kowさんは天ざる大好き

創作に絶望すると、世界が反転した日記

6月10日(水)

相変わらず睡眠の質が良くない。何度かの覚醒をへて、九時に布団から起き上がる。覚醒する度にあやが魔の手を伸ばして布団に引きづりこもうとする。オレの意思で布団を脱出するラストチャンス。「このまま寝ている」「起きる」の選択肢が表示されたあと、「起きる」を選択するためには十秒間に一六〇回「起きる」をクリックしないと失敗する。そういう選択肢。
朝の一連の儀式を終えて着席する。あやは褒めてくれるわけでもないし、責めるわけでもなさそう。むしろ何もしないことで自分を気づかせようとする。人心を手玉にとるのを止めて欲しい。あやにはオレの決心を見せつけておく必要がある。今がその好機である。
オレは自転車に乗ることで自分を殴りつけるすべを身につけている。だがオレばかりが疲弊していてあやはへこたれていない。次はウォータースポーツであやと勝負よ。身軽にできることは素潜り、そこに到達するまでに水になれておきたい。スノーケリングにトライする。それが今だ。
装備を着込んで自転車で海岸までのんびりサイクリング。水泳は得意でも不得意でもないはずだが水泳自体を何年もしていないし、海となるともう記憶にないぐらい入っていない。岩場の海岸線、フナムシも以前ほど異様さはなくなっている。超高速ダンゴムシの類いだと思えば、うむ、やっぱりぞくぞくする。スノーケリングスポットとしては知られているが、平日なので誰もいない。内海で波はほとんどない。波の高さとしても離岸流を気にすることもないだろう。ド素人チャンス。岩場の波打ち際でちゃぷちゃぷしながら海水温のイメージを掴む。ウェットスーツ上からは冷たいような気もするしそうでないきもする。撥水性が高すぎて浸かってみないとよくわからないのか。フィンをつけると思い通りには足が動かせない。顔を付けて水漏れチェック。マスクはしっかりと装着できているようだ。砂浜でないので下は海藻がゆらゆら。異界じゃないか。フナムシ程度に嫌悪感をいだいていたが、こんなところダライアスレベルの奇妙な生き物たちがたくさんいるに決まっている。足の裏がぞくぞくする。足裏濡れているとぞくぞくする病が前面にでてくる。こんなところで二の足踏んでいても仕方ない。なにかあればあやが助けてくれるだろう。飛び込め。
ゆっくり潜ったつもりがすっかりダライアスの世界である。激的変化。思考が停止する。海水温とその感覚、冷たい。水圧。視覚、ダライアス。フィンのもっさり感、呼吸に関する意識、鼻と口の区別がつかなくなる。聴覚は水中モードへ、聴音からの距離感喪失。そして思ったより深い。パニックに陥ったら足もつかないし死んじゃうじゃん。水の怖いところはどんなに浅くても水死できるということ。たった数秒のうちに起こったことを説明するとそんなこと。恐怖という言葉で表されるような体験を分解すればどうってことはないありきたりな知覚にすぎない。でも恐怖は状況を悪化させる。なぜそんな状況を悪化させるんだろう。パニックと呼ばれる恐慌状態のほうが生物的には生存確率が高かったのだろうが、人間は判断によってより生存確率が高い選択をできる。なぜそのようにこの身体は進化していないのだろうか。過呼吸、身体統覚の喪失、震え。でもあやが笑いながら助けてくれる。死ねばいいのに。その一言は恐怖心を減らす。そう、なにかあってもたかが死ぬだけ。オレは息をとめる。足をとめる。手もとめる。身体が浮き上がる。シュノーケルが口から大気に繋がっているのを感じられる。水圧と水温はひんやりをオレを包み込んでいる。身体がほんのすこしゆらゆらと波にゆられる。眼下には異界化したダライアスの世界。ぱきぱきという世界の窓ガラスが水圧に悲鳴を上げている音が聞こえる。
スノーケリングを終えて帰宅。洗濯にかけ風呂にはいる。なんとなく食木崎先生の生命の源という言葉を思い出す。でもその言葉の世界にフナムシはいない。言葉と現実のギャップはオレのせいであるからしょうがない。
水に浸かったあとはなぜか麺類が食べたくなる。それはまずくても良い。冷蔵庫に野菜がのこっていたので冷やし中華というかサラダ麺として食す。海水を少なからず飲んだので塩分がしつこく感じる。
小学校のプールの授業のあとって眠くなるよね、という話を持ち出したいのはきっとあや。オレも共感するものだからつけ込んできた。寝てはいけない。映画をみる。パッケージに惹かれて「怪談」を見る。十二歳のころに見たことはあるような気がする記憶はさだかではない。四本のオムニバス作品だが時間はたっぷり三時間映画。(そもそも有名な怪談ではあるが)ストーリーは怪談の「型」を守る。音響によるどっきりポイントもない。じっくりと丁寧に怪談を描写する。展開もゆっくりとゆっくりと味わうように進む。昔、物事には味わうべき「間」というものがあった。この映画が公開された当時の人間と時間の関係を少しだけ想像できた。人間と時間の関係というテーマをもらったような気もする。雪女って身勝手で好きだなあと思いながら寝落ちする。
一九時前。目が覚める。夕食を食べなくては。ハイパーマートにでかける。おつとめ品チャンス。道行きの途中、雪女の目的はなんだったんだろうと今更ながら考える。むしろどういう信頼関係のもとに性的な関係になりえたのだろうか。雪女は妖怪ではなくて人間なのではないのか? お惣菜、お弁当コーナーで半額のお弁当でもかって帰ろうとしたが、お弁当コーナーでお兄さんがお財布の小銭を真剣に数えながらカゴにはいっている商品と検算をしている。だめだ、オレには彼がこのお弁当を買えるか買えないかの瀬戸際というところで半額の親子丼を横からかっさらっていくことはできない。おにいさん、そのお弁当おいしいから買っていくとええんやで。ホワイトロリータルマンドなどを物色したあとにお弁当コーナーにもどると親子丼弁当はなくなっていたので安心する。きちんと買えたんやね。ちょっとだけ嬉しくなって半額のポテサラを買う。ポテサラはいつも贅沢品である。
家にかえっていなり寿司とポテサラでお酒を飲む。適当に執筆をする。この日記を公開してはずかしくないとしたらどうかしている。あやは黒歴史になるから、そのうち死にたくなると言う。彼女はオレが本当に死にそうになると手助けしてくれる。でも本当に最後のそのときはほくそ笑んでいるのかと思うと、愛らしくて仕方ない。