このスケジュールされた日記をどこまで頑張って書けるか挑戦する。
わたしも、もう生徒のころは休みの日は起きてから寝るまでずっとアニメのビデオを見ていたわけだが、なかなか充実した日々だった。
レンタルビデオを借りにいくぐらいしか外出しないで、おかしを食べながらアニメを見続ける日々だった。
部屋にはニュータイプが山積みになっていたり、同級生やらアスカのポスターが貼ってあってたりで華々しい部屋だった。
まあ反動的にこれが受け付けられなくなる事件があったわけだけれども、これは今回のお話しではない。この話は、去人をつくりあげたら、暴露して国際問題にするつもりだからしてまってちょ。<個人的な問題だろヽ(`Д´)ノ
そのころ、アニメを見ていてしきりに、
「このキャラクターはこの声(声優)じゃない!」
って思うことがあったわけだ。
原作があってそれを読んでいたりすると尚更、その苛立ちは顕著であった。
にょきっと現れたキャラクターが自己のイメージと齟齬があると、それに対して抗議するほどの不快感を感じる。
そもそもアニメのキャラクターは、我々が普段現実で接する他者とは違う。
わたしたちにとって他者は、精神的細胞壁みたいのがちゃんとある。自分が認識する限りにおいて他者が存在しなければならない、という道理は通じない。そこに他者はあった、と認めなくてはならないことを知っている。
アニメのキャラクターにおいては、その不明瞭な確定記述からパフォーマティブに意味を付加していくとができる。また、キャラクター記号が属するラング大系が明確に存在しないから、自分独自の固有化を推し進めるのも容易というわけである。
アニメのキャラクターがわたしたちにとって驚異でないのは、わたしたちが常にそれらに対して安全な位置にいるからだし、それらが鏡像段階を経験していないという認識があるからだろうと思う。もし、そのキャラクターが不愉快なら、そのコネクションを切断することになんの容赦も必要ない。そのキャラクターは自分が認識を拒否した時点で、イメージの墓場へ追いやることができる。
イメージ新生児病棟は資本主義社会では貧富の差が激しい。
まず、記号が立ち現れる。ホンの一瞬の間。
次にイメージが生まれる。生まれたイメージは、同じ記号を母に持ちながらも、将来弁護士にも連続殺人犯にもなる。或いはまもなく餓死するかもしれない。主観をかなぐり捨てて言えば、こういうことだ。イメージだって生まれる場所は選べない。
蒔かれた種の行方である。
あまり、書くことがないのでとりとめのない思考を羅列した。
表題のとおり、実証されたイメージについて。
たとえば、このキャラクターはこの声じゃない!っていうのはいいんだけど、実際にアニメで見た声に慣れて、その以前にイメージしていた声を思い出せない。
わたしたちは意味づけされないものを、認識できない。認識できるモノは、意味するモノだけである。
年号の語呂合わせみたいなものである。意味のない数字を認識できない。
抑圧されたイメージが二度と想起できないものであるかもしれないとしても、キャラクターの声が波動関数的に一つであったとしても、それに腹を立ててはいけないんではないか。その声がまた複数だとしても、その数を数え上げることは本質的ではないんではないだろうか。メタ音声分析的なことをやっていっても、結局どこへもたどり着かないんではないだろうか。
いま、わたしたちが想起できなくなってしまった声が届く場所があるのではないか。その場所に接続する回路があるのではないか。回路なき回路ではなく、回路として認識しうる可能性がある回路を経て、またその声はわたしたちのもとにたどり着く可能性を呼び戻すのではないだろうか。