kowさんは天ざる大好き

創作に絶望すると、世界が反転した日記

6月13日(土)

夜中も強風がずっと吹いていて何度か目が覚めた。前日は休肝日としたので頭は石ころ程度の重さ。身体は付箋みたいに布団に張り付いていたが、少し気合いをいれれば引きはがせる。起きしな風呂に入る。ストレッチをするが身体がガチガチ。風呂上がりに朝の儀式をすませて菓子パンをもふもふと食べる。

午前は馬カフェタンブルウィードに行く。アイスコーヒーをいただく。馬図鑑をみているだけで楽しい。馬の種類がこんなにあるとはしらなかった。今日はマスターのゴルゴさんもいる。馬マイスターなので質問するととんでもない情報量の回答が返ってくる。ミンキーモモについてちょっとした質問をしたつもりが、いつの間にかDAICON FILMの話になっているオタク感、尊敬である。オレにはそういう深い話がない。話は面白く興味も湧いてくる。ただ目を見ないと失礼かなと思いがんばってゴルゴさんの目をみる。鋭い眼光と意思のこもった瞳、こちらの網膜が焼かれるようなつらさである。視点をぼかしたり周りをみわたしたり視線防御ばかりが気になって後半が頭に入ってこない。綺麗な目をした人は好きだけど、オレをみるのは止めて欲しい。帰りにキモサベに持参したにんじんのおやつをあげる。はじめて厩舎にお邪魔する。二十頭あたりの馬がいっせいにこちらを向く。なんだろう、この感じ。大勢の人にじっと見つめられるという悪夢を見ることがあるが、それとはちょっと違う。草食獣特有の警戒感と同時に、はやり馬カフェとして人と接し続けてきたことによる個人への興味。オレが見知らぬ馬に驚き、希望を感じているように馬たちも同様の気持ちでオレを見ている……という投射か。オレがにんじんをもっていることがばれると、くれろ、くれろとまだ名前もしらない馬が顔を押しつけてくる。かわいい。厩舎で最年長のリーダー馬さんにいったんあいさつしてにんじんをちょこっと上げる。がぶがぶ。リーダー馬さんは馬車馬として地域でも活躍しているらしく見た目も重量級である。首を愛撫してあげるけどにんじん食べたくて鼻面でにんじんをねだられる。すごいパワーである。かわいい。そしてキモサベにもあげる。今日は仕事もしてないのにおやつが食べられるとあって興奮気味である。話しかけたり撫でたりしてみるが、にんじんのことしか気にしていない。いやしんぼである。かわいい。そんなことをしていると、くれくれと別のうまが背中をどんと押してきたりする。ぐっと押されると馬のパワーがすごいと感じる。馬力というよりはトルクの太さ、そこにオレはキュンとしてしまう。この馬キャバ、散財する未来しかみえない。にんじんをあげられなかった他の馬に悪いことをしてまったような罪悪感。キモサベにあいさつをして厩舎をあとにする。

家に帰るとぐったり。ゾンビ・ホロコースト をのんびりみる。ホラー映画は作業がてらにみるぐらいがちょうどいいものが多い。これもまさにそういう映画としてちょうどいい。動画以外の時間の潰し方も見つけておかないとなあ。マンガでもよんでみよう。ペダルを回せていないしモチベーションのでるマンガなにかないかなあと検索する。ろんぐらいだぁすを読んでみようと思ったが最新刊まで追うのはちょっとボリュームが多い。マンガを読むという習慣はもう何年もやっていない。いま性に合うかどうかもわからないので、小さく始めたい。のんびりできそうな同人マンガの ぴよぴよ貧脚夫婦: 自転車マンガ を読む。のんびりしたいに合いそうな表紙絵にヒットした。ゆるい画がかわいいのとオレもおにぎりが好き。精神年齢7歳女児がうまそうに何か食べる自転車マンガ。グループライドの良さがシンプルに伝わってくる。相互作用のマンガ表現が心地よい。とりあえず2巻まで読み、続きは暇ができたら読む。そういえば、村上春樹の小説って僕の印象が強すぎてキャラクターの相互作用のイメージないなあ、などとぼんやり思う。

夜になりごはんを用意する。惣菜ものはなにもない。納豆があったのでごはんを炊き、ほかほかご飯で納豆たまごかけご飯をいただく。炊きたての納豆ご飯はうまい。

身体が重い。気力もない。胃も重い。前日に眠りすぎた影響もあるのだろうか。ただ、あやが一定の波にのって取り憑いてきているだけなのだろうか。普段はほとんど見ない Twitter をえんえんと更新しながらぼんやり眺める。いいねやリツイートの数が桁数もわからないぐらいについているツイートがばらばらに降り注ぐ。身が引き裂かれるような情報の重さとその量の少なさ。隻眼になったみたいに世界が平面に見える。距離感がない。この世界をどうやって歩けばいいのか。怖くてもう歩けない。恐怖を紛らわすために安いワインを飲む。

オレはもう十四歳になり古くなってしまった。オレが情報を処理する仕組みは一九八〇年代にIBMが売り出したメインフレームのサポート切れメンテナンス品だし、そのソフトウェアもCOBOLで書かれていて誰も保守できるようなものではない。処理速度やアウトプット量の問題はあるが、近代的かつ典型的な処理はできていると思っていた。入力情報さえ間違わなければそこそこアベレージな理解ができる。均等に垂直方向への理解は生きやすさを提供してくれていた。現代ではその処理はあまり生きやすさに関係しない。情報のインプット量の間口の広さこそが大事であり、そしてその情報の多数決的優先度とそれに対するレスポンス内容、レスポンス速度だけが重視される。泡沫のような情報を愚直にバブルソートできる装置を個人がもっていれば十分に生きやすい世の中にみえる。情報量、拡散速度の向上はすべてを幻想にしてしまった。どうでもいいものでも大きく見せられるし、本当に大事なモノを小さくみせられる。どんなことでもグローバルな問題にできる。これが良いことなのか悪いことなのか、それを判断するのは後のこと。ただ個人的に根拠もなく思うのは、これを良しとするのであれば物理世界とその中における身体性の限界が問題になるだろう。簡単に言えばマトリックス世界こそが理想郷。正直、妥協してしまえば今より悪くないとオレは思ってしまう。オレが一人で頑張って世界を置換しながら生きやすくしていることをみんなの総意でやってくれるのだから。書いていても思うが、どっかに嘘が紛れ込んでいるようだ。想像したら死にたくなった。

Twitter は見るものじゃないな。薬を飲んで寝る。