kowさんは天ざる大好き

創作に絶望すると、世界が反転した日記

8月28日(金)

朝、起きる。じーんとした眠気。昨日はエクリプスの打ち合わせのあと、体調が悪いのもあってお酒も飲まずに早めに寝た。睡眠ログをみても五時間しかねれていない。都度都度非睡眠時間がある。夢遊病か無呼吸か。困ったものである。布団のなかで睡魔と格闘する。仕事のモチベーションも下がってきている。いや平熱になってきている。きっといままでが躁状態だったのだと思うと気が楽になるはずだ。でもそうは思えない。オレはずっと躁状態でいたいのだ。オレの躁は支離滅裂感や無意味に多動的な行動とは思えない。もちろん爽快感はあるが、内的な動機と行動には因果関係を理解し制御できている気がする。躁状態として病的かもしれないが障害ではない。周囲からは大変迷惑がられてて、病識がないパターンもあるけれど。もし、そうならそれがオレの統覚、理性の限界なんだろうなあ。

エクリプスの打ち合わせでは、ついにプロット原案の決定にこぎつける。行方さんがインセプションデッキを考慮して提案したもので、熱量も高いので競合比較において「質」の点で一歩抜きにでていたのは大きいと思った。他の案はどれもポテンシャルをもっているがなにせ、具体性に乏しいので、何も為し得たことがないエクリプスという新米チームがゲームを完成させるという現実解に対してはあまりにも無力であった。行方さんの案は具体性があるし、発想の幅、解釈の幅を含めてインセプションデッキに適合するポテンシャルもあった、というのは個人の感想だ。オレもエラくなったら谷崎潤一郎賞の選考委員をやってみたいものだ。一方で、イチからジュウをつくることに定評のあるオレだが、すっかり今回のプレゼン大会を忘れていて準備をせず打ち合わせを向かえた。やばいなあとおもう。行方さんも準備ができていないとのことだったので安心したが行方さんはオレを裏切って自分は忙しくてプレゼンの準備ができていないだけで忘れていたわけではない、などというとても都合の良い言い訳をしている。そこへプレゼンの準備をしてきたラーメン大好き河合さんが打ち合わせにジョイン。準備ができていないという我々に対し、「ふむふむ、おぬしらは準備ができていないというのだな。ふむふむ。(ここで拳を握る音)よかろう。では今回のミーティングはスキップして来週でよかろうか? だろ? な? なんとかいえー!」という冒頭のアイスブレイク(物理)があった。オレは申し訳ない気持ちで一杯になった。
最近ミスが増えてきたなあと思う。やはり仕事が忙しくなってくると残業になるし、残業したぶん何かを削る。その決断をしない。決断しないと、一番生活パターンの低いものから削られる。「選択と集中」ができないと高出力にはならない。

そこから一夜明けて今日の仕事。ファシリテートの話がメッセージに並んでいるので返答しまくる簡単なお仕事。不思議なもので、そのチャンネルいるメンバーのだれもが決定権をもっていない。オレは何かを決定するために発言したかったのだけど、それが無意味だったと分かったのは今日の夕方だ。アイディアがでただけで、だれも選択しない、できない。それでメッセージは終わり。目標に到達しない。目標に到達しないものは極論、なんの価値も生まない。オレは今朝の自分の発言を後悔する。何も価値を生まないのなら発言するんじゃなかった。
そのあとはシデムシ隊のメンバーとモブワーク。バグ対応、保守対応ばっかり。タスクはたまる一方。モブワークのリソース効率は悪い。いっぽうでフロー効率は高い。どうやってもタスクは1つしか作業中にならない。しかし対処する不具合の量より発生する不具合のほうが多い。しかし改修が大事だ。それをしなければ不具合と機能開発の挟撃にあう。これはバランスをとるということで解決すべきなのか? チームの部分最適に徹しようとしたが、すでにチーム外から機能開発や運用保守のフォースが加わっている。状況はずっと前から始まっていた。気づいたのが今というだけだ、押井的にいえば。状況が錯綜している。OODA をいちど回した方が良い。来週にでも一旦、自チームの状況を観察しよう。

仕事が終わるとポタリング。羊鳥ヶ岳周回コース。出かける前はとても億劫だけど、いざこぎ出すとやはり楽しい。いつもじゃなくて、たまにオレを家から引っ張ってくれる人が欲しい。
二一時からはエクリプスチームでゲーム。Dead by Daylight。初めてやったが、久しぶりにつらいの体験をした。二度とやりたいくない。その一方で、独特の感覚を覚える人狼と同じタイプの嫌悪感、パニック状態に似ている。まず人狼がこの世で一番嫌いだ。視線恐怖症ならば誰だって人狼なんてやりたくない。もし、オレがやるならパターン言語をつかって整理する。村人のパターン、オオカミのパターン、それらにおけるコミュニティパターン。そのパターンの中から状況を見極めてどのパターンを選択するか、というゲームにしたい、オレなら。しかしオレの中にパターン言語は存在しない。ただ混乱の中で適当にゲームを進めるしかない。さらにそれは一緒にゲームをしているメンバーがいて、下手くそなメンバーがいると面白くなくなる。自分が成長する道や勝ち筋を見つけていないのに、その混乱のなかで成長するのはオレにはできない。座学をして成長するモチベーションもない。だから人狼なんてやりたくない。Dead by Daylight も同種のゲーム。全員逃げることを、大雑把な目標としたときに、行動原理を理解していないと、ゲームを楽しめない。殺人鬼側と逃亡者側両方である。しかもそれを状況のなかで瞬時にスイッチして自分の行動を決定しないといけない。OODA で対処するわけだが、ここで個人的な能力の限界にぶち当たる。オレは視線恐怖症で、相手のロールを理解するのに非常に時間がかかる。殺人気側の行動を理解できない。Dead by Daylight でのオレの自閉スペクトラム感は半端ない。現実世界とは別に、ただランダムに事象がおきて、目の前の状況に自分の行動原理だけで対処しているとなんにも為し得ないし、相手にとっては見当違いのことをしてしまう。ただ逃げ回るや暗号を解読するだけならそれでもいいが、たぶん、それではこのゲームはなんも面白くない。横溝正史の小説が読めるのは、自分が理解するまで自分のペースで読めるからなんだな、ということも気づく。オレの場合、深く感情移入するという方法以外では相手を理解する方法がないのかも知れない。そりゃあ、人に会うのが嫌いなるわけである。
数年前に無理矢理人狼をやらされたときに気づいたことがある。自分は情動的共感能力しかない。認知的共感能力や視点取得能力が著しく欠如している。オレは内的動機がないゲーム的な嘘をつくことができない。ゲームでも映画でも、理由はどうあれ怒っている表現をしている人、悲しんでいる表現をしている人がいると怒ったり、実際に涙を流してしまう。実際に泣いている人が居ると泣いてしまう。必ずではないが、理由はどうあれ影響を受けてしまう。一方、犯行動機も見えず犯人の感情が表出されないミステリー、サスペンス作品は最後、犯人が東尋坊の突端で感情を表出するまでぼんやりとみていることがおおい。大声で叫んだり泣いたり発狂したりするところで、理由はわかってないが、オレはカタルシスを感じている。すべては論理的になんとなく。ただ、その感情ですべてがチャラになるようにオレには感じる。オレの共感とは機械仕掛けの神のようだと思う。パターン言語を作るなら「共感ー拒絶」パターンと名付けたい。このパターンにより無根拠な作品への寄り添いから保護され作品を虚構作品として自立させておきながら、受容者が多層的な理解を促進することができる。
オレは向かって左、向かって右、あなたから見て右、あなたからみて右を頭のなかで考える。東を向いた時、北の方、また、この辞典を開いて読む時、奇数ページのある側、相手がこの辞典を開いて読む時、奇数ページのある側になるのはどうなるのだろう。オレは相手の気持ちになって考えることができない。できるのは、理解できないけど寄り添うことだ。この世界にオレしかいないのはひどすぎる。しにたい。

つらい体験をしてしょんぼりしたあと、すぐに布団に入って寝る。

8月26日(水)

クスリを飲まずにねるというプレッシャーでハイボールをたくさん飲んでしまう。なんとか寝付くことはできたものの疲れがとれない。飲み過ぎである。仕事でモチベーションがあがったのはよいが、果たして正しい動機なのかがわからない。躁が先にあって箸が転がってもやりがいを感じる状態になっているのかもしれない。客観的に判断できるといいのだけど。

顔を洗って、歯を磨く。惣菜パンを食べて仕事を開始する。あや、オレおかしくないかな? と聞いてみるが意地悪っぽくクスクス笑う。オレがおかしくないときなんてない。おかしいのかやっぱり。午前中は丹波さん浦野さんとモブワーク。シデムシ隊渾身の運用保守。もはや誰が書いたコードで誰が責任をもっているかなど気にしない。最後の砦、シデムシ隊が責任を自認してやっつけるほかない。今回の障害調査対応では一番知識をもっている丹波さんをメインのナビゲーターにして新たにジョインした浦野さんドライバーで作業をすすめる。オレはファシリテーターを自認する。なぜ、調査するのかの目的を明確にするように促す。次に、事実集めをする。事実集めは脱線、脱線の連続。オレは都度都度、嫌がられるぐらいに補正する。事実から、こういうことが推測できますね、では、あちらも確認してみませんか。断片的な事実から推論してもその推論の質は非常に低い。わかっている事実を最初のうちに網羅しておかなくてはならない。各種メトリックス、ログをかき集める。無加工の事実だけ。事実があつまったあとに、メンバーの意見、推論をあつめる。そこから仮説をいくつか立てて、そのうちもっとも可能性が高いものを見出して、仮説を裏付けるような事実がないか、メトリックス、ログを探索する。モブワークにもファシリテーターはやはり必要だなと思う。常に知識が同期される、というメリット、創発のためには背景にある、今なんのために何をしているか、という背景を揃えておかないといけない。大概のエンジニアがほとんどできないか苦手にしているやつだ。とくに天才が多いプログラマー、頭の中で暗黙のうちにショートカットして仮説を提案して、しかもそれがあっていたりする。モブで時間をつやしてまだ結論でてないの? みたいな煽り方をされる。天才の知識は一時、モブの知識は最低限システムの寿命と同じだけ生き延びる。トータルの価値で劣っていない、ナレッジの生存戦略という意味ではモブが圧倒している。知識が生み出す価値はライフサイクルの積分で評価される必要がある。
今日のランチはチームメンバーとZoomランチ。RMIチームの栞も飛び入り参加する。前はけっこうしんどい表情がおおかった栞だが元気そう。チーム外での交流にもなって楽しい。栞はシデムシ隊はシデムシ隊で楽しそうにやってるなあとって見てましたというので、ぜひうちのチームに戻っておいでと冗談を飛ばしてみる。栞はまだRMIチームでやることがあるからと笑っている。楽しそうでなにより。オレはもしかしてチーム作るのまあまあうまかったりしないかな?

仕事が終わるとベランダでハンモックにゆられながらぼんやりタイム。夕暮れになると気温も丁度良い。amazarashi がちょうどいい空気。深い紫いろに変わっていく空をみながら、死にたいかい? と聞く。世界が違う。世界線がズレた? オレが誰かと取り替えられた? すこし、怖い。深く考えると怖い。考えないことにする。いま、オレは都合がいい状態にいる。オレはいま眠っているのかも知れない。わざわざ目覚めることもない。
風呂にはいって執筆作業をする。したくない、したくない。内観療法はもういいんだ。もう目覚めなくていいんだ。現実を正しくみられていない、この死にたくない世界は、オレにとってちょうどいいんだ。

クスリをのまずに寝る。

8月25日(火)

クスリを飲まないという選択はうまくいかない。布団でバタバタしたあとに結局頓服を飲む。結局睡眠時間は五時間足らず。睡眠不足。ただ、仕事でやることがある。気合いで起きる。朝のルーチンワークができない。また身持ちを崩し始めている。リセットせねば。

今日も雑用チーム、もとい、シデムシ隊のチームビルディングのワークショップ。インセプションデッキである。「なぜ我々がここにいるのか」、「やらないことリスト」のピックアップ。スケールする組織のなかの1チームとしてスケールするチームのモデルとなる、より高いプロダクトの価値を素早くデリバリーする、というオレたちのミッションのためにやらない事をどんどん出す。がんばる駆動をしない、属人性を高める孤独な活動をしない。「HRTの原則を無視する」ということはぜったいにしない、これを最後に提案する。あらゆるチームの大前提である。「夜も眠れない問題」と「トレードオフスライダー」をみんなで考える。「トレードオフスライダー」はエクリプスで使ったポーカー方式を採用した。それぞれがどう思うかを提示してズレていれば議論するエクササイズである。diff について議論するのでとてもフォーカスしやすくとっかかりに困らない手法だとおもう。機能や品質の話はエクリプス同様、かなり盛り上がる話となる。オレは「選択と集中」のために、機能(スコープ)の優先度をあげて、品質の優先度を高めに取る。一方、浦野さんは機能も品質も優先度を高めに上げる。何時間もかけて作った「やること」リストはどれも重要、これは間違いない。だけどこれを全部できるか? といえばそうではない。とくにいろんな取り組みを同時にやってパフォーマンスがでるわけがない。リーン開発、アジャル開発どちらにも適合しない。成功しても、失敗しても検証が難しいものになる。つまり再現性の意味でこの手法を他のチームに展開しやすさを阻害する。オレはファシリテーターなのに滔々と語ってしまう。はっ、となるが丹波さんも浦野さんも真剣に聞いてくれていて、納得している感じ。良かった。最優先のやることにフォーカスしてそれの品質(達成基準にできるだけ近づける)ことを優先するということになる。ワークショップ中、丹波さんも浦野さんも真剣に考えてアイデアを出してくれた。それらのアイデアによって気づきも得ることができてチームとしての(相互連絡ではなく)相互作用が生まれ良い方向に進んだと感じた。メンバーと一緒に仕事ができるのが楽しいともったのは RMI チームで仕事をし始めたころと同じくらいワクワクする。インセプションデッキが終わるとすっかり疲れる。そろそろ退勤しようかな、と思っていると栞が Discord の雑談部屋に遊びにきてくれる。すっかり疲れていたが、せっかくきてくれたし訪問はうれしいのでできるだけ笑顔を作る。RMIチームの状況を聞いて栞も満足のチームでやっているようだ。うれしい。なんで新しいチームの名前がシデムシ隊なの? と栞に聞かれる。シデムシは埋葬虫とよばれている。寿命の終えたもの、戦いに敗れたものを葬り生態系のサイクルを回している。我々はあまり社内では好まれない仕事をする。バグ対応、カスタマーサポート、どのチームの守備範囲でもない地味なタスク、でもオレたちはそういった誰もやりたくないことをやりながら、組織とプロダクトの未来を見据えながら、新しいメンバーを育て成長していこうとしている。半分自虐だけど、エコシステムとしてシデムシは絶対に必要なんだ。栞はよくしらないけどそうなんだと苦笑いする。そうかシデムシが何かを説明してなかった失敗。栞は休憩時間がおわってまた仕事に戻っていく。オレはなんか最後のふんわりした時間にふわふわしながら退勤。

夕方、自転車に乗りたい。頭が仕事仕事している。抜けない。調子がいいから抜けないのが不快ではないのだが、これは躁的な状態であり、今だから許容できている状態だ。先月の日記を見返してみるが良い。オレは仕事が終わったのに頭が切り替わらないことにもだえ苦しんでいる。ペダルをがむしゃらにまわす。汗がとまらない。それでも回す。心拍一九〇。不思議である。オレはオレしかない。躁状態なのかもしれないが、これは厄介である。四肢がバラバラである、本来は。よりそれが現実に近いのに、オレはオレなのだ。これは根深い。マリに相談しないと。

家に帰って風呂にはいる。本気でペダルをまわしたのでクタクタである。夜ごはんをたべたあと、虚無の時間。日記を書くことがない。書くつもりもない。前日の日記もそうだ。でも書き始めることで気づきをえることもできた。でも今日はどうやってもただのどうでもいい一日だ。ぐだぐだ身をよじらせていると習慣だけが先行して書かぬわけにはいかぬ、ということになる。白ワインをソーダで割った軽い酒をつくって書き始める。書いていて楽しくない。チームビルディングのことを思い出す。場面が映像で思い出される。ポイントポイントが映画のカットのように想起される。そこをふりかえる、なぜああなったのか、なぜオレはそこでそうおもったのか、そのときには思いも寄らなかったことが見つかる。それを日記を書きながら気づく。オレは日記を書くという行為によって、過去の現実を遠景化しファンタジーにしているのだ。ファンタジーにすることで抗うつ剤が必要となるような、リアルで正しい絶望の世界から逃避できているのではないか、という仮説を思いつく。日記はコストに見合わないが、役には立つ。

今日もクスリを飲まずに寝る。

8月24日(月)

土曜日は一日中寝て過ごす。毎週末恒例の疲労、倦怠感。それに加えて肩こり、めまい、吐き気、下痢、冷や汗。不定愁訴ちがう、不定愁訴ちがう、もっとなにか得たいのしれない力によるやつ。日曜日は早朝に目を覚まして少し散歩。そのあと技術書をちょっと読むがめまいが激しくてすぐに横になる。Amazon プライムで 来る を見る。見たあとにはてなが頭のなかで浮かぶ。原作のことを調べてやっと腑に落ちる。いわゆる映画化に失敗しっちゃた感じ。よく言えば原作を知らないと楽しめない。作業しながら見るのにはチョウドよい。土日は結局おもっていたようなことは何も出来ず。

土日に身体を休めていたので、身体の物理的充電は満タン。チーム作りのことをあるのでやる気もでている。今年にはいって一番調子がよいといっていい。あとはめまいと吐き気と肩こりさえなくなればいいのだけど。これが熱中症の後遺症であるならば様子見しかないし、無意識の高ストレスによる身体症状だとすれば悪化していくだろう。無理をせず待つしかない。
エクリプスチームでいつもファシリテーターをしていて思う。オレはとくにファシリテートを学ぼうと思ったこともない。でもなんとなくファシリテートは他の人よりうまいようだ。少なくともオレの周囲の何人かはファシリテートがうまい、と評価してくれている。論理学やロジカルシンキングもできて人並みである。数学の証明問題なんて解けた記憶がない。推測、組み合わせ発想力も高いとは思えない。なぜ、オレがファシリテートが人よりできるのかが分からない。
……そういえば、オレはファシリテートしているとき参加者の目を見ていない。リモート会議でもそうだが、リアル会議でも当然ほとんど見ない。ホワイトボードかPCの画面をみている。ファシリテーターとしては合ってはならない態度だ。でも発言したそうにしている、もじもじしているというのは目を見なくても身体全体の仕草を見ていれば分かる。これは視線恐怖から逃げてきたオレが身につけた能力である。しかしこれがファシリテートがが得意な本質的理由ではない。まったくないと思う。直感として理解されれている。まなざされていないところで行われる議論が、まるで小説のように感じられる。その世界においてオレはメタフィクション的人物として作中に登場しているように感じる。なるほど。ミーティングをしている前にアジェンダ(=物語の構成)ができあがっている。たとえば、起承転結という典型的パターンの構成である。そこに登場人物も分かっている。会議の参加者だ。参加者の人となり、知識スタック、性癖がおおよそ理解できているなら、起こる出来事は完璧にわかるわけではないがたいたい想像がつく。参加者から構成(たとえば起承転結)に具体的エピソードの要約、つまりプロットを想像する。自分専用の「起承転結」が正しいパターンを想像している。逆に言えば、アジェンダを作っているときに、自動的に典型的なパターンのプロットを作り上げている。古典的で使い古されて面白くもない、エピソードをしっかりイメージしている。そして、実際のミーティングではそうならないことを予期している。
なるほど、こういうことかもしれない。物語の理解しやすさ、読みやすさは、構成によって担保されている。たとえば、起承転結と呼ばれる伝統的で退屈な構成。さらに議論のテーマからAI的に典型的な議論エピソードを作り、自分のなかにインプットしておく。これは「原作」に近いものだ。原作は使い尽くされて陳腐化されていている。オレはミーティングからその原作を基にして Live な二次創作を引き出したい。それは予想もしないことがある。そういうものに出会うと、ワクワクするし、その先を見てみたいと思う。オレひとりではできない二次創作を一緒に作れたような気がする。だからオレはやりたくもないといっているファシリテーションをやっているときに、ときどき楽しいと思う。ファシリテーションはしたくてしてるわけじゃないんだからねっ! っていうのは嘘じゃないとここでも正当化しておく。
オレ用にメモすると、物語のフレームワークとそのパターンをたくさん(いまや、たくさんというのはおこがましいが)知っていて、かつ、まなざしを拒否しているからファシリテートがうまくいっている。これは直感的に誰にでもできることではない。だから、オレがファシリテートについて「特別なことをしているつもりはない」というのは正しくない可能性がある。ただし可能性うんぬんはおいておくとして、訓練すればできるようになる。本を沢山読んで人を嫌いになるだけでいい。さらにいえば、自分を殺したいほどに自分が好きなら、なお良い。まざなしはファシリテーションには毒である。関係はまだなく関係性を築きうるという可能性を留保しつつ、自己を投射できる「安全な力場」に飛び込んでみるというパフォーマンスなのだ。

仕事が終わったあとは夜の田舎道をゆっくりポタリング。19時にもなると真っ暗である。涼しくなると今度は虫が増えてくる。マスクしながら走る。気持ちいい。

ポタリングのかえりにハイパーマートでお惣菜をかってかえる。柵のお刺身が半額だったのでマグロとカツオをかって冷凍庫でストック。スーパーのお寿司はアレだけど半額だとありかなと思って買う。半額でお惣菜がたくさんかえたのでホクホク。

家にかえってお風呂。下痢でお尻の穴が痛い痛いになっているでじっくり浸かって血行を促進し補修を試みる。運動後の皮膚表面が異常に冷たくなっていたのでお湯が気持ちいい。自律神経も参っているのだろうけど、なんなんだろう。少しだけ湯船で瞑想。瞑想が気持ちいい。脳みそがとろける。身体あちあちになってお風呂離脱。身体をふく。この前、体毛をあらかたやっつけたはずなのにもう元通り。また足やら股間やらお尻やらお毛毛を刈り刈りしないと。

ソーダで割った白ワインを飲みながら執筆作業。肩こりがひどくてディスプレイを見ているのがしんどい。休みやすみ文字を書く。
病院からは頓服の眠剤しかもらっていない。今日は寝られそうな気がする。クスリを飲まずに寝る。

8月21日(金)

朝が起きられないスヌーズとの戦い。昨日何時に寝たのか覚えていない。寝れずに少しお酒を飲んだが、けっこう飲んでしまった気がする。土管に入ってワールドをチェンジするような時が必要なのです、オレには。抑圧しなければいいのだろう。でも抑圧は世界のせいではなくて自分の選択なのです。どのような世界に棲まうかを選んだ自分は、世界に自分以上の物語を求める傾向がある。自我と世界は浸透膜に隔たれて自我は世界に少しずつしみ出すようになっているのです。それは正しい力場ではありますが、自我にもミネラルを含んだ水分が補給されなければなりません。補給が足りていないと自我は枯死します。精神生活とは常に安定した圧、ストレスがかかっているエコシステムなのです。循環装置であり因果はそのループのなかで逆転すらします。心的エネルギーを移動させる差異にこそ注目すべきで、その過程の認知と自覚的な抵抗に私的小説的な楽しみを感じていた、昔のオレは。

朝のルーチンワークは維持できなくなっている。起きてベランダで日光浴をして重い頭を抱えたまま仕事に取りかかる。オレと丹波さんと浦野さんの超弱小チームの名前は、"シデムシ隊"に決まった。RMIチーム、CRMチーム、プロダクト開発チーム、それらの責務をこえたタスクを拾うチーム。臨機応変にどのような種類のタスクもこなす器用なチームともいえるし、ただの雑用チームとも言える。チームビルダーのオレは正直こまったなと思っていたのだけど、浦野さんがチームのムードを変えてくれる。誰もやりたくないけど十分に価値のあると言えることをやる。丹波さんがいう。でも最後には僕たちも"シデムシ"によって分解されなければならない。地獄少女にも聞かせてあげたい言葉である。このよくわからない自己犠牲精神、もはや自虐である。オレはこれをわざわざ制止する必要があるのか。およそ統計的に挫折が予測される期待は、彼、彼女の背景にある意欲はハイリスクハイリータンである。バランスが大事とか大人っぽいことをいって成長の伸びしろを制限したくはない。オレは未来を予測できない。誰も未来を予測できない。やってみたいと思うことはやるべき、というのが何よりも大事、ただし事後検証可能であること、事後検証が次のアクションへのインプットへとなりえること。不思議だ、浦野さんや丹波さんみたいなことを言う人、どこにでもいたのに、もう何年も出会っていない。彼らは本当に存在しているのだろうか。
それが「適応」ってもんだろ? あやが本を読みながら声をかけてくる。お前はもっと社会に適応しろ。あやはヘラヘラした笑みを浮かべて反論する。「適応すべき社会がない」、まるで煽るように、または挑むような目線。あやには物語的世界と現実的世界の区別がないようにみえる。それは幸せそうにみえるし、オレには不幸にもみえる。引きこもりっ娘のあるあるなのかもしれない。あやはリスクのないコミュニケーションができるようになった仙女のようである。奇妙な魅力があるのは事実だが、一緒に居るとただただ怖い。あやが黙っているとき、オレは本当に一緒にいるのがつらい。
シデムシチームのチームビルディングをする。オレはミーティングをリードするが強引なすすめ方をできるだけ抑制する。抑制すると時間が足りなくなる。だから強引に決める。バランスだ。いきなり安定した合議制を導入できるわけではない。オレが先頭をきって傷を受けながら後衛を引っ張る。ときにはその流れで後衛と前衛を交代してもらったりする。ビルダーはファシリテーターでもある。じりじりと後衛にさがりながら丹波さんと浦野さんが前衛の逆三角形スリーマンセル体制にもなる。議論が停滞すればオレが先陣をきるスリーマンセル体制に戻る。これを繰り返すことで、互いのポジションをだれがどう入れ替えても出来るようになっていく。

仕事がおわるとハイパーマートにでかける。半額のお惣菜をじゃんじゃん買う。カット野菜もかう。きょうは半額のお惣菜が多かったのでルンルン♪ レジが混雑している。大人のオレは余裕で待てる。列の間隔を開けてゆっくり待つ。会計が終わってさらに一つまえに進もうかという段階、おれは大人の余裕があるから急がない。だが残念、その列が進む間にできた列の間隔によって、オレが最後尾ではなくなった。俺の前に男性が割って入る。オレは口を開けて言葉を発しようとしたがとどまる。大人のオレは余裕で待てる。だけど、なにかが違う。混乱する。時間の問題じゃない。でもこんな小さなことで文句言う十四歳かっこ悪いだろう。ぎゃー大声で発狂したくなる。自分が小さい人間であることと、まったく無意味で価値のない葛藤、世界とはオレが作り上げているという事実、しかも小賢しい世界で、それを濫りに破壊してはならないのだ。忌避している安全厨であり共鳴厨となんら変わらないのだオレは。死にたい。

家に帰る。お風呂に入りたくない。疲れた。もうどうでもいい。お酒を飲む。執筆作業をする。

今日は飲まざるを得ない。クスリをのんで寝る。