kowさんは天ざる大好き

創作に絶望すると、世界が反転した日記

8月11日(火)

今日こそ日記を止めてやる、絶対に止めてやる、と思うが、恐ろしさのあまり日記を続ける。一度出来たパターンを壊すのが怖い。一方で、数年おきに必ずすべてをリセットして失踪したくなる。人との関係は大切だが、オレはそれに縛られて逃げられなくなって失踪する。殷々鬱々としてくると関係のなかに自分の理想を重ねてしまう。オレは耐えられないプレッシャーに押しつぶされそうになる。向こうから関係を終わりにされるのを宣告されるのを恐れて失踪する。ほとんどは勝手な妄想なのに、オレはそれを理性で処理ができない。自我が未熟だと自分と他者の区別がどうしてもゆるくなる。生きづらいと思う。

スヌーズとの一時間の戦いを終えて仕事をする。ゆるいチームで強いチーム作りの挑戦の許可証をもらってからというもの、仕事にハリがでてきた。仕事が楽しいと思うのは久しぶり。不確実性にたいして自分の仮説を試すことができることがなかった。そういう場はワクワクする。一人で立ち向かうわけでもない。誰かと一緒に立ち向かえる。頑張りがきかないオレの心身にとっても心強い。やる気をだす、成功体験を得る、ここまでが助走。みんなこの助走を忘れるからいきなり飛び出して失敗する。議論や技術的にバチバチやりあうのは助走がすんだあとだ。この仮説から試しにかかる。丹波さん、浦野さんとの雑談多めのモブワーク。アウトプット量は勇気をもって無視する。心理的安全性と1つ1つがプロセス正しいことにフォーカスする。成果を焦って順序を間違うと効果がでない。プログラマーにとっては強烈な不安感。コードを書くことは沈静作用がある。しかしその WHY を忘れるとただのオナニーである。正しく書くためには WHY を理解する必要がある。しかし、現代のソフトウェアでは正しく書くだけは不十分だ。共に正しく書く必要がある。Git のようなバージョン管理システムはコミュニケーションは伝統的なコードで語り合うというプログラマーのコミュニケーションに縛り付けている。必要なのはIssueに対して現在の作業をリアルタイムに状況確認、いつでも共同編集に参加できるプラットフォームである。今日は久しぶりに RMI チームと少し作業をする。瀧山も栞も暑さでやられているがまずまず元気そう。移籍した浦野さんも楽しそうですよと伝えておく。瀧山はお子が夏休みにはいって家の中で飛び回っているらしくちょっと神経がピリピリ。ああいうの見ると、結婚って大変だなあとおもう。でもみんないう。マイナスもあるけどプラスの方が多い。結婚しているヤツの強がりだと思っている。これは結婚していないヤツの妬みでもある。無限ループって怖い。

仕事あがりで日暮れのポタリング。頭が重い。風がぬるい。どうなっているのだ。もう日が落ちるというのに。伊花多ヶ浜まで行くともう、日が落ちる。薄闇。気持ちいい。ひぐらしの声を合図に、世界の理ががチェンジする。鳥たちが泣き止む。虫たちが鳴き始める。空気がゆっくり冷え始める。見えないものが動き始める。

部屋に戻り風呂にはいる。食欲がない。冷凍ごはんを温めて納豆とお豆腐でごはんを食べる。お豆腐おいしい。夜はエクリプスチームで Left 4 Dead 2。頭が仕事モードのまま。ポタリングしたのに頭が切り替わらない。うってうってうちまくるしかない。

二十三時でおわり。薬を飲んで寝る。

8月7日(土)

やはり身体が重い。今日はキモサベをお触りしたい。タンブルウィードに行きたい。彼に触れたい。気合いで起きる。

タンブルウィードでは乗馬レッスンのお姉様方が沢山おられる。自分はツインテールのかわいい女の子になったつもりでお姉様方についてまわる。文字通りポニーテールもあるし、ツインテールもあるし、乗馬の身なりでムチをもったお姉様方もおられるし、きゅんっとしてしまう。一番かわいいのはキモサベだけどね。オレはツインテールかわいい幼女のムツゴロウのような形でキモサベにヨシヨシ愛撫攻撃をする。キモサベは鬱陶しそうにしているが受け入れてくれる。視野が全方位ではあるけど、こっちみてるなあって気がつく。馬とも視線はあうし、馬が見ていたなというーφも感じることがある。人では異常なコンテキストが働いてーφを気づくには訓練が必要だ。でも馬とは言語がない分、より直感的に感じることができる。これがオレには良い治療、変化を起こしてくれる気がする。じっとみると見返してくれるキモサベは言葉が使えない。安心して自分の秘部を投射できる。キモサベはそれを受け入れる度量がある。唖が登場する小説が好き。巨人たちも唖のボゴ少年にはかなり惹かれた。
お姉様方と一緒にレッスン。お姉様方はマイ馬やマイ鞍とかで登場である。お嬢様学校かな。オレはキモサベと楽しく遊べればいいと思っていたけどこれでいいのだろうか。馬上でキモサベに聞いてみる。やっぱりああいうかっこいい鞍のほうがいい? そんなことよりお前の指示がよくわからんからきっちり合図してくれよ、とキモサベが返す。しゃべれるのか。幻聴かな。いや、ゴルゴ先生のアドバイスの主体がキモサベに転倒しただけでオレが混乱しているだけだった。お姉様方はしゅっと軽速歩しているが、オレはキモサベとのコミュニケーションに四苦八苦している。キモサベが速歩をやめてしまうのが課題。しっかり足並みにあわせてオレが立ち座りができること、お腹を圧迫して速歩継続の合図をキモサベに明確にすること。頭でわかっていても同時にいろいろやろうとしてなにも成果を生まない。乗馬は基本的にはマルチタスクなのだ。リーンをつかって上達するのは無理がある。
休憩する。オレはふりかえりをする。足並みにそろえた立ち座りは少しできるようになってきた。たち座りはキモサベに負担をかけないだけで、これはオプショナルの目標、本来はキモサベにしっかりとオレがどこを曲がるか、どこにどれだけの速度で進むかを指示してあげることが大事。そして馬上ではいろいろなことが同時に起こる。前走の馬がとまったり、虻がきて馬がリズムを乱したり、地面に少し脚を取られたり、些細なことだが馬上のオレにはとても大きなインパクトとしてつたわる。多種多様な不確実的な要素があって馬はそのなかの些細な要素にも大きく反応する。オレはその因果をすべて対処しようとしていたのがいけないのではないか。馬の揺れと戦っていた、馬の揺れに身を任せないといけない。
レッスン再開。進路指示や教科書的な乗馬姿勢を一旦忘れる。キモサベの身体と一緒になれる感覚を掴む。上半身、脚の使い方、肩の力が抜けてくる。完璧ではないが、全く新しい体感を得る。楽しい。キモサベは自由に走り回っているので、その状態で指示を出してやる。指示を出すとまた身体が自我を取り戻す。乗馬は瞑想に近いんだなと気づく。自我をもってはいない。レッスン終了。もうちょっとでなにか次のステージに行けそうだったがフィニッシュまではいけず。寸止めのくやしさ。
キモサベを愛撫してやるがおやつ食べたいぃという目。うーむ、レッスン前にニンジンをチラ見せしたのはよくなかったか。でもキモサベの呪術師然とした目はらんらんとしている。かわいいのでよしとしよう。キモサベの全身を洗ってあげる。キモサベと今日のレッスンの感想を話し合う。ハンガーフライトならぬ、厩舎乗馬的な。となりでゴルゴ先生は蹄鉄打ちである。なんというか、何をしても様になる。先生はオレがボスだからなっていうオーラでマウントして馬たちの蹄鉄を変えていく。別の馬が洗い場で足をならしてちゃんちゃんわがままをいうものなら、先生がかけていってわがままいってんじゃねえぞのお叱りである。鉄爪をぶん投げる。ぎゃー、なんという強硬手段。馬は人間の目に見えてわかるようにすぐにしゅんとなる。言語をもない馬のコミュニティにおいては力関係をはっきりさせるためにそのようなやり方は必要だろう。キモサベもお手入れするときに傷をみつけることがある。他の馬と遊びながらエスカレートして噛んだり噛まれたりするとのこと。でもそのようにして互いの力関係や自分たちのコミュニティの力関係を維持している。そしてそのコミュニティの究極的なトップがゴルゴ先生でなければこのコミュニティは存続していかない。その正しさを理解しながら、オレはオレの体験を投射してしまう。いじめられっ子に忖度したり、ほどほどに小突かれながら破綻しないように生きてきたり、意味もなく突然殴られたり、怒鳴られたりすることに恐怖に感じる。今起こったありのままのことは恐怖だが、それを恐怖にしないために、きっちり理解する。起こったことが合理的である分には恐怖は減る。いじめは不合理だ。そうだったろうか。オレがいじめられる側になり、時にはいじめる側になり、なんでオレがそんなことができたのか。

帰って風呂にはいる。この風呂には妖怪が沢山いる。でも今日は妖怪がいない。先客がお一人。あいさつをして全身の汗を流す。気持ちいい。ぼんやり社会的な動物のことを考える。いろんな考えはあるが、犬も社会的動物としてボスに従うことで安心した生活ができるという。飼い主がボスとなって信頼関係をつくることによって犬はストレス少なく暮らすことができる。オレのボスは誰なんだろう? あやがとつぜんオレをのぞき込んでくる。お前じゃないとデコピンで追い払う。ひぃとおでこをおさえるあや。非難するようにオレを睨む。生きやすさとはなんだろう。ボスがいることなのか。大きな物語こそがボスなのか。とすれば、自己を強力に相対化できる装置こそが生きやすさの装置なのか。徹底的な内省批判によって人は生きやすさを手に入れることは出来るのだろうか。直感的にしかわからないが、きっとそうではないだろう。生きやすさは自己完結しない。

薬を飲んで寝る。

8月6日(金)

少しお酒が残っている。制御出来る範囲で酒量は減らしたのでちょっとだけマシにはなっている。スヌーズとの戦争を三十分で終わらせる。朝のルーチンワークをすませると、一人になりたくて川沿いを散歩する。蝉の生存戦略をぼうっとかんがえる。オレはここにいると鳴くとメスがトライしてくれる仕組みだ。鳴くと外敵に見つかりやすくリスクは高いが、うまくいけば自分の子孫を残すことができる。鳴く声が大きければ大きいほど気づいてもらえる、メスにも外敵にも。自分に置き換えて考えてみるととんでもない博打だなあとおもう。人間みたくコソコソ交尾するほうに進化はできないものだろうか。ツイッターのDMで待ち合わせ場所きめればいいのに。リスクをおかして交尾してでも幼虫は土の中に何年もいる。個体を増やすのであればすぐに成虫になればいいものを土中で長いことを過ごす。なぜだろうか。外界が過酷な環境で長く生き残れない事態があったのではないか。土中なかで外界の環境が改善するのをまっている。まるで核戦争後のように。数年たっても外界の環境よくなってなければ、その環境下で素早く交尾して子孫をのこして次の数年後にかける。なるほど、一ヶ月しか寿命のない蝉の成虫はそれいう環境の長期変化に対応するための仕組みなのかもしれない。その思考実験でオレは満足する。ウィキペディアはみない。
散歩から帰ると軽く世界と同期する。大嫌いなツイッターもたまに流し見しておく。ほー、ヤマシタさんのアニメすげー人気になっている。やっぱりすごいなあ。自分も創作でたくさんフィードバックもらえる状態が夢だったので憧れと尊敬である。

仕事をやる。チーム作りのことばっかりをずっと考える。忙しすぎて浦野さんのフォローができない。チーム開発の実践はRMIチームでしかしていないので、ほかのスクラムチームのスクラムタイムボックスを見学を進める。違うチームのやり方の見学するのは有効だ。差異からの気づきは多い。午後もファシリテートばかりしている。やっと夕方になって時間がとれる。浦野さんの退勤まで一緒にペアでドキュメントワークする。前向きなのではっきりいって圧倒される。

仕事を上がるともう夜である。疲れてはいるが人としゃべり続けたせいか、いつもと疲れは違う。楽しさも感じられたので少し心がかるい。やはり若手女子浦野さんの前向きさだろう。他のチームと違ってインパクトのある機能開発がすくないとわかっていてもカイゼンにフォーカスしてそこを磨くということに楽しさを感じられるらしい。もちろんオレもそれが楽しいのだがそんなにノリノリな人も少ない。会社の課題でわれわれのチームのミッションになりそうなことに共感してもらえるのはうれしかった。
お酒を飲みながら執筆作業。オレにはもう執筆理由はあまりない。オレしかこの日記は、オレがもうよむことはないだろうな、と割り切った時点で書く動機はほとんどなくなった。エクリプスでシナリオを書くとすれば練習しておこうという前提もあったんだ。文字を書く練習にはなったが、やはりシナリオは別物な気がする。去人たちZEROの書き上がったシナリオはにちのさんもヤマシタさんもぽかんとしていたのが困っている。まーそうでしょうね、という感じだけれどもいっぽうで、オレはあれを作品にしてみたいんだけど、直し方がわからない。うーむ、日本語の勉強が必要かも知れない。頼れる自由人も知り合いもいないな。

薬を飲んで早めに寝る。

8月6日(木)

前日は乗馬にいったり、エクリプスの打ち合わせがあったりでてんやわんや。キモサベがオレのいうことを聞いてくれない。メリハリのきいた指示を出すことが大事。お腹の蹴り方が下手っぽい。蹴る準備運動で身体のバランスを崩してしまうのでしっかりと蹴れてない。メリハリがないからキモサベのほうは、ハエでもたかったのかな、と素知らぬそぶり。常歩の揺れにきっちり重心を安定させてのれていないのがもしれない。キモサベと呼吸があうと気持ちいいのだけど、今日はあまり呼吸が合わない。しかも熱波。馬場は照り返しがすごい。汗がとまらない。乗馬のあとはキモサベの全身のお手入れ。オレがダウン。動悸と汗がとまらない。ゲロでそう。キモサベが暑かろうと、鞍をはずしてやるとオレがキモサベの横でぜいぜいぜいぜいする。ちょっとだけよくなるとキモサベの全身を洗って汗を流してブラッシングする。はあはあ。
家に帰ってすぐに布団に横なる。エアコンと扇風機で体内にたまった熱を排出する。へんな冷や汗がとまらない。横なってやすんでいると左足のふくらはぎを強烈につる。ぎゃー、びくんびくん。死んだ。
食欲がない、ミネラルを補給しないと。せめて塩を。ごはんとお豆腐。お豆腐におかかをかけてめんつゆたっぷり。しょっぱみ多め。さっぱりしているのでなんとか食べられる。質素なごはんだ。でもうまし。

お風呂にはいってしっかりストレッチする。汗がだらだらでる。あかんあかん、すぐにでて扇風機で涼む。身体がまったく夏モードになっていない。

エクリプスの打ち合わせ。全員が全員、闇属性の生物。行方さん、河合さん、オレ。オレは人間ははじめて闇属性ながら昼を生きている。行方さん、河合さんも暑さで体調が万全とはいかないようだ。アイスブレイクでは、業界内の足の引っ張り合いの話で盛り上がる。自分の考えている正義や大義が怖くなるような話でもある。正義をふりかざすやつにろくなヤツはいない。みんなも正義の話をしよう。企画会議は行方さんの新案で議論が盛り上がる。SFのことはほとんどしらないけど、小松左京を読んでいることもあってSFを読む楽しさは質がちがう。同時代ゲームを読むのと霊長類南へを読んだときの同じ読書でもまったく体験が違うのに似ている。SFにはそのジャンルの楽しさがある。なんらかの生物としての制約を技術によってとりはらわれたときに人はどうなるだろうという、素朴な思考実験でも突き詰めていくとリアルすぎる世界として感じられる。一方で、オレは感情がどこにいったのだろうともおもう。虚構の世界もこの世界も灰色。オレを痛めつけるだけ。オレは気を張っていないと殺されてしまう。何事も興味がもてない、期待を感じられない。せめて性欲がもどってくれば、世界は違って見える気がする。偏向していてもいいから世界に彩りを取り戻したい。精のつく物を食べたいな。
良いなと思う理性が、感覚や悟性と不一致の状態。お酒をのんで誤魔化す。また飲んでしまった。おかげで今日の目覚めも最悪だ。

今日の仕事を開始する。チームビルディングのドキュメンテーションをしたりして午前中は終わり。午後からはRMIチームから浦野さんが別にチームに異動するとのこと。また新しいチームのチームビルディングを任せてもらえることになった。浦野さん、オレ、丹波さんの最小チーム。雑用をみんなで公平にやっていたけど、開発に集中できないので雑用をまとめてやるの新しいチームだ。クリティカルなミッションは上からふられていないので逆に言うと新しいことや挑戦ができるチームでもある。オレはチームビルダーとして浦野さんと面談する。学校で畜産勉強してきた異色の女性エンジニアだが、やはり意欲が異常に高い。わからないことがまだまだあるけど、なんでもやってみようという意気込みがむしろ神がかっている。すばらしいマインドだし素直に尊敬する。雑用みたいなところでもチームで成長するためのタスク、実験としてちょうどいいのも問題ないとのころ。スクラム開発についてはキャリア上ぜひやってみたいので、タスクの事業インパクト関係なくモチベーションは高いとのこと。十二歳とはこうあってほしい。十四歳になってならなければよかった。あとはチームの立ち上げにかかってくる。序盤だけリードして、あとは全員がチームの成長の仕方を考えられるようにしたい。

仕事おわり。外は薄暗い。ポタリングにでかける。夕暮れから夜へ。堺目。暗くなると気分が落ち着く。闇属性。色のない世界。
家に帰り風呂に入る。夜は執筆作業。執筆のモチベーションが下がってきている。時間が足りないなかでこの執筆作業はオレに何をもたらしているのか、という自問自答。おそらく、当初よりも気づきがすくなくなった。オレはふたりっきりであることで困っている事に気づいた。人の目線に触れるか触れないかで自己の認識が変わることに気づいた。オレには不満があっても文句を言う相手もいないし、助けをもとめようとして求める友人は一人も居ない。その制約において、どのように自分を御するかということに注力している。殻をやぶるには制約を突破するしかない。

薬を飲んで寝る。

8月4日(火)

仕事で我慢した日はお酒飲みすぎ問題が多発している。仕事でがんばって疲れたわけではない。ただ、嫌なところをぐっと抑えて、それが組織の一員として正しいとわかっているが、個人的には納得できないことをするときに、オレは適応できないらしい。でも、それは多くの人々が割り切ってできている。なぜオレはできないのだろう。仮説を立てる。オレは一貫した世界を生きている、ということはないか。逆に。いわゆる分人といわれるようなコンテキストスイッチをうまくやることが「社会的適応」と呼ばれているのではないかという仮説だ。仕事を仕事と割り切る、というのは代理パーソナリティやイマジナリーコンパニオンではないだろうか。公私混同しない、といったときに人はどこで「分別」をしているだろう。自意識が強ければ強いほど分別は明確な意識レイヤーで処理される。かりに代理パーソナリティがいるとすれば、スイッチすればあとは無自覚に正しく処理される。オレが仕事を始める前に植木等を憑依させると問題は解決かもしれない。そうそう、無責任艦長タイラー面白かったもんね。

二日酔いではないのでまだ酒量は破綻までいっていない。だがこのまま対策を講じなければ時間の問題。うつ性の倦怠感と飲み過ぎの倦怠感を抱えて仕事を開始する。Slack の未読消化をする。朝早く勤務開始すると新規メッセージがなく、心移りせず自分が判断が必要かどうかを落ち着いて判断しながら消化しやすい。それが終わると、カレンダーを確認して今日のイベントを確認して、今日の仕事のリズムを確認する。スクラムマスターとして担当しているプロジェクトチームのドラッカー風エクササイズの準備をする。スクラムどころかアジャイルの概念が浸透していない組織だ、スプリントプランニングですら紛糾した。HRT原則のためのドラッカー風エクササイズももちろん成功循環モデルを使うために大事だが、直近のプロジェクトタスクのなかでどんどんメンバー間の断絶を生んでいる状況を改善しなければならないのではないかと考える。心理的安全性は大事で急ぎ、現状のタスク進捗におけるコミュニケーションミスは大事で大至急。これをドラッカー風エクササイズ形式ばったエクササイズで公平、比較的に安全に議論したい。自分が何を期待されて、どこまで任されているかをはっきりさせて、メンバー内、POとのコミュニケーションロスを防ぎたい。間違っているとか、不快に思われるのを怖がって何も言えなくって居るチームメンバーに発言をつながして認識の差異に気づいてもらうチャンスにしたい。
オレはアジェンダをつくる。オレはドキュメンテーションが下手だ。どうしても些末なことまで網羅したくなる。本質じゃないけど自分が苦労していること。馬鹿らしいけどこんなことで苦労しているんだとどうしても伝えたいのだろう。メンヘラの悪いところだ。ドキュメントは読みやすさ、不偏さ(=変更の少なさ)は大事な因子だ。詳細な How や一時的な How を怒り狂って書き連ねるのは勇気がない。書かない勇気はそこだ。逆に白紙の頭の新人がきたときに知って欲しいのは WHY でありいまの How に正しい疑問をもってもらうことが大事だし、お叱りをうけてしかるべきだ。ドキュメントで言い訳して時間をかけている場合ではない。「ただし」「現時点では」と書きたくなったら書かない。
アジェンダが書き終わったあと、オレはこのプロジェクトのスクラムマスターのしんどさを感じ始める。リソース的にあいているメンバーが集められたメンバーたち、チームとなる蓋然性はなくたまたまそこに居合わせたエンジニアたち、価値観も行動様式も異なる。可能であれば、エンジニア個人のWHYが近しい人たちが集まっていて欲しいが、変化が激しいこの業界でそんなことをいってはいられない。とはいっても当社全体のミッションやビジョンにある程度は共感する何かがあってほしい。贅沢はいわない、少しで良い。正直、どういおうとエンジニアは生きるために、成長するため、自分のスキルが活かせる少しでも多い報酬を支払ってくれるスポンサーを探しているだけだ。それらはトレードオフで働いてみても良さそう、働いてもらった当社によい成果をもたらしそうというお互いの利害が一致したところで働くだけだ。合わなければ辞めるだけ。でも、この利害関係を考えられる人は少ない。従業員を企業のために活動すると決めてしまえば、その人は活きない。採用するときに活きるポジションを考慮するのが互いが幸せになる方法だ。採用する側が求職者に期待することと、求職者が入社後に望むポジション、キャリアパスのズレが大きければお断りする。その点、うちの会社はまだ試行錯誤だ。技術偏重は不安の証拠だろう。技術さえあればなんとかなるだろう。いや、スタートアップ企業なのだから、出来る人、ではなくて投資できる時期でもある。ポテンシャル採用を重視すべきだ、オレはそう思っている。離職率が高くてもいい、あくまでもビジネスの点で興味を失うという意味で。エンジニアがスケールする体制を構築しビジネスチームがいまのビジネスをスケールしてもらえればいい。
定時で仕事を終える。

仕事終わりで頭が切り替わらない。間違ってスマホで Slack を見てしまう。いけない、と思いすぐにログアウトする。自転車で伊花多ヶ浜に向かう。夕暮れ。まだ空気は熱気と湿度を抱えている。夏本番というところだろう。日暮れからが自転車の楽しみの時間だ。出勤時間をずらすがの良いかもしれない。十七時あたりに退勤して、十八時ぐらいからライドすると気温的にちょうどいいかもしれない。夕闇にライドは本当に癒やされるし。だれかオレの私生活にアジャイルコーチを入れて欲しい。なぜオレが活きているか、活きていて楽しいことは何かのWHYから一緒に問い直したいんだよね。あや、お前はダメだ。お前は扇動家じゃないか。そのてへぺろをやめなさい。海辺は日暮れにもかかわらず海水浴客がまだいる。海の家、海水浴客、潮の匂い……でもなぜかぜんぜん風情を感じない。見ていても心が癒やされない。コロナのはなしとリア充の話が混じるかも知れない、結局オレはそれを自然に受け入れられなかったということらしい。人混みが苦手。

家にかえって風呂に入る。なぜか風呂も今日は先客が多く四人。共同浴場で狭くはないし四人が多すぎるとは思わない。ただいつもが少ない分、窮屈だとは思う。ストレッチで身体をほぐして早々にあがる。

今日は買い物もしなかったので冷凍食品をやっつけておこうとおもう。冷凍庫のスペースを空けたあとに一気に買いだめ。冷凍お肉を大量に焼いて燃やし炒めを作る。中華だしでもやし炒めを作る。お肉は濃厚なエバラソースで煮詰めた状態にしてもやし炒めとからめる。ごはんにも合う濃い味だが、濃い味なのでお酒にもあう。ハイボールなんかは最適である。お酒を飲む。ハイボール
執筆作業をする。日記文学は好きじゃない。「朝のガスパール」がどうもうまく読めなかったという事例もたった一つの偏見ではある。いっぽうで日本が私小説というジャンルがあるぐらいに「私」に対して寛容、受容しやすい文化であると認識している。オレはこの日記が「誰かに読まれる可能性があるもの」と認識するか、この日記は「オレがオレのために書いた日記」として残すべきか? 直ぐには答えられない。恐怖。オレはこれをどのように書いているのだろうか? 世界が滅びれば良い、今にも、と本心でオレが思っているときにそんなことを書けないだろう。誰かに読まれる可能性があるときに、オレはきっとそれを許容しないと思う。とくに「読まれる可能性」などという荒唐無稽な想定をしてしまえば、極端な話、オレ以外の、オレが死んだあとも含むすべての人たちとなってしまう。永遠の未来に責任を持て、といわれるときに、責任をもつための方法は、今この時点においては、という前提をつくることだ。オレたちが日本書紀が書かれた時点においては、とか竹取物語が書かれた時点の文化では、という前置きで考えるのと似ている。オレは何をも書かないべきだと、思う。未来において過去のがこうであったろうという想定は正しく行われる可能性は担保されていない。その上で誤解を恐れずに書くというのはリスクが高すぎる。
リスク? それはあなたが死んだあとのことの話?
そう。だがその一方でその「仮の思考段階」に捕らわれたくない。フロイドが「夢の理論」についてそういったように。
わからない。おれはあやを睨む。パフォーマンスとして。あやは笑う。パフォーマンスとして。OK、状況は大局的に理解されたとオレは認識した。

明日は会社を休もう。疲れた。仕事を終わって、自己と仕事を関連させて日記を書いたのだ。明日は体調不良でお休みも仕方ないだろう。むしろ労働として対価を払って欲しいぐらいだ(うそ)。

薬をのんでねる。