kowさんは天ざる大好き

創作に絶望すると、世界が反転した日記

9月16日(水)

目覚めると世界が一つになっている。終わっている。この部屋しか世界がない。あやが楽しそうにお手玉をしている。地獄である。一晩ねたというのに異常に高ぶった自意識が沈静化していない。心がざわついている。いらだち、むなしさ、失望がごちゃまぜになっている。Slack で会社を休むことを伝える。抗うつ剤を空腹の胃に流し込む。そしてすぐに布団に横になる。これまでは意識を飛ばすと良くなっていることがほとんどだったのだ。ただ今日はうまくいっていない。たまたまだ。昼になる、空腹で目覚める。冷凍ごはんをあたためて卵かけごはんをたべる。倦怠感、そして死にたい。死にたいだけはめんどくさいのでなんとか回避したかったのだが、ついにここまで進行してきてしまった。ナイヤガラ並に急転直下でメンタルやられたなあ。死にたいや消えたいにどう対処するか。まずはクスリで意識を飛ばして次の世界線では正常にもどっていることに賭ける。実際オレはそれがうまくいく体質だ。嫌なことがあっても次の朝になるとなんとかなっていることが多かった。ただ今回は失敗となった。次にに死ぬふりをすることだ。駅のホームにいってぎりぎりで立ち尽くす、ロープを買って吊り下げてみる、屋上で立ち尽くす。クスリをご飯茶碗一杯にしてみる。でもこれはむずかしい。駅のホームにいったり、ロープを買う気力すらないからだ。自傷という逃避も有効だ。壁に頭を打ち付けたり髪の毛を抜いたり、体中爪でかきむしったり、刃物で自分を傷つけてもよい。死にたい、消えたい時には観念的になっているのでどうして自身に見える傷をつけることでその差異を受容したくなる。いわゆる、リストカットは象徴的な行為である。死にたいや消えたいと思っている具体的な主体が傷つき血を流しているという違和感はまさにロシア・フォルマリズム的な希死念慮自殺念慮の転倒テクニックである。たしかに、「誰か助けて」という発話とは違うメッセージで解釈の幅を必要とする。リスカと「誰か助けて」の発話の差異に死にたい、消えたいの深遠な苦悩が見え隠れする。
オレは眠剤を飲んで眠り続ける。死にたい、どうせいつか死ぬ、退屈で希望もなく、誰にも視線を向けられず、誰にも視線を送ることができない自分は生きている意味がない。もし死ななかったらオレはずっと視線の間隙で肩身が狭い思いで匍匐前進で生きていくしかない。一四歳になってからというもの、いまだに死ぬときは一人だということを真に理解できていない。死に至る経緯を理解して欲しいのか、それとも理解して欲しくないのか? オレの問題はそこがはっきりしていない。理解してもらおうとしたり、拒否したりと行動は一貫していない。これは自己を防御するうえで仕方のないことでもある。自己をさらけ出せば攻撃される、さらけ出すことを極端に恐れると必要な援護を受けられない。援護を受けられないことを八つ当たり的に攻撃性に変換して「いわなくたって分かるでしょう」風の自殺のやり方がある。これは自己陶酔型の自殺攻撃である。ドラクエの世界ではメガンテと呼ばれる。冷静に考えるとメガンテしてしまった人たちはメガンテする必要がないことが多い。想像力が欠如した集団が形成した現代の日本社会において受容されない事が悪という観念こそがどうかしている。逆に受容されるマス側の人たちが人間性を放棄して快楽を享受しているのをみて劣等感を覚え、卑下するのもわからないではない。今の自分が生きづらいから生きるのを放棄しようと思うのも理解できる。スマホを叩き割ろう。LANケーブルを引きちぎろう。どことも繋がっていないこの部屋で叫ぶのだ。「生きててすみません。だけど、お前等ほうがよっぽどそのことを反省すべきだ」。オレが死ななかったポイントはそこだ。オレが間違っていると思っていたがオレは間違っていない。もし間違っていたとしても、それは誰の「間違い」なのか。オレの間違いではない。生きていれば、誰かと出会って孤独の意味を別の解釈にたどり着く可能性があるし、結局は新しい孤独を選べるかもしれない。生きていればうまいモノを食って幸せを感じるかもしれないし、おいしいお酒に出会って誰かとその感動を分かち合えるかもしれない。結局死んでしまえばなかったことになる。でも、たった一人、オレの死に際の満足感は変わる。であれば、オレのためにやるべきだ、オレが死ぬときに愉快になるだろう全てのことを。

目が覚めると二一時。夢のなかでオレは何かを叫んでいた。エクリプスの打ち合わせがあった。心はぼろぼろだが誰かと話せるのはオレを試すこともできるし希望だ。ラーメン大好き河合さんも行方さんもあまり元気はなかったが、なんと人間の声であり、動的で不確定要素がすべてにある。
ファシリテーターをする。誰かにファシリテーターをしてもらいたいと思ったが、誰かの意見を引き出して自分に得するようなことを言ってもらえるのはうれしい。オレは物語のディテールを気にして原案者の行方さんに質問をする。意外だったが、行方さんもプロットをパッションで作ったので未定な部分がそれなりにある。逆にいえば、オレが作ったなら未定の部分しかない。直感的にそうであるべきだ、という回答しかできない。だけど、いろいろと回答が返ってきたので行方さんはかなり詰めて考えていたのだとおもう。
@lice を叱りつけてやりたい。プロットもなく、最終稿をおくりつけるとはなにごとか。しかも意味がよみとれない。なんで、オレたちはお前のオナニーAVっていうマニアックなコンテンツを消費せなあかんのや。
プロット上のキャラクターはすべてが扁平存在である。いっぽうでプロットの方向性がみえてくると、その扁平存在のキャラクターにどのような厚みが必要かがみえてくる。@liceはいう。キャラクターはとはなんなの? システマチックな存在なの? キャラクターが先にあるの? シナリオが先にあるの?
お前だって、楽しくも悲しくも秀逸な卵子精子だったわけじゃないだろう。お前が書いている小説に理由はなんなんだ?

胸が圧迫される。クスリを飲んで寝る。

9月15日(火)

体調を悪くして朝起きる。吐き気がする。やっちまったな。お酒のトラブルで仕事に影響させるの最低である。二日酔いではない。悪心程度ではあるが、身体がほてっていて倦怠感がある。

仕事はそつなくこなす。人と話すが死ぬほどめんどくさい。さらに精神面でも異常がでてくる。強烈な自己否定感が猛反発して暴力的な自己肯定欲求が高まっている。全世界の人間はゴミ屑みたいにくしゃくしゃになっているオレに敬意をはらうべきだ。お前たちのせいでオレはゴミ屑みたいくしゃくしゃになって死にかけている。どうだ。オレは首にロープをかけて踏み台の上で背伸びをしながら彼らに叫ぶ。人々はオレを一瞥して横を通り過ぎていく。深夜の駅のくしゃくしゃになって倒れているおっさんを冷ややかな目でみて通りすぎる、オレは死ぬほどやってきたのと同じ。出張のホテルからでて会社に向かうとき、路上で頭から血を流しているスーツの男性を一瞥して通り過ぎた。オレは世界に棲んでいる気がしない。オレという意識そのものが地理的に限定的で自己に癒着して自由に変形させることで多様さを側面をとらえることができない。オレはゴミ屑なので、オレがゴミ屑だと思う様々なものたちへの対応で理解はできた。さらに異常なことがおこる。一瞥して横をとおり過ぎる薄情で無関心な人間たちに復讐したいのだ。自分がその一人であるからこの復讐心は苛烈を極める。倫理観を持ち出したところで心は抑えきれない。内発的な破壊衝動に名前はない。ただそれはただそのように感じられなんらかの物理行動に置き換えてエネルギーを放出する。いらくなったTシャツをハンガーにつるして、キャンプ用のナイフで切り裂く。カッターで髪の毛をむちゃくちゃに切りまくる。自分の力が外敵世界に及ぶことを目の当たりすると少し落ち着く。

精神的に最悪な状態、早めに仕事を上がる。ウツのなかでも攻撃的な状態。たがが外れるとよくない。まだ夕方だがクスリをのんでオレを眠らせる。まわりが何も見えない。自意識しかない世界は自殺にもってこいだ。いまぶら下がって命を絶つのと、あと何十年後にくたくたになって血反吐はいて死ぬのとどっちがよりマシなのだろうか。少なくともその数十年に希望がもてない。イキがってぶら下がったほうが、オレは潔いのではないか。自殺配信のような無意味で虚無で自己肯定感の最後の仕草、完全に無意味と分かっているがオレの胸は熱さを感じる。用量を超えてクスリを飲む。おやすみなさい。

9月14日(月)

代わり映えのない月曜日。現実逃避で一三時間ほど寝ている。メンタルの調子は決していいわけではない。これといって原因は思い当たらないのにざわめいている。精神的に疲れているというメインの自覚症状といくつかの注意深く観察しないと気づかない症状。自己嫌悪、イライラ、寂しさ、不安、失望。愚痴を聞いてくれる人もいない。食欲もない。逃げるように仕事を開始する。

バグ修正作業。細かいログトレースから原因の仮説をたてて修正する。集中力がない。心がモヤモヤしている。冷静になって心を掘ってみると原因はイライラだとわかる。あまりにも人と話していないために、人と話したくて話したくてしかたないようだ。それが阻害され続けたために、他者について攻撃的になっている。つまり八つ当たりを始めている。八つ当たりは建設的ではないし問題解決にならない。それなのに心をコントロールしなければ破滅的選択を選んでしまう。オレが権力をもっていたら八つ当たりを通じて問題解決することも可能なのだと思うと本当に恐ろしい。暴力によって理屈や倫理や法を無視して自分の思い通りに他者を屈服させる。すくなくともオレにはその素行が備わっていて、それを抑止しなければそれを実行しうる。動物園にいくと虎をよく見に行く。コアラはかわいい。違う、虎の話である。李徴が虎になった話はオレの話だとつくづく思う。オレがポル・ポトと同じ環境、世界情勢で育ったらなら、大量殺人を命令する人間にならないのは難しいと思う。オレはそのぐらいもろく流されやすい。とくに教育のインプットが偏っているとすれば脆さを補正する注意力、判断力も失われるだろう。
昼休み、冷凍ごはんでたまごかけごはんを食べる。お風呂に入り昼寝をする。
午後も集中が続かない。あやがまた上から目線でいう。「自分を否定して、それを跳ね返して他者を傷つけようとしている。わかるでしょ?」。わかる。lain を好きになればいい。自分が嫌いなのは棚に上げて、何かを好きになりたい。

仕事が終わるとサイクリングに出かける。自分を殴らなければならない。小さな山を二つ登る。地方の裏道的な急勾配の山道。街灯はない。ライトの光量が足りない。光害なみの装備が欲しいと思う。USBのリチウムイオンバッテリーのライトを持っていない。バッテリーが消耗品でバッテリーが交換できないからだ。ロングライドでは緊急時に途中で電源を補充したいと思うかもしれない。そうするとどうしても電池式のほうが柔軟性が高い。電池ならばコンビニで補給できるからだ。もう何十年もそのプラクティスを実践してきたが分かったことがある。オレはまだコンビニで電池を買って給電したことはない。モバイルバッテリーを持ち歩き、充電式の電池を持ち歩き、結果、電源に困ったことはない。むしろUSB式のライトでよくて、そのかわりにモバイルバッテリーを増装すればよいし、なんならモバイルバッテリーは充電済みがコンビニでかえる。緊急時には十分だ。USB式のソーラーチャージャーももっていることだし、今更乾電池に頼るのは不毛だ。勾配一〇%を越える坂道。秋虫の声、ぜいぜいというオレの喘ぎ、足の重さ。ハンドルをぎゅっと握る。オレはペダリングを止めない。息が苦しい。頭がじーんとしてくる。耳がおかしくなる。コーナーの先は山頂だ、コーナーの先は山頂だ、ざんねん山頂ではない。心はその度に折れる。だが、楽しい。この道はオレを殺しにかかっている。オレの期待とはまったく関係なくその物理的地理に従い道は出来ており、オレがいくらドラマチックにエンディングを向かえようと準備したところで淡々と登り続ける。オレは指揮系統から足を切り離す。ペダリング速度はオレが管理することを放棄する。前意識に任せる。オレはトルクではなくて回転数だけに注力する。回転数は減ったり増えたりするために負荷がかかる。いかに一定の角速度で回すかがポイントである。自分を痛めつけるにはトルクだけになるが、早く登るには回転数とトルクのバランスになる。ふと気づく。オレは現実の世界でもただ楽に峠を越えたいだけなのだ。オレは永遠に孤独だとして、その孤独に翻弄されず、淡々と道ゆきをできるだけ楽しみたいのだ。夜の林道は虫たちの世界だ。孤独ですらない。圧倒的な秋虫たちの声量はオレを異物だと教えてくれる。でも残念、オレは坂道と戦う。急なつづら折りから峠に。そこから下りへ。途中、若い鹿二頭が道の端で文字通り道草を食っている。彼らは自動車の音から逃げるのは得意だが自転車のような静かな移動媒体に気づくのが苦手だ。なんだろうと周囲を勘ぐっている鹿が戸惑っている。オレはブレーキをかける。やべっなんかきてんじゃん、という鹿が道路を逆方向に横切ろうとするので止まる。さーせん、さーせんという感じで鹿が去って行く。オレが猟師ならお前等は死んでおったぞ、もうちょっと緊張感を持ちなさい。

家に帰って冷凍ささみを解凍してサラダを作る。ささみには大根おろしを死ぬほどかける。ドレッシングとポン酢。うまし、うまし。運動後のタンパク質うまし。

本当にいやな一日だった。何も解決してない。あしたもきっと嫌な一日であろう。クスリを飲んで寝る。

9月12日(土)

前日の酒が残っている。すこし悪心がある。雑炊やおかゆが食べたいが、オレにはそんな能力はない。料理を作れる人はエラい。
身体は疲れている。だが疲れ切っているわけではない。寝て寝て寝ていると身体は疲れる。動的な回復が必要なタイミングというのは分かっている。でも身体はうごかない。オレはオレによって部屋に軟禁されている。あやですらオレになんども警告をしたものだ。外に出来れば嫌な思いをするけど、わずかな可能性で新しい発見をするかもしれない。その発見も良いものとはかぎらない。むしろ悪いことのほうがおおい。悪いことがないと部屋に籠もる理由がない、それがここ何年かの動機だ。実際、部屋の外に出たあとなら当分、部屋の中に籠もっていられた。困ったことに、オレは外にでると素敵な異性に目移りしてしまう。だれもがオレに興味は持たないが、たまに興味を示してくれる人もいる。オレはゆっくり間をちじめていくが結局最後はオレの本性をしって去って行く。オレの見識は狭い。定員は一人。みんながみんなオレの世界の定員が一人だといって去って行く。オレの問題で定員を二人にすればよいだけなの。つまりそれは、オレが理解できず常態的に予測不可能な世界である。それはオレが怪我しようが死のうがどうでもいい世界とはまったく違う。生まれてきたことに瑕疵があるし、まだ生きていることにも瑕疵があるオレは、他者へ必要以上の奉仕をしてしまう傾向がある。スタートから関係は異常な状態である。この状態で定員メンバーが何を考えているかは予想が難しい。ただ強烈な攻撃に備えて頭を低くしていることしかできない。相手に近づきたいと感じても猛獣と対峙しているかのように何をすることもできない。
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日が暮れてサイクリングに出かける。最近は気温もだいぶ下がってきた。湿度もさがってきて景色も遠くまで見通せる。伊花多ヶ浜にいくと夜空がきれい。この気持ちを共感してくれる人はいない。共感してくれる人は必要なのか? たぶん必要なのだ。手鏡をいつも持参して、鏡に向かっていえば良いかもしれない。手鏡の自分と話すことはただ単純に性欲の問題ではないかと思う。必要なのは共感してくれる他者なのだ。性別はなんでもよい。男性でも、女性でも。ただ存在論として、半分性欲の向き先として必要な隣にいる誰かは本当にかけがないのないものだと思う。性的な倒錯はオレにとって替えの効かないものだ。フレディのように執着し固着したグロテスクなフェティシズムが本当に本当に好きで、エロくてエロくてたまらない。

帰ってお風呂に入る。腹はぼよほよしている。胸が垂れ下がってきている。加齢と共に肉体が衰えている。脳みそもそうなんだ。しわしわの手をみて思う。外形的に時間はたったのに、未だに世界の時間はゆっくりゆっくりと進んでいる。自分の脳みそを書き出してぐちゃぐちゃにまぜて戻したらいいのではない。時間ががっつり進んで、肉体に捕らわれない新しい考え方がすんなり受け入れられるかもしれない。オレは筒井康隆の「敵」が好き。十四歳になってからはじめて読んだ本かもしれない。十二歳のときに「敵」をブックオフで買って、あまり気乗りせずずっと放置して、オレは一四歳のときに初めて「敵」を読んだ。十二歳のときに読んでいたら何にも感じなかっただろう。十四歳のオレは「敵」が本当に良い作品だなあと心にしみた。

ハイパーマートでかった半額のお惣菜で晩酌をする。ウイスキー、日本酒、肉、刺身。アルコールで意識レベルが低下していく。朦朧としながら途中にクスリを飲む。すべては後回しだ。自意識がなくなってから一時間程度オレはすこしだけ夜を歩く。罪悪感を覚えながら、気絶する。

9月11日(金)

疲労がとれずお休みをいただく。メンタルの問題ではなくて身体症状。やりたいことをやっていたら、身体が疲れた。それだけ。布団で寝ていると、電話がかかってくる。寝ぼけながら出ると母親である。疎遠な母親から直接電話がかかってくるとなると、ストーリー上、何かが進行するイベントかなと思う。涙声でいう。なかなか本題に入らない。そのまで引っ張るって誰に何があったんよ? 申し訳ないが身内の不幸を現実感をもって対処できない。オレが自閉症的? わからない。だれも診断を下したことはない。どこかの本で読んだ。親しい祖母が病気で死んだときに自分を困らせるために死んだと思ったと。自閉スペクトラムにおいては時間的連続性が失われることがある。病気で死んだことという因果は自明ではないのだ。母親の話をまとめると甥が交通事故で重傷を負ったらしい。細かいことはなにも分かっていないが、オペは終わって命に別状はないとのこと。死ななければ全ては軽傷だ。家族や親族という言葉がその字義を越えて大きな意味があるはずだということを知っている。だけど、オレは体験できない。論理的に理解することもしていない。アリの社会には泣けるのに、オレが所属している家族や親族には泣けない。オレが木の股から生まれたのならこの罪悪感はないのかもしれない。オレの本当の原罪とは人から生まれてしまったことだろう。人に興味があるのに、人が怖くて、人が嫌いで、人で居るのが苦痛で、人でなくなりたいと思う。オレがそれで、オレは死ぬまでそのままでありながら、感覚を鈍らせ、悟性を鈍らせ、理性を鈍らせながら一世紀近く存在するかも知れない。

寝る。寝れば一世紀が過ぎれば良い。重版出来! を見る。編集者とはなにか、と問うところから始まるドラマ。よい問いだ。よい問いから始まるドラマは一気に見てしまう。結論としては編集者とは伴走者である、ということになる。リーダーでもキャプテンでもなく、伴走者。スクラム開発におけるスクラムマスターもそうだと思う。ただそうなら、スクラムマスターという言葉は本当に強すぎる。マスターという言葉はスレーブという言葉を想起させてしまう。スクラムに寄り添う人がスクラムマスターならそれでいい、だが字義的に強すぎる。オレは、スクラムマスターといわず、スクラム伴走者という言葉を使っていこう。

身体も重い、疲れもとれない。だが、このままでは明日は何も変わらない。キモサベに会いたい。何度めかの初恋。今度こそ実らせて、いつもそばに心が許せる存在とともにありたい。キモサベかわいいよ、かわいいよ。好きなキモサベにも会いにいけない。オレはの身体は鉛で出来ていて誰かのためには動かない。オレのためにしか動かない。オレは薄情なんだなあと心底思う。オレは誰かのためになにかをしては絶対にダメなヤツである。じゃあ、せめて病院に行こう。クスリも切れかけてきた。前回の離脱症状はひどかった。今回はクスリを切らさない。
外はまだ暑い。ボトルは氷で満たしてルイボスティーを入れる。病院にいくために小さい山を越えるとしても獲得票高はそこそこ。気温の高さはかなりの障壁になる。久しぶりの運動。汗がとまらない。心拍は異常な上昇をする。1×11ギアでは10%の勾配がきつい。トレーニングをさぼって体重も増加しているのだから当然である。でもここまで顕著にツライという身体症状に結びつくとは。
診察では前回の血液検査の結果をもらう。食木崎先生いわく、超健康。あー、違う違う。その切り分けのために血液検査しただけで、そこに注目してほしいわけじゃない。まあ、精神科よりも内科のほうが医療報酬的には儲かるだろうけど、そういうことじゃなくて。健康ですみません。血液が健康でもオレがこれだけツライということは伝わりにくくなる。そんなつもりないのにかまってちゃんになってもいいんだぜ。吐き気、めまい、頭痛をどうにかしてよ。いよいよ弱音を吐く相手がいなくなった。周囲の人々はメンタルヘルスに理解がある。だから過剰に共感することもない。だが一緒に走ってくれることもない。オレとともに伴走してくれる人はいないのか。
睡眠の質が悪いので眠剤を出してもらう。やめたかったのだけどオレは止められないのだ。でもいい、オレと世界がズレているなら、そのズレを補正するレシピとしてクスリがあっても不思議じゃない。

部屋に戻る。風呂にはいって汗を流す。ごはんをたべて寝る。クスリを飲む。今日こそ熟睡したい。