去人たちを作れなくなったうつ病プログラマーの地方生活日記

創作に絶望すると、世界が反転した日記

8月28日(金)

朝、起きる。じーんとした眠気。昨日はエクリプスの打ち合わせのあと、体調が悪いのもあってお酒も飲まずに早めに寝た。睡眠ログをみても五時間しかねれていない。都度都度非睡眠時間がある。夢遊病か無呼吸か。困ったものである。布団のなかで睡魔と格闘する。仕事のモチベーションも下がってきている。いや平熱になってきている。きっといままでが躁状態だったのだと思うと気が楽になるはずだ。でもそうは思えない。オレはずっと躁状態でいたいのだ。オレの躁は支離滅裂感や無意味に多動的な行動とは思えない。もちろん爽快感はあるが、内的な動機と行動には因果関係を理解し制御できている気がする。躁状態として病的かもしれないが障害ではない。周囲からは大変迷惑がられてて、病識がないパターンもあるけれど。もし、そうならそれがオレの統覚、理性の限界なんだろうなあ。

エクリプスの打ち合わせでは、ついにプロット原案の決定にこぎつける。行方さんがインセプションデッキを考慮して提案したもので、熱量も高いので競合比較において「質」の点で一歩抜きにでていたのは大きいと思った。他の案はどれもポテンシャルをもっているがなにせ、具体性に乏しいので、何も為し得たことがないエクリプスという新米チームがゲームを完成させるという現実解に対してはあまりにも無力であった。行方さんの案は具体性があるし、発想の幅、解釈の幅を含めてインセプションデッキに適合するポテンシャルもあった、というのは個人の感想だ。オレもエラくなったら谷崎潤一郎賞の選考委員をやってみたいものだ。一方で、イチからジュウをつくることに定評のあるオレだが、すっかり今回のプレゼン大会を忘れていて準備をせず打ち合わせを向かえた。やばいなあとおもう。行方さんも準備ができていないとのことだったので安心したが行方さんはオレを裏切って自分は忙しくてプレゼンの準備ができていないだけで忘れていたわけではない、などというとても都合の良い言い訳をしている。そこへプレゼンの準備をしてきたラーメン大好き河合さんが打ち合わせにジョイン。準備ができていないという我々に対し、「ふむふむ、おぬしらは準備ができていないというのだな。ふむふむ。(ここで拳を握る音)よかろう。では今回のミーティングはスキップして来週でよかろうか? だろ? な? なんとかいえー!」という冒頭のアイスブレイク(物理)があった。オレは申し訳ない気持ちで一杯になった。
最近ミスが増えてきたなあと思う。やはり仕事が忙しくなってくると残業になるし、残業したぶん何かを削る。その決断をしない。決断しないと、一番生活パターンの低いものから削られる。「選択と集中」ができないと高出力にはならない。

そこから一夜明けて今日の仕事。ファシリテートの話がメッセージに並んでいるので返答しまくる簡単なお仕事。不思議なもので、そのチャンネルいるメンバーのだれもが決定権をもっていない。オレは何かを決定するために発言したかったのだけど、それが無意味だったと分かったのは今日の夕方だ。アイディアがでただけで、だれも選択しない、できない。それでメッセージは終わり。目標に到達しない。目標に到達しないものは極論、なんの価値も生まない。オレは今朝の自分の発言を後悔する。何も価値を生まないのなら発言するんじゃなかった。
そのあとはシデムシ隊のメンバーとモブワーク。バグ対応、保守対応ばっかり。タスクはたまる一方。モブワークのリソース効率は悪い。いっぽうでフロー効率は高い。どうやってもタスクは1つしか作業中にならない。しかし対処する不具合の量より発生する不具合のほうが多い。しかし改修が大事だ。それをしなければ不具合と機能開発の挟撃にあう。これはバランスをとるということで解決すべきなのか? チームの部分最適に徹しようとしたが、すでにチーム外から機能開発や運用保守のフォースが加わっている。状況はずっと前から始まっていた。気づいたのが今というだけだ、押井的にいえば。状況が錯綜している。OODA をいちど回した方が良い。来週にでも一旦、自チームの状況を観察しよう。

仕事が終わるとポタリング。羊鳥ヶ岳周回コース。出かける前はとても億劫だけど、いざこぎ出すとやはり楽しい。いつもじゃなくて、たまにオレを家から引っ張ってくれる人が欲しい。
二一時からはエクリプスチームでゲーム。Dead by Daylight。初めてやったが、久しぶりにつらいの体験をした。二度とやりたいくない。その一方で、独特の感覚を覚える人狼と同じタイプの嫌悪感、パニック状態に似ている。まず人狼がこの世で一番嫌いだ。視線恐怖症ならば誰だって人狼なんてやりたくない。もし、オレがやるならパターン言語をつかって整理する。村人のパターン、オオカミのパターン、それらにおけるコミュニティパターン。そのパターンの中から状況を見極めてどのパターンを選択するか、というゲームにしたい、オレなら。しかしオレの中にパターン言語は存在しない。ただ混乱の中で適当にゲームを進めるしかない。さらにそれは一緒にゲームをしているメンバーがいて、下手くそなメンバーがいると面白くなくなる。自分が成長する道や勝ち筋を見つけていないのに、その混乱のなかで成長するのはオレにはできない。座学をして成長するモチベーションもない。だから人狼なんてやりたくない。Dead by Daylight も同種のゲーム。全員逃げることを、大雑把な目標としたときに、行動原理を理解していないと、ゲームを楽しめない。殺人鬼側と逃亡者側両方である。しかもそれを状況のなかで瞬時にスイッチして自分の行動を決定しないといけない。OODA で対処するわけだが、ここで個人的な能力の限界にぶち当たる。オレは視線恐怖症で、相手のロールを理解するのに非常に時間がかかる。殺人気側の行動を理解できない。Dead by Daylight でのオレの自閉スペクトラム感は半端ない。現実世界とは別に、ただランダムに事象がおきて、目の前の状況に自分の行動原理だけで対処しているとなんにも為し得ないし、相手にとっては見当違いのことをしてしまう。ただ逃げ回るや暗号を解読するだけならそれでもいいが、たぶん、それではこのゲームはなんも面白くない。横溝正史の小説が読めるのは、自分が理解するまで自分のペースで読めるからなんだな、ということも気づく。オレの場合、深く感情移入するという方法以外では相手を理解する方法がないのかも知れない。そりゃあ、人に会うのが嫌いなるわけである。
数年前に無理矢理人狼をやらされたときに気づいたことがある。自分は情動的共感能力しかない。認知的共感能力や視点取得能力が著しく欠如している。オレは内的動機がないゲーム的な嘘をつくことができない。ゲームでも映画でも、理由はどうあれ怒っている表現をしている人、悲しんでいる表現をしている人がいると怒ったり、実際に涙を流してしまう。実際に泣いている人が居ると泣いてしまう。必ずではないが、理由はどうあれ影響を受けてしまう。一方、犯行動機も見えず犯人の感情が表出されないミステリー、サスペンス作品は最後、犯人が東尋坊の突端で感情を表出するまでぼんやりとみていることがおおい。大声で叫んだり泣いたり発狂したりするところで、理由はわかってないが、オレはカタルシスを感じている。すべては論理的になんとなく。ただ、その感情ですべてがチャラになるようにオレには感じる。オレの共感とは機械仕掛けの神のようだと思う。パターン言語を作るなら「共感ー拒絶」パターンと名付けたい。このパターンにより無根拠な作品への寄り添いから保護され作品を虚構作品として自立させておきながら、受容者が多層的な理解を促進することができる。
オレは向かって左、向かって右、あなたから見て右、あなたからみて右を頭のなかで考える。東を向いた時、北の方、また、この辞典を開いて読む時、奇数ページのある側、相手がこの辞典を開いて読む時、奇数ページのある側になるのはどうなるのだろう。オレは相手の気持ちになって考えることができない。できるのは、理解できないけど寄り添うことだ。この世界にオレしかいないのはひどすぎる。しにたい。

つらい体験をしてしょんぼりしたあと、すぐに布団に入って寝る。