kowさんは天ざる大好き

創作に絶望すると、世界が反転した日記

5月22日(金)

やっと最低限の部屋の片付けが終わった。百あまりの荷物は解体され、どこかの収納に収まった。あんなにあった段ボールが収納されたのだから驚くのと同時に、物事はなんにせよやってみなきゃわからんものだと実感する。
片付けが終わったいっても、なんらか、収納箇所に収まっているというだけの状態であり、機能的かどうかは別である。たとえば、余ったUSBタイプCケーブルをひっぱりだそうもんなら、押し入れをひっかきまわさなきゃならない。これはイケない。利用頻度や利用の分類によって手前や奥、それに合理的なように小分けのケースなどで分類し、あるイベント後のエントロピーの増大を最小限にとどめる必要がある。整理とは問題領域ごとに明示的な境界で隔てられモノの関心事が分離されている状態を指す。居住者にとって分類されていないモノを押し入れになんでもかんでもつっこむのは隠蔽といわれる。そしてこれは「カプセル化」でないことに注意していただきたい。仲介として安定した荷物管理人がいるならいい。つまり安定で合理的なインターフェースが定義されているならよいが、そうでないものはいずれ破綻する。
いずれにせよ、現在の収納は暫定で日々リファクタリングがしていく必要がある、だが、いったんここで生活するレベルには達したという意味である。

左右上下に挨拶しにいく。現代大都市は引越の際の挨拶は少なくなってきたものの、こちらでは想像もつかないような土着文化があるかもしれず挨拶しておくにこしたことはない。事前に仕込んで準備しておいたとらやの羊羹をもって挨拶にいく。

まずは左612。イメージをする。人がでてくる。目をあわせない。笑顔をわすれない。
<突然、すいません、わたくし kowasuhito と申します。 611で単身でお世話になることになりました。つまらないものですが、今後ともよろしくお願いします>
心のなかで三回繰り返す。緊張のあまり声帯がしまって声が裏返ることがある。あがり症なら当然知っている。一度、声を発してみる。完璧だ。チャイムを押す。クラシカルなチャイムの音がなるが、まてどくらせど誰もでてこない。留守かな。
次は右610。同じくイメージトレーニング。チャイムを押す。こちらも誰もでてこない。
次は上711。こちらも誰もでてこない。
次は下511。誰もでてこない。
まあ平日の昼間だし、こんなものか。夕方になったらもう一度訪問してみよう。

時間は昼食どきを過ぎていた。緊張から解放されて腹がすく。我文町には以前、旅行で訪問したときにお世話になった宮内さんに挨拶にいく。バックウォッシュというカフェでマスターをされている女性で、彼女も大都市から移住してきて今では二児の子どもを育てているそうだ。新型コロナウイルスでカフェはうまくやっていけているのだろうか。バックウォッシュを訪ねると扉は密を避けるためだろう、ドアストッパーで解放されている。緊張しながらドアから中をのぞくと宮内さんははっと驚いたような顔をする。瞬間、まずいことをしたなと思った。まるでコソ泥みたいな仕草であった。慌てて、「あっあっあっ、あああお、お久しぶりです」などと言ってみるが挙動不審この上ない。
「あー、 kowasuhito さんじゃないですか、ずっと我文町におられたんですかっ?」
前回の訪問では挨拶もできなかったのでオレが我文町を去ったかどうかも知るよしはないのである。最近、移住してことを伝え、今後ともお世話になりますと深々と頭を下げる。そして自粛しているのに訪問したことを詫びる。テイクアウトの用のナシゴレンを注文して外で待たせてもらう。自分は免疫を信じているのでいいんですよと気を遣っていただいたが、信念はどうあれウイルスの方は信念など考慮してくれない。万が一、ご家族に感染したり重症化するようなものなら申し訳ない。テイクアウト用の包みを受け取ると、落ち着いたらまた伺うことを約束して帰宅する。ナシゴレンは我文町にきてから初めて食べるまともな食事である。うまくて涙が出そうだ。

続いて、部屋の痕跡消しである。吊り下げ式の電灯をとりはずしてシーリングライト付け替える。風呂場の掃除。水回りは超個人的なスペースである。足の裏が見ず知らずの水分に接触されているだけで卒倒する。すべて自分がコントロールされた水分であってほしい。これが理由でプールや銭湯がちょっと苦手である。新居のマンションは一階に住人共用の大浴場があるので、部屋のお風呂はほとんど使われていない。引っ越した部屋のお風呂も同様で、物置として使われていてお風呂としての衛生観念からはほど遠い状態になっていた。ここがオレの本気の見せ所だ。カビキラーを散布。タワシをもって突入。タイルというタイル、バスタブの隅々まで消す、消す、消す、消しまくる。さらにカビキラーをうわがけ。激落ちくんでコーナーというコーナー、溝という溝をえぐる。いいぞ、いいぞ、もっとやれ。シャワーヘッドは死亡している。よろしい、ストックのシャワーヘッドがある交換である。書き換えてやる。地獄の排水溝。パイプフィニッシュとカビキラー。混ぜるな危険。市ね、市ね、死んでしまえ。タワシでぎゅーぎゅー汚れを落とす。綺麗にな~れ~。ごしごしごし……。あの誰かのバスルームをオレのバスルームにしたったぞ。みんな見てくれ。オレは膝から崩れ落ちると頬からしたたる雫を小綺麗になったシャワーで洗い流した。

外は夕暮れになっている。忙しくしているとうつも横に置いておくことができる。休憩のコーヒーを淹れる。外の景色を眺めながら夜が訪れようとすることを再確認する。山の緑は深くなり、鳥たちの声も少なくなっていく。なぜオレは夜が怖いのだろうか。
どんどんどんと上の階から物音がする。711の住人が帰ってきたのかも。チャンスである。今日のことは今日の内にできるだけやっておきたい。階段を急いで登って深呼吸する。数時間前にやったイメージトレーニングを繰り返し、チャイムを押す。だが誰もでてこない。居留守かな? 居留守を使うオレがだから、もしそういうタイプだったら申し訳ない気持ちになる。しかし、どんどん音がするぐらいだし、牽制球はなげておきたい。しばらく待ったがやはり出てこないし物音もしない。ここは一度撤退しておこう。土日であれば日中でも在宅している可能性もあるだろう。