kowさんは天ざる大好き

創作に絶望すると、世界が反転した日記

7月20日(月)

軽い悪心で目覚める。朝六時。朝のルーチンワークを終えて少し川沿いを散歩する。いい加減外にでないと本当に死んでしまう。安全地帯にいるとずうっとずうっと地下へ地下へと沈降していって最後には浮上できなくなる。他人の視線も層だし、背景を動かさないと自己の変化が起こらない。
部屋に戻るとコーンポタージュを飲む。胃に優しい。もし、体調がよくなれば、仕事上がりにタンブルウィードにいって馬たちとコミュニケーションとれたらいいなと思い、早めに仕事を始める。
今日も体調不良で丹波さんと栞の二人が休み。栞は基本病弱だが、多少モチベーションとも連動しているところがありそういうプロジェクトの谷間の時期に来たのかも知れない。昔は意気投合してコードを一緒にかいていたので気がかりだ。そんな中、あまり体調がよくないオレも休みたいところだが勤務時間不足で生活資金すら危うい。かじりついてでも働く。傷病手当金ってのは本当に給付まで時間がかかる。
オレはふりかえりをリードできるメンバーが少ない件を勝手に問題化してできる人を増やすタスクに着手。ふりかえりの勉強会ドキュメントを作成する。うちの会社は基本的にコミュニケーション能力が高い人が多い。オレみたいなコミュ障が少数派だ。コミュ障はコミュニケーションを円滑、失敗しないためにフレームワーク、プラクティスをしようする。ふりかえりもフレームワークがある。フレームワークにのかって、そのときどきで多少カスタマイズしながらやりとりをする、ということには慣れている。コミュニケーション能力が高いと地力でコミュニケーションをやってしまえるので、逆にフレームワークがまどろっこしいものに見えるのだとおもうし、他人行儀、茶番に見える人もいるようだ。ふりかえりをリードしているオレだって演技がかった発言をするし、フォーマル過ぎないカジュアルな議論の場と認識している。デイリースタンドアップは相変わらず不毛。新しいプロジェクトに先行着手して技術的にリードしている沓掛さんの投げた感じが痛い。プロダクトオーナーとプロジェクトマネージャーとの連携がまったくとれていないのを困っていて相談していたが、誰もボールを拾ってもらうことができなかった。彼にとってはそれで心が折れたようだ。スキル、タスクの実行能力も十分ではあるが開発プロセス管理を行うにはもう少し視野をもつ必要がありそう。そして本人もそれを期待されているとは思っていないようで、このへんはプロジェクトチームの課題だろう。っていうか、話してないだろうな、あのチーム。心が折れた沓掛さんのことは理解できる。純粋に技術的なところを伸ばしてイケてるエンジニアになろうというのも分かる。いずれ、それも頭打ちがくるし、天才プログラマがすべてコーディングしてプロジェクトを去って行く迷惑天才プログラマだけにはなってほしくない。運用、保守をするのはコードを書いた本人であるべきだ。オレたちもそれを目指しているのだから、早撃ちガンマンタイプを目指すなら価値観が異なるのだ。スキルがあるからこそ、期待してしまうのだが、やはり酷なことだろうか。プロダクトオーナーやプロジェクトマネージャーがそもそもどうかしていたらこんなことにはならなかったのだが。沓掛さんはプロジェクトマネージャーの前では大人の対応をしている。◯◯◯したほうがいいと思うんですけど? と言葉を手放しで放り投げるのが痛ましい。エンジニアの嗅覚だろう、ヤバいのでオレは責任をとりたくないという言い方だ。痛ましいし悲しい。オレはこういうふうに仕事したいんで、こんだけのリソースをください、とか相談にのってもらえなくて困っているので、マネージャーとにペアオペする時間を二時間以上とってください、とかね、いうと仕事も楽しくなるんだけど。たぶん、何度かやって諦めたのだろう。それを改善したいと思うものもいれば、改善するより別の環境にうつったほうが価値が高まると感じるものもいる。それは人それぞれだ。正直、オレも登場人物の気持ちは分かる。
お昼になって、頭痛がひどくなる。カップ麺をたべて直ぐに横になる。うっすら寝たが、気分は悪いわ、頭痛は悪化するわで最悪。在宅勤務、誰が見ているわけでもないし。ため息をついていると、後ろからわっ、と声をかけられる。オレはびっくりしておしっこを少しちびってしまう。なんだろうと思うと、あやである。怒鳴り返してやろうとおもったが、あまりの驚きのあまり口はあわあわと開閉するだけで声がでない。もう、なんなんだよ。おまえは、おとなしくあっちにいって本でもよんでろよ、というとつまらさそうに部屋の隅に言ってKindleで本を読み始めた。
ずっと一人で作業していて、気が滅入っていたので、午後はCRMチームのキンさんとペアワークする約束をしていた。定刻になると Zoom で合流。ミーティング会のキングことオレ、ミーティングに遅刻する、これ絶対ユルサレナイという魔物に取り憑かれている。そして定刻開始の Zoom にキンさんも間髪いれず登場。オマエモナカナカヤルナ。まあ、ホストがメンションすればいいんだけどね、ミーティングっていうのは頭をつくっておいてから来る、っていうのが個人的に好きなので。これはオレの個人的な価値観なのでどうでもいい。でも真面目な人なんだなーってとても感心する。ちなみに沓掛さんはミーティングはメンションでよばれてもなかなかこない。メンション、即応、という期待があるのは送信者側であって受信者側はそんなつもりで Slack 起動してないからね。そもそもミーティングに期待してない可能性がおおい。ただ惰性でやってるミーティングにでたくないの当然だ。下期のチーム目標設定を作っていく中で、BI ツールの使い方を知りたいというキンさんからのリクエストをベースにペアワーク。まずは、このペアワークのゴールを明確にする。キンさんが、このペアワークから得たいものは何かを確認する。そこで認識を合わせた上で、オレがこういうプロセスでやりましょうと提案する。ゴールまでの道筋になる。そこを大筋で合意して、では一合目に行くためにこれをやりましょうというかたちで、目標のゴール、山頂を目指す。キンさんとははじめてのペアワークだったが、真面目、丁寧、わかりやすく話してくれるのでこれはやりやすい。ペアワークしていると、とつぜんのアオさんが会議に参加。興味あるので片耳参加です~というフランクさと興味あるのはキャッチアップしていくぜという貪欲さはさすがだ。オレなんかぜったい入っていけない。人が増えたのでオレも緊張する。意味のあることを説明しなければ。このあたりはしっかり資料をつくっておいたので恐れることはない。ドキュメントをベースに説明すればよいし、そちらは対人の緊張のないフラットな思考で整理されている。はあ、ドキュメントって助かるわ。キンさんに説明したり、運用方法について議論を交わしたりしながら有意義なペアワークが終わる。アオさんは途中で他のタスクで離脱。最後の最後で充実した一時間。キンさんに感謝して離脱。フルタイム定時、上がろう。打刻する。

タンブルウィードにいきたいなあと思ったが体調がやっぱり悪い。布団に横になる。もしかして熱があるかもしれないなあ。オレは体温計をもっていない。昔から体温計のない生活をしている。体温を測るから自分が病気だと思ってしまうという、体温を測らなければ病気ではないという持論によるものだ。風邪ぐらいなら許されたのだが、新型コロナウイルスもあるしうつしてはいけない。体温計も買った方がいいなあ。

いつの間にか寝ていた。二十時ぐらいに目が覚める。頭がいたい。今日は風呂にはいるのをやめる。熱燗を飲みながら執筆をする。薬を飲んで寝る。

7月19日(日)

八時に目が覚める。身体が動かない。身体の中にある一切の動機や欲望がなくなってしてしまった気がする。radikoをつけたままずーっと横になっている。断片的な睡眠を続けながら日が落ちるのを待っている。十八時。これまで餓死してもいいかなと思っていたがやはり我慢はできない。なんの苦痛もなく横になっているよりも空腹のつらさからの逃れたいという気持ちが勝った。人間やめても生き物は辞めていない。起き上がると歯を磨いていない口の不快感、顔の脂のべたつきという人間らしさが戻ってくる。何もしたくない。外にもでたくない。とりあえずお湯を沸かす。パスタを食べる。コンロに火をかけるとそれで精一杯、ベランダにでて椅子にすわる。洗い物などもってのほか。胸が重い。両肩が重い。目が鉛のように重いだるい。ミートソースでパスタを食べる。おいしい。でもよく味がわからない。おいしい。食べ終わるとただ椅子にすわってぼーっとする。久しぶりに死にたい。基本的には無気力からくる消極的な逃亡が多いのだけど、久しぶりに死にたい日である。頭の中の言葉が死にたいで埋め尽くされる。殴れて痛いとか、裏切られて嬉しいとか、誰かが成功して妬ましいとか、因果ははっきりしているものならばまだ制御しようもあるのだが、今日の死にたいは理由を隠している。ついに弱気にんなってあやに、どうおもう? なんて普段しないような質問をする。あやは突き放したようにオレをみると、考えろ、それが嫌なら死ね、という。ひでえなとは思うが、まっとうな言葉な気もする。でもこの死にたいと面と向かうと死ぬ気がする。対峙しようとする度にすごくイライラする。逃げるのがきっと正解だと感じる。お酒でも飲むか。キッチンにはあやがいて、挑発的におれを見ている。そうやってずっと死にたいから逃げ続けて、怯えて生きていくのか。あやがどうも情緒不安定である。間をとろう。いったんコーヒーをいれる。カフェインで覚醒させれば気の迷いで感情も変わるかも知れない。外をみながらコーヒーを飲む。飲みながら思う。オレは死にたいと伝えたい相手がいない。そうかそうか。他者が存在しないから心的エネルギーがショートしているんではないか。変質したエネルギーは攻撃性となって傷つける他者を求めている。自分を傷つけてもいいし、他者を傷つけてもいい。歪んだ内的エネルギーは一旦排出しないと。それかオレを閉鎖病棟で拘束してもらうしかない。身体が動かない、山に殴りに行けない。仕方ないので壁に頭を打ち付ける。痛みとともに物理的な脳への振動で思考を物理的に入れ替える。痛みは、精神優位の世界を身体優位の世界に置き換えてくれる。よりリアルになった世界は、オレがやっていることをバカみたいなことだときちんと理解される。オレはおかしくなってわははははと笑う。
世界と同期する。ネットニュース。くだらない。ツイッター。どうもない。誰もが何かを宣伝している。音楽、イラスト、小説、アニメ、いろんなオタクコンテンツ、技術コンテンツ、ニュース。ただただコンスタンティブに。記号で頭がフットーしそう。商業的に良いものをつくる監督の名前はおおすぎてオレには覚えきれない。それも簡単なことではないんだろうけど、そなものをつくりづづけるならもっと論理的にやってほしい。破綻前提で理詰めでつくった作品、好き。残像に口紅がすごいのは、破綻するルールのなかで人として物語が進んでいくところだ。たった数文字でオレは涙を流した。言語とイメージと象徴。言語を奪ってしまうというルールは誰も予想しない発展をみせた。絶句を強要されるキャラクターたちと、なにも描画されない世界は読者たちが全てを終わらせることができた。幸せだった。

肩こりと目の奥の鈍痛がひどい。風呂にはいる。三人の先客がいる。年配の男性が身体をあらっているがくしゃみをしまくっている。オレもせっけんが鼻にはいってしまうとくしゃみが止まらなくなる。この密閉された共同浴場でそれだけくしゃみをされると感染の可能性を考える。そんなことを気にしていたらストレス死してしまうのか。新型コロナウイルス安全と思う人たちの自治区に行くか、危険と思う人の自治区にいくか。安全と思う人たちの集団が性に合ってる気がする。ウイルスの被曝量がおおければ発症率もあがるだろうが、かかる可能性を覚悟して何かをしているほうが気持ちが楽だ。兵士の突撃による飽和攻撃作戦に加わってしまったら覚悟を決めるしかない。あやはオレを蔑んだ目でみている。死にたいといいながら歯切れの悪い選択をしている矛盾を強く非難している。確かに。死にたいとは飛び降りて死ぬ事ではないのかも知れない。結果、死ぬことではなく、ベランダから飛び降りることが目的なのではないか。世界と自己をつなぐ橋が必要なのだと抗議して自殺するメンヘラ男。この解釈はどう? あやは不満そうに出て行ってしまった。お菓子を切らしているからオレにも何か買ってほしい。

あやがいなくなったのでお酒を飲みながら執筆作業。首がだるい。一日二十時間ちかくねている気がするが眠気が脳の中にずっと鎮座している。
頭を入れ替える。L4Dをやる。前回エクリプスのリクリエーションでクソエイムでもなんかなることをしっている。この世界のルールでどううまくやるかだ。Easy で一時間ほどでクリアする。特殊感染者にうまく対処できなかったり、とりあえず撃ちまくるというだけでもいける。Easy では。ラッシュ時は壁を背にするというメソッドだけは意識する。あとNPCが優秀。マルチではそうはいかないんだよなあ。
興味を持っていた Her Story を少しプレイする。がっかりする。こういうのやりたかったのにな。これの形式をもっとえぐぐすれば去人たちZEROも読めるものにできないか。映像とテクストによる世界構築をきちんとゲームの中でやる必要がある。それが正当性をともわなくてもいい。誰もが不都合な仕組みとしてそこに存在してあざとい制約をもたらしてくれればいい。ゲームの楽しみ方は簡単で、断片邸に物語を読んでいく楽しみは lain とも通じるし、奇妙で無意味な話ですら快楽を感じられる。去人たちZEROの「ゲーム性」については「箱庭」をギミックに使うことを最後ににちのさんと議論をしたところで終わっていて、なにも進んでいない。Her Story のシンプルさ、楽しさをそのままに断片をあつめる話を作りたい。誰か、作ってよ。オレでなくてもいい。共同開発者が必要だ。キチガイでも怖がらずに対話できて、マウントをとってこない人で、時間もあって、そこそこのスキルもあって、原案を一緒に練ってくれる壁打ち相手でもいいし、ゲームに興味がなくてもいつでも気軽に話せる親友でもいい。なあ @lice よ、オレの書いた去人たちZEROをどう思うよ。去人たちⅡの件は拒否したオレが悪かったと思う。でも、オレは一杯一杯だったんだ。でも、それはこっちの事情だよな。あのときにオレに余裕があれば話は変わったかもしれない。でもお互い去人たちでボロボロだった。去人たちにいる時間のほうが現実世界にいる時間より長かった。@lice は最後にどうして中にいれてくれないんだい? といってオレは扉を閉めた。それで夢がさめると思っていた。でもオレは今でも夢が覚めない。十四歳末期にさしかかったオレの話は去人たちとは遠く隔たり、何も語れなくなった。去人たちが去人たちとしてそのままでいるからだ。一方でオレは十四歳末期にさしかかり去人たちは大きく変わって見える。オレは変わってしまった。これは否定的な意味でもある。オレは去人たちが比較的平凡な作品であることを知り、その物語を平凡にすることに興味をもった。生き残ってしまった者が、去った者に対して無礼な批評をするのは好ましいことではない。だけど、オレが拒否した @lice はそのようにすれば戻ってきてくれるものだと思っていた。@lice はたき付ければ反論せずにはいられないはずだ。だけど、連絡はない。いまもない。異常なことは一つだけ。去人たちⅡをオレに託したことだ。去人たちⅡの原稿は良かった。パロディやオマージュをなんども語ったオレたちの全てだったと思う。だが異常でもある、有瀬にそこまで語らせる理由の場所が中盤過ぎる。オレと @lice は構造の話が嫌いだった。だけど、構造を嫌いとするのは印象の話ではなくアンチロマンとしての話だった。有瀬は実在しているようにすらみえた。ノゾミもそうだ。鬼気迫る文章をみたときに、残光に口紅をの二次創作かなと思った。でも実際は違うように思う。二次創作というプラットフォームのなかで生き生きと創作できる場を見出した @lice が何も考えず、構造やテクストやコンテクストを置いておいて、何かをやろうとしたのではないかと、今になって考えている。おそらく構造のなかで考えることが正しくない。制約をずーっと何年も考えて、そのなかでなに新しいことを目指した @lice は最後にそこも取っ払ってしまって、自分がやろうとしたことをただ純粋にやったのではなかと感じている。そこに動機はない、だたそのときにそう思ったんだと思う。オレたちが二人で酒を飲んでいるときに突拍子もないことを思いついて実行したのように。
@lice はオレに二度と会いに来なかった。最後の原稿をメールで送りつけて来た。何も書いていない。オレがこれをゲームにすべきだとも言っていない。でも知っている、これが最後の原稿ということを。命をすり減らして書いた原稿だった。@lice はあと六十年は生きるつもりだった。でも、その文章はこれが最後でもかまわないという意気込みだった。自殺や死について物語内で言及するのは彼の作品にとっては異常だったと思う。死に抗わない小説はむしろオレを不安にさせた。オレは @lice にメールしたが返答はなかった。

死にたい。薬を飲んで寝る。

7月18日(土)

休み、起きる気がしない。外からは雨の音が聞こえる。無理に出かけなくていいんだ。まどろみながらradikoをつけニュースを聞く。新型コロナウイルスの感染が拡大するなか旅行を推進する政府のキャンペーンを疑問視する声。疑問視というよりは批判している。社会という複雑で正解がないものだ。やるべき、やらないべきの二元論ばかり聞こえてくる。新型コロナウイルスはインターネットの向こう側で起こっているように現実感がない議論ばかり。結果は責任をとればいいという政治家もどうかしている。でももっとやればいい。この事態を引き起こしているのは全員だ。安全といったり危険といったり傍観したり中傷したり諦めていたり全員が当事者。運良く乗り切れるかも知れないし、運悪く死者がたくさんでるかもしれない。オレも死ぬかも知れない、身近な人が死ぬかも知れない、オレが好きな人もみんなが好きな人が死ぬかもしれない、大好きだったあの人も死ぬかもしれないし、大嫌いなあいつは生き残るかもしれないし、死ねば良いと思っていたあいつは死ぬかもしれない。死ぬのは対策を行ったせいかもしれないし、そんなの関係なくただのロシアンルーレットのように死ぬかも知れない。いっそのこと日本を二分割してしまえばどうか。西日本と東日本。国民全員に問う、これからおまえらに生存競争をしてもらいます。新型コロナウイルスが安全だと思う者は西日本に、危険だと思う者は東日本に。西日本と東日本は行き来できない。互いに独自の経済圏を気づきできるだけ長く生き残れ。小松左京の物体Oのごとき混乱のなかで生存をかけた体制づくりが行われる。輸入された民主政治しかしらない日本人が本当にゼロから政治をやりなおすチャンスとなる。自分が選択した社会で責任をもって生き抜けばいい。どちらにもアナーキストはいるだろう。それで生き残れるとおもえばやるしかない。当然、日本アルプスに秘密のトンネルを掘ってそのトンネルを仕切る秘密財団も登場する。現状の体制に不満をもったそもそも安全とも危険ともいえなかった人々を別の側移動させるかわりに高い通行料をとってもうける。この物語の結末はどうなるだろう。
布団のなかで物語を動かしながらうとうととしている。ニュースが終わっている。そろそろ起きよう。朝のルーティンワークをやってしまう。最後に歯を磨きながらベランダの椅子に腰掛ける。まどろみながらぼんやり考える。戦争になって味方に戦死者がでたからといって戦いをやめれば国は滅びる。叩かざるを得ない。戦争し続けられるかどうかという基準は、どこまで財政出動できるか、どこまで国民が死んでいいかという誰もが考えたくない判断をすることだ。砲弾に頭を吹き飛ばされて死んだ兵士のことは想像しやすい。新型コロナウイルスに感染して肺炎になって死ぬことも想像しやすい。報道やSNSによって容易に想像できる頭になってしまった。しかし経済的にゆるやかに死んでいき、街が浮浪者や物乞いであふれ餓死者がではじめるという経済パニックは虚構にしか思えない。福沢諭吉は枚数でやりとりされることがなくなる。諭吉一キロと米一キロが等価になり、貨幣は利便性を失う。恐慌の真実は報道できない。報道すればするほど不安を煽り真実味を増してしまう。オレたちは教科書でならった世界大恐慌を受験勉強のキーワード程度にしか理解していない。資本主義において恐慌は想像できない方が都合が良い。想像でることと出来ないこと、人は想像のできないことを理解しようとすらしない。人の社会は健常者であふれている。不気味で楽しい。

朝ご飯はシリアルを食べる。抗うつ剤を飲む。むなしい。目を覚ますために、風呂にはいる。誰もいない。座禅を組む。いまだに数分ともたない。何故なのだろう。妨げるものを認知負荷をかけてトレースする。身体感覚をフラットに保とうとしはじめた瞬間から、脳内にぽこぽこと文節が湧き上がってくる。一種のつぶやき型の自生思考。一四〇文字もない。数十文字の短い言葉たち。しりとりのように勝手にその言葉がつながっていく。やめようとしても自分で考えたことではないので止められない。大きな声をだして上書きするのが精一杯だ。たちの悪いことにイメージではなく言語として立ち上がってくる。しかもイメージはない。映像や画みたいなものが心象としてないものだから無意識に溶け込まない。イメージであればそのままにしてやり過ごすこともできそうなのだが、言語である以上、オレがその言語を認知した意識でもってなんらかの処理をしなければならない。無視するという選択、忘れるという選択、かき消すという選択、人生は選択の連続だ。脳みそが高回転で無意味なアウトプットを出し続ける。突発的な記号の表出と抑制の繰り返し。身体症状にはなるがトゥレット症をみるとつらいだろうな共感してしまう。突発的な記号と自分の知覚、認知の世界が分離しているので最低でも二つの世界を常に意識してしまうのは本当に疲れてしまう。この無意味な記号をどう扱おうか。

風呂からあがってクランキーアイスを食べる。昔からあのカリカリ部分が好き。一人で考え事をしているほうが突発的な記号に惑わされないから楽だ。そういえば、オレは独り言をよくいう。そっちの方が集中できる。自己愛的な話かと思ったが、悪霊退散、バフ効果もあったのかもしれない。

7月17日(金)

地獄の睡眠不足。エクリプスのミーティングのあとぜんぜん寝付けない問題がきつい。寝るためにお酒飲むし胃は悪くするし、眠りは浅くなるし、人は複数人で生きていくようにはできていないのだと知る。在宅勤務なので通勤がないことは助かる。ルーチンワークは諦めて顔だけ洗って目を覚まし、勤務を開始する。

Slack の未読は平和。早々に読み終える。昨日のリリースが静的コード解析に警告がでている。ウォーミングアップがてら修正する。修正箇所のテストコードがないことに気づく。あると思うなテストコードとお祭りくじ引きの一等賞。修正をリバートしてテストコードを先に書いてパスさせる。めずらしくあやがコーヒーを淹れてくれる。テストケース失敗させてみたほうがいいんじゃない? コーヒーを淹れてもらった手前なんとなく拒否できない。間違ったテストケースをかいて失敗することを確認しておく。あやをちらっとみると満足そう。ときどき、どや顔でコードに口を出すのはあんまり感じよくないぞ。修正をコミットしてプルリクエストをつくる。なんも期待せずに、レビューしてーと開発チャンネルになげる。別にリリースしないでも困らないし、誰がレビューしてるか楽しみだ。あやが意地悪そうにオレを見つけている。人に期待しないということはこういうことだろう、なにか文句あるのか。オレはあやを見ないふりをする。気分を害したのかあやは出て行く。
体調は最悪のまま、新型コロナウイルス対策プロジェクトのふりかえり。公私ともにファシリテーションばっかりやっている気がする。ともに成長するのは楽しい。でもそれは手段だから。こんなところで自己満足に浸っている場合じゃないし、こんなの自然とできなければいけないんだ。お前等わかってんのかといえない。アイスブレイクの時間をお前らがうまくはなせよ、という空気でみている。みんなよそよそしいなあ。新しいチームとはいえ、もうちょっと打ち解けようよ。オレもいやだからわかるけどさ、結果たのしくないのは困るでしょ? ね? ね? 体調悪いのにこの暗い雰囲気でファシリテートするのか。ミーティングはじめるとみんなミュートしてるのでなんか手応えがない。べつにノイズとか入らないならミュートでなくていいよ。ミュート外すワンテンポのことを想像できるからこそ、話している人が応答を期待しなくなってしまうっていうの想像できないのだろうか。これは講演ではなくて、ディスカッションの場なんだよなあ。カメラオフでミュートのメンバーもいる。もうそこにいて聞いているのかも不安になる。いや、いいだけどね、それはオレがカメラオンにしてって言ってないから。あーここではあまり期待してはだめ。まずはこの場にみんなが集まっていることだけでもよしとしよう。ふりかえりの手順を説明する。全員にこのふりかえりに期待することを一言言ってもらう。その一言でもみんなの認識はずれている。いままでは、言葉にすらしなかったからズレているということ気づけなかった、ズレから対話がはじまるのもまたよしである。データ収集はタイムラインと喜怒哀を使う。客観的にこのチームを見るとコミュニケーション不足からくる不安、不満を抱えてこんでいるのではないかという推測。しらんけどね。基本ポエムを投稿する方々ではないので感情がわからない。個人的にも気になる。カンバンによるチーム運営なので追えるメトリックスも少ない、それか追うにしてプロジェクトだけにフォーカスできずにメトリックスがとれない。一番まともなプロジェクトの情報は Slack というのも悲しい。プロジェクトマネージャーはなんにも管理してないのか。仕方ないのでSlackをさかのぼって当時の重大なイベントをみんなで書き出してもらう。はーい、みんなでやってー。やらない。誰が主導権もとらない。いや、自由にやってよ。イベントを洗い出してよ。わかんなかったら聞いてよ。聞いてもくんないのかよ。あの、みんな黙ってるんならオレは帰らしてもらいますよ。まあ、できないか。そういうことならファシリテーションする。何をしたらイベントを洗い出せるとおもいますか? どのチャンネルを遡りますか? それとも分担してやりますか? 個々人は優秀だがまったく協働できていない。とうぜん頭のなかで提案は浮かんでいるが発言ができないのだろう。誰かがやる、否定されるのが怖い、関係性が築けてないので何を言われるかわからない。お前等はオレか。プライベートならいいけど、お金もらって仕事してんだからさあ、なんかしようぜ。四苦八苦してイベントを洗い出す。そのイベントを全員で確認したあとに、当時の個々人の感情データをあつめる。喜怒哀で個人の思いを書き出してもらう。それらを総合してハッピー度として数値化してその数値の変異をみる。気づけばデータ収集までで三時間。タイムラインはメンバーでもシンクロしている部分があり、知見を得られそうな予感がある。喜怒哀も似ているところがおおい。同じイベントでも感じ方が違う。オレの個人的な印象ではチームメンバー全員が他のメンバーに対する暗黙の期待だけで動いているテレパスたちの集まりということである。どうやら期待どおりではないな、と気づいても対話しない、諦めている。結果、成果物の結合がうまくいかず、ムダムダムダがあふれてくる。品質も下がる。リリースが遅れる。分業によるソフトウェア開発をしようというなら完璧なウォーターフォールをやるしかない。完璧なウォーターフォールなんてこの世にない。ご存じでしょう? 喜怒哀で感情データの共有ができただけでもメンバーは価値があったというふりかえり結果には助かる。その気づきがとても重要なことなのでここを促進していかねば。

お昼休み。気持ち悪い。昼メシもたべずに布団に横になる。起きると午後の勤務開始時間を三十分すぎている。やばいやばい、びくっとなって脳が急速に稼働。脳みそが変な音をたてている。寝坊したおかげで少し気分はよくなっている。メンションの嵐で呼び出されていない。よし、寝坊を気づかれていないぞ。よしよし。午前中のふりかえりが衝撃的すぎてオレがふりかえりをやっているだけではだめだ。ファシリテーターをだれかにやらせないと。オレは長く生きれない。オレ以外のだれかがファシリテーターをやらないとダメになってしまう。開発チャンネルで笹野マネージャーはファシリテーター能力あげたいっていってましたよね、ふりかえりの基本をやりたい人居ましたよね、読書会しましょうと期待せずになげる。釣り針にかかった若手一名と、マネージャー二人。よし、オレが死んでも大丈夫なようにファシリテーターを立てよう。少し希望をもつ。でも期待しすぎはだめだ。定時に退勤する。フルタイムで働くのがきつすぎる。寝坊してるからフルタイム(仮)だが。

眠気、胃が悪い。布団に横になる。起きると二十一時。胃がまだ不調。身体も熱っぽい。とはいえ、何か食べ物をいれておきたい。そうめんを茹で、おつゆにチューブ生しょうがを大量にいれて食す。風呂にはいってリフレッシュしたいところだが、その気力もない。回復させるために寝よう。眠気が少し遠ざかっているが頭が重い。睡眠導入剤だ。こういうときこそ、大量に飲む。

薬を飲んで寝る。

7月16日(木)

七時、目が覚める。やはり酒が抜けていない。悪心がある。胃が荒れていそうだ。頭の重さと眠気で目が重い。二日連続、最悪の目覚め。病気ではない。だけど、パフォーマンスなんて一切でる気がしない。布団からでて顔を洗う。冷たい水を飲む。洗い物をみてげんなりする。一分ほど立ち尽くす。そういえば、そろそろまごころ癲狂院にいって診察してお薬もらわないとなあ。受付終了が一六時で土日はやっていないのでお休みをとるか中抜けとか早退しないと受診できない。今日は会社をずる休みして、ゆっくり診察にいくのもいいかもしれない。オレは Slack にログインして体調不良でお休みの連絡をする。よほど休みまくってないのであれば、症状まで突っ込まれないので気が楽。
眠気を振り払おうと、もう一度布団に横になる。
十時に目が覚める。でも頭が重い。なんにもやる気がしない。感覚的には最近うすれていたうつっぽい倦怠感。予定があってよかった。なかったら多分布団の上で死んでいただろう。自立支援医療の申請控え、傷病手当申請書をもって家を出る。傷病手当を早く申請しないと生活できなくなってしまう。久しぶりにきちんと自転車に乗る。曇り空、風もなく、気温も低い。ちょうどいい。一つ目の山越え、軽いギアでしっかりケイデンスのぼり。苦しくて気持ちいい。峠をこえて下り。風が気落ちいい。自転車の下りの間隔は好き。バイクとも違う。自転車と人間がほぼ対等で頼りない、でも攻めようと思えば攻めていける。二つ目の山をこえればまごころ癲狂院だ。坂を登る。峠付近では勾配が一番きつくなる。ぜいはぁぜいはぁ。
車がオレの横をパスしていく。すると前でとまって中からおじいさんが出てくる。どうしたのだろうかななどと思っていると声をかけられる。オレはびくぅっとなる。一瞬、無視しようかとも思う。坂道のチャリダーは脚をつくことを嫌う。わかるだろう。すみません、すみませんと、すごく申し訳なさそうに腰をおって話しかけるおじいさん。道でも知りたいのかな。それ、電動自転車ですか? 前にほら、それがあるですよね? 電動自転車ってどうですか? 質問してきたお爺さんの世界が分からない。ボトルをバッテリーと勘違いしたのは分かる。急勾配だったのでそこを登っていたから電動という勘違いを助長したのもわかる。これが電動自転車だとして何をしりたいのか。電動自転車ではないんですが、電動自転車よいですよ、たしか速度が二十キロまではアシストしてくれてらくちん。こういう坂道でもすごくよいと思いますよ。はあはあ、そうですか。でも高いんでしょうか? 十万円ぐらいするんでしょうかねえ。実際に自転車屋にって相談してみるといいですよ。はあはあ、なるほど、ありがとうございました。おじいさんは頭を下げてお礼をいうと、車に乗り込んで行ってしまった。はあ、なんだったんだろう。あー、そういえばこの先に学校があるから孫にでも買ってやりたいのかな。田舎ゆえに自転車ほとんど見かけないし、電動アシストママチャリなんてみた記憶もない。あー、なんとなく質問したくなる状況が理解できたかもしれない。

病院につくと検温。非接触型になっている。待合室はけっこうな人がいる。今日は自己がうまく立ち上がらないのかそわそわする。人の「居る感」が強い。なんともない日はなんともないのだが。ソーシャルディスタンスでも「居る感」が強く居心地が悪い。目をつぶって寝ながら待つことにする。芝らしくすると病院スタッフから申し訳なさそうに声をかけられる。今日はタイヘンな日だ。なにごとだろうか。今日、新患の方おられて時間がかかるので午前中の診療時間に間に合わない、とのことだ。一瞬そんなことあるのかと思ったが、まだ薬のストックはあるので別日に来ますと笑顔を作って返す。先方が本当に申し訳なさそうすぎて、こちらが気を遣うほどだ。それに食木崎先生が診察に必要な時間をかけるのはむしろ好印象である。逆の立場でもそう合って欲しい。精神科医としていままでにみたことのない先生だ。前の病院では患者さんがたくさんまっている待合室で、いれかわり立ち替わり診察をこなして、自分が診察の番になると待っている患者さんのプレッシャーを感じながら要点を伝えてお薬の調整をする。それはそれでその診察室専用のパーソナリティーでしか伝えられなかった。自分の仕事もそうだ、できないことをきちんとできないと言える人が少ない。
せっかく女縄市にきたのだから、海でぼんやりしようと思う。食木崎先生の言うとおり缶コーヒーを買って岸壁に座って飲む。鈍色の空、霞が駆った水平線。コーヒーの苦い感じ、波の音、すっと通り過ぎる風。すべてがいっしょくたになって混じり合う。それは言葉で説明できない感覚。オレは泣きそうになる。すべては一回性なのに、次の瞬間には繰り返されているように思う。

家にかえって風呂に入る。休みだというのに頭の中は仕事で一杯になっている。追い払えない。ずーっとリピートしている。回答はない。回答はないからやってみるしかない。やるのは出勤した明日以降。今日は考えてもムダ。ムダなのに辞められない。オレは風呂で半身浴をしながら座禅を組む。脳内をフラッシュする必要がある。目をかけていると集中できない。目を閉じる。追いやる。自分の呼吸に集中する。それでも粘着質にやつらは脳内に張り付く。脳をかち割って仕事を取り出したい。今日は完全に有給休暇だ。オレは何をしているのか。苦労して瞑想をする。水の下たるを音を聞く。静か。だけど頭の中は騒がしい。騒がしさを認知しながら思う。オレには森田療法が必要なのだろう。手の届かないところに思いを巡らすのはやめよう。手の届かないところにあるものはつねにそのようにあるのだ。でも、待って欲しい、手の届かないところにあるものがまるで目の前にあるように見せたのは何ものなのか?

二十一時からはエクリプスの会議。序盤の十五分はアイスブレイクだが誰も話さない。これは雑談ですらないぞ。スクラムチームでもなんども体験した。雑談ができなチームは疲れているか、心理的安全性に欠けている。オレは多分疲れているのかなと思う。オレ自身もそうだ。どうしようもなく疲れている。ファシリテーターとして発言する。最近、忙しいですか? そこからみんな雑談してくれる。良かった。河合さんはハードスケジュールで疲れていて、行方さんは天気痛で地獄の生活をおくっているとのこと。当然だけど、調子悪いときに調子悪いというのは相当難しい。でもそれができないとチームはぎくしゃくする。今日は自分調子悪いですとオレだけがずっと言っていた。勇気とメンヘラ気質。結果、オレは休職した。それが独り言だったら意味がなかった。発話は希望である。誰かが声を発するときそこに細心の注目する。オレは。
シナリオの企画会議は良い感じだ。いきいきとした意見が出てくるし、否定的な意見も気負わずに発言できている。よい関係性だ。その意見すら理解できると互いの心理的安全性は向上する。議論の質は成長しているなと思った。
一部、去人たちの話がでる。ラーメン大好き河合さんも行方さんも去人たちが好きだという話。オレにはどうしようもない。オレは @liceではないし、@lice のように続きを書くことはできない。オレは @lice にたいする応答をする過程でオレなりに去人たちZEROのシナリオを作る「必要」があった。この過程をうまく伝えられない。伝えれないからシナリオで表現できたら良かったと思った。でも、その説明は必要だった。ここはチームでの創作の現場だ。オレは思う。去人たちⅠで失敗し、去人たちⅡで完成させた成功体験。個別の人間が対話をせずに個別に作品を完成させられるという異常な体験。オレはこの異様な体験が原体験となってしまった故に何も作れなくなったのではないか。作りたいと思っても @lice はここにいない。あやは昔からオレの書くシナリオにニヤニヤと笑みを浮かべて何も言わない。世界には正しいものはなく不確かなものはなく……オレには何もできない。
オレは笑って誤魔化した。いずれにしても去人たちZEROのシナリオどのようであれ、そのようでしかない、といきがるのが精一杯。そしてそれは間違っていない。でもエクリプスチームが目指す作品とはかけ離れている。ラーメン大好き河合さんと行方さんは去人たち好きを理由にフォローしてくれるが、どうかいているものに、あからさまな理由をつけてしまうとどうかしていない。

予定時間はオーバーしたがチームのふりかえりをする。ふりかえりいっか? というと行方さんがやりましょうというから心強い。ふりかえりこそが強いチームをつくる。ふりかえりをキャンセルしてスケジュールだけを立てようとするチームはゴミだからね。それはチームではなくただのグループだから。エクリプスチームはよいチームだと思う。サブカルっという通底があるにせよ、きちんとやるべきことにフォーカスして議論し、目的にむかって集中的に議論できるのは大人でもなかなかできない。

二十六時。ああ、明日仕事できるのだろうか。終わった気がする。今日も薬を飲んで寝る。