kowさんは天ざる大好き

創作に絶望すると、世界が反転した日記

08月15日(月)

飽きもせず、何も決定しない会議ばかりの日々。うんざりする。
参加者が多すぎて議論は収束しない。収束しないために、参加者のなかの最終意思決定者を設定し、ミーティングの最後には必ずアクションがでるようにする。
最終意思決定者は、ビジネスセンスがあるから、それなりの落とし所を見つける。
極端なはなし、バランスをとる、で終わることがおおい。何も決まらないよりは、「バランスをとってアクションしてみよう」はマシに見える。

バランスをとって次に進めたことに苦しんでいる最終意思決定者はあまりみない。切り捨てられた側は、いつまでたっても切り捨てたらままということが多い。

決定には後悔がつきまとう、というのは個人の感想。議論が収束しないときに、立場上なにかを決定することがある。出資してるとか、最終責任者だからとか。

違う決定をしたらどうなったのだろうといつも思いをはせる。

ある決定をした世界線で、次の決定が迫られるとき、できるだけ前、前の選択肢を思い出し、選択せず、切り捨てた側に思いをはせる。これも何世代まで遡るかは自身の回想力次第となる。当時の文脈を正確に思い出せるのか。あるいは、事後的に選択を都合良く解釈しようとしたりするだろう。

論理的に説明しようと当時の状況を正しく再現して回想するのだけど、結局それすらなんらかの事後的バイアスによって歪められている。それでも切り捨てた側を顧みることが必要だと思う。顧みることというより、顧みようとする意志が、次の決定に多くの選択肢をもたらしてくれる。その選択肢の多さを煩わしいと思うのではく、世界の解像度として立体的に解釈すればいいのだとおもう。

複雑なものを単純化して、迷いを断ち、アクションする。単純化するときに用いられる基準は、論理、理性、合理が多いなあと思う。
逆にいえば、何をそぎ落とせば、世の中は単純にみえるのか? という問いなのかもしれない。
そしてシンプルに認識できる世界はなぜ必要なだろうか、という次の問いを生む様な気がする。

どのような世界認識のもと、そこに住まうかなんて、それこそ個人の問題なんだろうと思う。

無意識の過度な事物の記号化や関連性の符号化は、個人的には楽しくないとは思うが、それを望むことを不合理とは思わない。
コードやコンパイルされたバイトコードで善し悪しを語るのは発展性に乏しい。
「完璧な文学作品」が失敗した理由を思い出せばよい。文章もソースコードも記号そのままにおいては、どこまで頑張っても曼荼羅的にしか美しくない。