。山を越えて海に出る。日陰の岸壁にはりつく例の虫が例の虫の動きをする。ヤツらは同類である。背筋がむずむずする。どういうセンサーなんだろうか。きちんと近くに迫ったときだけに待避行動ををとる。正確すぎる。視覚? 赤外線? 
今日は風が強い。碧海の表面には白波ががたっている。うねりはない。風が海面をなでる指先がみえる。釣り人は風に難儀する様子もなくどっしりと椅子に腰を下ろして釣り糸を垂らしている。

オレは海をあとにする。勾配二〇%を超える短距離激坂を超えて女縄市の市街地へ戻る。昼になっている。蕎麦でもたべようかと思ったが新型コロナウイルスの影響で休業している。諦めてそのまま帰宅への道を進む。途中で適当にランチをとる。一人での入店で、「カウンターでもよろしいでしょうか」と確認される。カウンター席の椅子は四つしかない。カウンターとの端と端はオレの心理的実感によると一光年ほどはなれている。これが社会的距離というものかと驚嘆する。数ヶ月ぶりの外食である。多少の贅沢も許されるであろうと思い、とんかつ重を注文する。キャベツたっぷりで肉厚のとんかつ、薄味だがコクのあるソースをたっぶりつけてたべるとごはんとの相性は抜群である。疲労ですこし胃腸は弱っていたがぺろりと平らげることができた。

時間は二時前。家に帰ってもすることはない。それに仕事も迫っている。今のうちに満喫せねば。カラオケにいくことを決心する。名破市ということの過疎が進んだ地域ににもカラオケは存在する。むしろ存在することが奇跡であるが。カラオケの受付に行く。
「お二人ですか?」
深く考える。なぜ二人なのか? オレは二人でくるような人物にみえるということなのだろうか? そうだ、オレは二人でくるべきなのだ。そのようなきあわめて社会的に良好な関係性を築けるべき人間なのだ。ありがとう。
「いえ、一人です」
受付の女性は表情を決めかねる。無表情にはできず笑顔にもできず、少しだけ口角をあげる。よく知っている表情。人は表情を作るのが下手すぎる。もうちょっと勉強すべきだと思う。フリータイムで一人とつたえる。終了は十分前におねがいしますとのこと。除菌作業があり、十八時からの客との入れ替えのために前倒ししているとのこと。
「オレみたいな世界最低に近い害悪な菌はコロナよりもひどいので建物ごと破壊しないと滅菌できませんよ」
オレが笑顔で冗談をいうと、店員は「ですね」といって受け流す。相手もプロである。
オレは数ヶ月ぶりのヒトカラに興奮する。床に寝転がってごろごろ回転してみたり、人類みんな死んでしまえーと絶叫してみたりする。ほとんどプライベートで心の中で思っている不謹慎なことも一切がっさい、発声してもだれも咎めない。みんな死ねば良いのにね。いや、オレが死ねば良いのか、てへてへ。我文町に越してきても歌う曲は変わらない。
Cocco筋肉少女帯鬼束ちひろ尾崎豊……
Raining は数十年前よりほんの少しだけ上手くなった気がする。どうだ見ているか。なぜか泣けるぜ。ノゾミのなくならない世界はより望みがなくなった。感染はコロナウイルスよりも深刻。そしてオレはいまもほんのときたま、死のうと思うことがある。導入が済むと、適当に amazarashi や fra-foa中島みゆき小谷美紗子などなどで喉を破壊する。最後にギプス、落日、流星群を気持ちよく歌って切り上げる。あっという間の五時間。デンモクとマイクを返却する。女性店員はちょうど他の部屋の掃除に向かうところ。目を合わせようともせずに受け取り、「ご利用ありがとうございました」と発声する。視線が交差することはない。素敵である。

十八時前。空気は冷え冷えとしてくる。夏はもうちょっと先。自律神経が壊れたオレの表皮を焦らすようにしっかりと冷やす。中途半端な時間。そうだ、海を見よう。伊花多ヶ浜が帰り道の途中にある。綺麗な砂浜。まだ日はギリギリ落ちない。浜には小さな波が打ち寄せる。波打ち際にはもう誰もいない。砂浜にかかる突堤に座り波を眺める。何も考えない時間。するといろいろなイメージが想起される。

なんでオレは今日、こんなに「充実した日」をねつ造する必要があったのだろうか? 今日以外にも同じ「充実した日」は作り得た。復職が決まったからである。今日は充実した、と言いたかった、だからそれをねつ造した。なるほど。波は打ち寄せ砕け、ただ音を残して形を残さない。今日は充実なんてしていないんだ。今日は異常であった。オレはオレを偽るためにどうしても今日をプロモーションする必要があった。オレは健常であり、コミュニケーションを正常に交わすがことができ、アベレージな個人活動を誰に認められるとでもなく、自信の興味のためだけに消費できる。
海はただ、そこにあり、潮騒はずっとそこに不定にある。
「海は生命の源だといいますし。あたしも疲れたらコーヒーを買って海を見に行きます。ぼうっと見ているだけでも不思議と癒やされまよね」
食木崎先生が診察の時にオレに語ったエピソード。なぜ先生はそんな示唆的なエピソードを語ったのだろう? もはや指示的ではないだろうか。そしてオレはどうしていまこうして海辺にいるのだろう? オレは食木崎先生に転移しているのだろうか? たしかに。もはやそうとしか思えない。
「オレは食木崎先生に転移している」
口にしてみるともはや地獄であった。死にたい。つまり、間違いなく事実なのだ。しょうがないが事実としよう。そして患者が主治医に転移するのは特段わるいわけでもない、主治医も転移からの治療を試みてよい。だから、食木崎先生は「海は生命の源」といったのかもしれない。オレは治療を強いられている。でも……
オレはかぶりをふって思考を中断する。家に帰る。

風呂に入って既製品の夕食を食べる。うまい。十分に。美味しに貴賤なし。
あっというまに二十時を過ぎている。今日はエクリプスの打ち合わせ。なんの準備もできてないがこれはこれで予定どおり。議事録を用意する。もう、オレがやる必要あるのだろうか? みんなオレが死んだ先のの未来のことを考えたりしてくれているのあろうか? 人は簡単に死なない。でもカンタンに死んだりする。

ラーメン大好き河合さん、行方さんが合流する。オレは少しカラオケやそのあとの行動を失敗に感じる。ちょうどいい感じにテンションが下がっている。申し訳ないが、まずはお二人の話にのっかりつつテンションを上げていく。さすがにオタクよりのトークで否応なくトークに引き込まれテンションが上がっていく。お二人とも基本的には平均的にどうかしている。褒めている。平均をこえてどうかしているとは犯罪者の婉曲表現であるからだ。
今回はインセプションデッキの続きをやる。「我々はなぜここにいるのか」「エレベータピッチ」「やらないことリスト」「夜も眠れない問題」はしっかりと議論を重ねて磨き上げた。今日は「トレードオフスライダー」だ。
オレが仕事で失敗したすべての例をもって最善を尽くす。インセプションデッキはプロジェクト憲章としてなくてはならないものだが、現実世界ではあまり時間をかけて作ることは難しい。そして時間がかけられない、という理由でインセプションデッキは存在せず、プロジェクトは失敗する。インセプションデッキがなかったことがプロジェクト失敗の原因である、という仮説は常に採用されない。それがどのようなシチュエーションにせよ、非精神性に依る物的リソース管理にいて不都合だからだ。正しいモノを正しく作るのには熟練が必要だし、それには学習や失敗工学を理解してもらわないといけない。しかし即物的な投資家にはそのことがわからんらしい。高速PDCAという言葉を使う経営者には注意すべきだ。PDCAは困難だ。それを語らずに高速という話をするなら夢想家か気違いのいずれかだ。
オレたちはじっくり時間をかけてインセプションデッキをつくってきた。嘘もない。建前もない。だから、突っ込まれて慌てない。だから、トレードオフスライダーもだれも怖がらない。そしてみんな自信を持っている。一度も会ったこともないのにしっかりと議論できている。不思議。
スコープ、品質、コスト、納期。
すりあわせのために、各人が思っているスライダーをみんなで共有しようと提案する。さすが、オレのファシリテーションはいつも及第点をたたき出す。認識のズレ、期待のズレこそがリスクであり、その「差異」を議論することが大事である。見えないものを見える化するのがアジャイルの極意。見えないモノはないか?を思考するのがスクラムマスター最大の関心事だ。
まずは、各人の勝手ななトレードオフスライダーの数値を共有する。ラーメン大好き河合さんと行方さんはまったく一致する。めんどくせえな。お前らは結婚しろよ。おめでとう。彼らとオレの違いはコストと納期の優先度の違い。
オレはコストより納期が優先だと主張する。同人ゲームにおいては「できて、リリースすること」がなによりも優先するはずだ、という思いだ。これはアジャイルの原則でもあり、「だしてなんぼ」という原則において「コストはそれより優先度は下だと」という認識である。これは大事。自信満々。ディスカッションをする。
<三人しかいないプロジェクトで誰かが病気になったら? コロナとか? ベランダから飛び出しちゃうとか? そしたら別の人? それとも納期伸ばすの?>
これは同人作品における根源的な問い。オレはどんな同人プロダクトも作ることに意義があると思っている。芸術は芸術そのものよりも芸術作品を作ろうとする意思を継続することのがほうがあるかに困難であり、そのモチベーション自体を惹起し続けるプロセスこそが影の芸術だと思っている。
「わたしたちは納期を守るために人を増やしたり、必要なツールに課金するよりは納期を延ばす方が自然だとおもう」
これは二人の一致した意見だった。理由はあくまでも「サブ」である同人制作にかけられるMAXの時間を使ってもダメなら人を増やすよりか自分たちやりきれるために納期を延長するほうが納得感や合理性があるという意見だった。一方、オレの意見はプロジェクトは工期が伸びれば伸びるほどプロジェクト管理的なリスクは増大し複雑度はます。アジャイル原則にのっとれはむしろ納期は最速でありたいぐらいだが、オレたちがつくろうとしているもののジャンル的に品質や機能よりは下になる。だが、次点は譲れない。この意見の対立は、対立というよりもみんなみんな、互いの言っていることが「理解できる」という異様な事態となる。結城先生はいっている「事例は理解の試金石」。
「オレがアレで消えてなくなっちゃいました。河合さんと行方さんはどうする?」
極論なので怒られると思ったが、意図を組んでもらえる。楽である。
「人を増やす、人件費相当のコストをふやすより、待ちます、それはこれまでのインセプションデッキより相互に認識合わせてきましたし。やらないことリストでも、夜も眠れない問題でも、すべて見える化されているし。だから、安心していいますけど」
なるほど。すごく筋が通っている。行方さんも同意する。台本があるみたいに綺麗な仕舞い方だったので冗談めかしてオレがいうと二人は「そんなことない」といういう。オレが仕掛け人だとしてもそういう。深くは考えない。オレたちの作品は、大文字の『品質』を作るのだと合意する。全員から見えない熱意が見える。この感じはなかったので嬉しい気持ちになる。
エクリプス制作チームの活動としてオレが提案していたのは『課外活動』である。陰キャのサラリーマンの開発は個と公が数千年光年ほどはなれている。たとえば、会社の仕事をしているときに、エヴァンゲリオンlainや刑法第三十九条の話はしないのと一緒。変な言い方だが、安心して背中を預けられる仲間なのだろうかということだ。去人たちの作り方は、意図せず、そういう仲間たちがあつまってくれた。だからこそ、タスクを「丸投げ」みたいな雑さでも一定の品質、いや、それを越えた異常性をもった統合ができた。その異常性が、ゲームであり小説を越えた要素だと(個人的には)思っている。
今でなくてもいい。エクリプスチームは互いに「ここ」を越えていけるし「ここ」を超越してくれるような創造力をもったチームであってほしい。
話しているともう二五時。ミーティングの予定時間は超過している。議論はつきない。
オレたち以外がオレたちのようにゲームをつくってくれたオレがそれを消費するだけなら何も困らないのになと少し思う。それか、オレたちがそれらみたいに何かの中間地点に着地してしまうのだろうか。
打ち合わせは最後にふりかえりを行う。みな充実した打ち合わせであること表明する。オレのファシリテーションも好評であった。普段褒めてくれる人がいないのでこれは素直にうれしい。去人たちをつくっているときには gonzou さんにもにちのさんにも叱られたが、それがオレを良い感じに育ててくれたのだと感謝する。打ち合わせを終了し少し頭を休める。ラーメン大好き河合さんと行方さんはお互いのことをよく知っていて作品の嗜好性も相互に理解しあっている。オレはそこに入っていけていないし、二人の言葉なしでも通じるやりとりは羨ましく思う。ATフィールドを展開するオタクとそうでないオタクがいるということなのだろうか。懐に飛び込むのも飛び込まれるのも恐怖ではないのだろうか? オレはオタクとは言わない方がいいか。ただの社会不適合者としておく。些末なこと、考えるのを止める。

打ち合わせは充実していた。その気分のままお酒をいれながら日記ラフを執筆する。ステーティブン・キング・メソッド。必ず毎日十五分でも作業時間をとること、たとえ書けないとしても。今日はハードワークだった、いや、オーバーワークだった。おそらく継続できないことを、社会復帰の恐怖と不安から目をそらすために、狂ったように楽しんだ。やりきった、百点で終わる一日は、その構造自体に大きな欠陥があることに気づく。オレはアドレナリンジャンキーになって意味もなく走り続けた。それはしっくりくる気づきであった。オレはこの病態をテトリスうつ病と呼ぶことにした。ある期間において、表面の効率だけを追い求めた隙間ないタスクを詰め込みよる心的窒息状態とそこから表れる抑うつ状態。明日のタスクからは「何も考えない」「ぼーっとする」というタスクを作ることにした。何も考えないって悟りを開けるかも知れない。よい気づきである。

二九時。睡眠管理に失敗し、生活リズムは崩れ、ちびちびやっていたつもりが結構な酒量なっている。

5月26日(火)

今日の朝の毛布はその実体に近い重さに感じられる。起きて顔を洗い歯を磨き、釜玉うどんを食べる。布団を片づける。毛布は毛布の重さを維持している。少しさみしくなるのはオレがウツでいることでメリットがあるということだろう。
気分が持続しているうちに外出する。ソロサイクリング。一日に必要な日光を浴びることと、何かをやったといえる実績を残す。羊鳥ヶ岳の裾をぐるっと回る道を中等度の負荷で回る。
家に戻ると駐輪場と隣り合ったゴミ集積場で声をかけられる。年配の女性? 誰だろう? 人の顔を覚えられない。ここは知った風で名前を引き出すか、それとも思い切って聞くか。オレが口ごもっていると察したように答える。磯谷の家内でございますと自己紹介され、オレも慌てて頭を下げる。たわいもない世間話をして別れる。たわいもない世間話ができる能力は誰もが身につけられる能力ではない。オレもめきめきと成長してきた。磯谷夫人との世間話で、オレは毒による継続ダメージを受けたことを自覚する。解毒するには大声で叫ぶか、アルコールを飲むか、山に自分を殴りにいくしかない。選択。軸をずらした問題解決方法は逃避。逃げちゃだめか。逃げちゃダメか? 本当に逃げちゃダメ? 逃げてみないのもいいだろう。吐きそうになりながら、受け止める。むしろそのまま日常へスライドさせる。オレはきちんとありふれたただの人間になりたい。ただ、このまま何もタスクがない状態では気が狂ってしまう。とくに生きている軸をずらさない日常タスクを自身に課す。オンライン飲み会の肴を買いに行こう。
我文町に移ってヤマシタさんと久しぶりに話した。オンライン飲み会をやろうということになり、美味い肴をお互いに送り合って杯を交わそうという計画になった。我文町らしい何かを送ろうと思っていたのだが、それが今、来た。我文町には「自由隊商交易市」という名破市の特産物や区域外の日用品や食料品が集まる市場がある。名破市の特産品はあまり区域外に出荷されることはなく、外にでるとしてもほとんどが、「自由隊商交易市場」へ買い付けにきた卸商の仕入れによるものだ。とはいえそれほどおかしなモノがあるわけでもない。特産であるズワイガニや深海魚がよく並んでいる。ネタになりそうなものとしては、本当の亀の手、ダイオウグソクムシの小型ぬいぐるみ、ダイオウイカの死骸を乾燥させた破片、詳細がわからないハーブティー、冷凍で売られている豚肉よりは高いし牛肉よりは安い謎な赤身肉のブロック。何らかの法律に抵触するのかもしれないが、ほとんどが即日に売れてなくなってしまうもので誰も気にしていない。
オレはネタになりそうなモノを避けて肴になりそうなものだったり、ならなそうなものを適当にカゴにいれて買う。ヤマシタさんは自粛生活でさらに料理の腕をあげたようだし、それでなくともそれ以前からこだわりの食材を厳選して絶品のおうち飯を楽しんでるとのことで、中途半端な加工品よりも素材を送った方がいいかなという感じで品選びをした。最後に初物のスイカを見つけたのでこれも送りつけよう。これなら間違いあるまい。
家に帰るがもうへとへとになっている。まだ昼なのに。ああ、そうえば今日は会社の笹野マネージャーとオンラインミーティングがある。復職にむけた相談だ。五分前からパソコンのまえでスタンバイ。緊張するのでコーヒーをいれて飲む。落ち着かせるというよりテンションを上げるための飲料だ。緊張するときはカモミールではなくコーヒーで攻める。これまでのやり方は変えない。
オンラインミーティングでも目を合わせない。一ヶ月以上ぶりで気恥ずかしいし、オンライン独特の間の取り方の難しさなどうまく話すが難しい。オレが休職していた期間の会社の状況のことを教えてもらう。あいもかわらず、のんびりやっているとのこと。オレはそのことに愚痴を言ったが、笹野マネージャーも他人事のように困りましたね、と。オレは治療方針を共有する。そして今後の業務遂行における心持ちを述べる。誰かを信用しすぎるのはやめる、損得感情をもって仕事をする、誰かに仕事をふる、勝手な期待を背負いこまない。会社へ期待しすぎない。笹野マネージャーは表情を変えずにそーですねー、と相づちをうつ。肯定するわけではなさそうだが、反論が返ってくるわけでもない。そのあと来月からの働き方を決めてミーティングを終える。もう数日もすればオレはきちんとサラリーマンとして働いている。あまりイメージができない。
午後は小松左京を読んだがまったく頭に入ってこず諦めてぼんやりと外を眺める。飛び出したらやっぱり気持ちよさそう。
復職の流れにそって、人事部長のマッキーから Slack でダイレクトメッセージを受信する。復職前に産業医との面談を行ってくださいとのこと。産業医? 休職するときに関わってないし、復職時になぜ? とくになぜ面談が必要なのか、何のための面談なのかの説明もない。仕事ができると思っていたマッキー、どういうことだって。仕方なくネットを検索してみると、復職時には主治医の判断と産業医の判断をすべしとのこと。ダブルチェック機能のよう。うつ病患者に信頼関係が気づけていない状態で面談する意味がわかっているのだろうか? 反社会性人格を持ってるオレなんてこの事実を知ってしまえばことさら揉め揉めの愉快な事態にして制度の欠点を指摘したくなる。みんなある境界線をひいて、あっちかこっちかはないちもんめをやっている。障害を判断しようとはするが、正しく判断する方法については無頓着。オレはオレに関心を持っていない人に、何もいうことはない。それがお互いのためっていうもんじゃないか。
「いったい、何と何の境界なの?」
くそったれな産業医に投げつけてやりたい。嘘だけどね。みんな善良で思いやりにあふれ誠実な医者であろう。脳みその組成分析や血液の成分や胆汁からの思考特性を分析に長けている。面談という不確実な方法はやめていい。これもお互いのため。
疲れて、夜はハイボールをのむ。ベランダでカエルの合唱を聴きながら飲むハイボールもまた格別。