kowさんは天ざる大好き

創作に絶望すると、世界が反転した日記

7月11日(土)

酒を飲んだが、抜けきっていない。今日、はヤマシタさんとのオンライン飲み会があるので食糧の調達が必要。日本酒とお魚を用意したい。なんとか起き上がる。
早いうちに交易市場へといってめぼしい鮮魚を物色する。良いお魚はすぐに売れてしまう。今日はハクセイハギが入っている。値段もお手頃なので購入。日本酒は鯉川を購入する。
家にかえって一旦風呂にはいる。風呂上がりのホームランバー。贅沢。まだねむい。布団に横になるとそのまま寝てしまう。
起きると十七時。すっかり寝てしまった。ハクセイハギを捌く。一時間ほど格闘してなんとか三枚におろし刺身に。肝も確保できた。これはたのしみ。
十九時からはヤマシタさんとオンライン飲み会。ヤマシタさんにとってはシリーズ初監督作品のポケモンが落ち着いたという話で飲み会になった。久しぶりのヤマシタさんは元気そう。お互い酒の肴を持ち寄り飲み会を開始する。オレはウマヅラハギの肝と刺身、ヤマシタさんは自家製ポテサラ、味付け卵、いぶりがっこカラスミ、貝の壺煮、ぬか漬け、鶏もも肉のハーブ燻製。ぎゃー、その肴よこせよ。ぐががが。自慢だろ、自慢のために飲み会開催してるだろ。ぐぬぬ。まずは十四歳の近辺の勇士として、あいさつがてたら健康の話題から。腰がいたい、頭がいたい、目がかすむ、耳が多くなる。足腰がたたない、勃起力低下、話は尽きない……。カチカチにならない問題はかなり根深い。カチカチとはなにか定量的な数値ではない。オレはエクリプスでちょっと気になっていた、協働、分業について聞いてみる。作画、動画を修正されることに対する気持ちはどうなのか? アニメの納期やその人のスキル、志向性によるところはある。でも今回は自分で直すことが多いとのこと。アニメの監督はとはプロジェクトリーダー剣プロジェクトマネージャーだと思っていた。でも実際にその厳しい期限、コミュニケーション環境のなかでできるのはリーダーであり、マネージャーであり、プレイヤーである。アニメ業界においては監督とはスタメン、オレ、ということなのだとしる。コンテ時点の理想型と作画、動画の差異があまりに大きすぎる。アジャイル開発をしているオレにすれば当然のことである。モノは動いてみなければ分からない。システムしかり、アニメもしかり。
ヤマシタさんがノベルゲームの進捗はどうですか、と質問される。ノベルゲームを作り終わったオレが、次にいけるのかどうか見ていてと気を持たせる。エクリプスはノベルゲームについてメンバーそれぞれ深い思い入れがある中で作っている。オレ個人の話に限定すれば、終わったしまったものを再度発明するしかない。この発明を拒む世界でオレは発明しなくてはいけない。灰色でくすんでいて心地よい世界。抗わず死んでいれば何も起こらない。ヤマシタさんもノベルゲーム世代なのでノベルゲームの形式ってひどい形式ですよね、という。オレもまったくそのとおりだと言う。だからそれが良い。能動的なプレイヤーにってすべてが制御される表現力が低く未熟なノベルゲーム世界は全能感のない縮こまったプレイヤーたちの制約を解き放ち私的に自由な世界を解放する。その私的に自由な世界はノベルゲームでしか味わえない醍醐味であるなどと本当のことような嘘のようなことを言い交わす。オレは酒が回って楽しくなる。表現者たちは描けば描くほどにその自由を制限し、プレイヤーの受容の幅を狭めてしまうジレンマに苦悩している。だから未確定の表現をあえて残すことで、受容の幅をあえて残す。だれでも消費できるが必須であり、特定の人が受容できるとはなかなか相容れないらしい。その苦労をしているヤマシタさんを知って大人になったとも思うし、同時によくそこにフォーカスできるようになったなとおもう。長年突き詰めていかないとできることではない。アニメで作家性を出すにはまずそれが最低ライン、プロモーション的に成功しないことには作品を作る機会すらない、それができた上でやっと作家性を出せる。宮崎駿、押井、細田、新海……そういえば天気の子みた? 見てない。オレも。
話は創作論に進む。メタの話。身体を持った声の問題から。キャラクターに声をあててもしっくりこない問題。ノベルゲーム世代にとっては実感ある。ヤマシタさんも監督として決めたのになあ、ということがあるとのこと。これはアクターの問題ではなく作り上げた世界の整合性の問題のようだ。事前にその世界で声が当てられているから、その代役は誰にも務まらないという理想の話に聞こえる。だから、世界たちがあつまる平均的な世界の中心で声をあてるアクターを選定するしかない、ということに聞こえた。すごい贅沢な経験できているヤマシタさんに嫉妬するが、逆にその仕事はきつすぎてしたくない。
監督業ってあまり楽しそう見えない。プジェクトマネージャーが楽しくなさそうなのに似ている。だけど、一番楽しいという答えが返ってくる。アニメーターといえば原画、演出、脚本が職業的に楽しそうに思えてしまう。絵コンテ描き終わったら監督ってスポンサーとプロデューサーからの要求と現場のリソース管理と最終品質管理しかできなそうでめんどくさそう。でもそういった上に対するプレゼンも経験として学ぶことが多いとのこと。すべては、自分のオリジナル企画やるための糧になる。未来がある人は目が輝いている。オレには見ていられない。上がってきたカットは七割がた自分で手直ししているとのこと。属人性の塊みたいなってきたが、一方で時間制約のあるプロダクトにおいて品質をあげるために自分のリソースを使うという選択ができるのはやはり熱意を感じる。
シリーズ初監督のオファーがなぜきたのかという話になると、ヤマシタさん自身は首をひねる。まあ過去の実績が評価してもらったからではという。デジタル作画したことしかない、デジタルネイティブアニメーターとしての実績があり、それが新型コロナウイルスによってニーズが高まったのではなかという話になる。作画は未だに九割がアナログで、それをスキャンして彩色、撮影しているので新型コロナウイルスによってアニメは大変とのこと。業界全体がデジタル化にシフトするためにヤマシタさんをベンチマークにしてるんじゃね? というかってな想像をしてみる。そんなら一作品の監督というよりもっと大きな意味があるじゃん、ワハハ、などどありそうでないさそうは話をする。
酒を飲みながらだらだらと話を続ける。ディスプレイから一歩ひけば陰湿な我文町の世界が広がっていて、周囲は何もない。ディスプレイのなかではヤマシタさんのお子のイーサンがワクワクしている。かわいい。アニメとヤマシタさん、そこにお子と奥様。世界が歪んでいる。隔絶した世界のはずなのにオレとヤマシタさんは会話できている。世界がぐちゃぐちゃになる。オレは理由も分からずに悲しい気持ちになる。オレは地球の自転から取り残されている。嫉妬や妬みの多い人生だった。いつもいつもオレなんかどうせ、といって、誰とも戦ってこなかった。自分で無敗のまま文句をいうなら責任は全てオレのものだ。
心地よい自己否定感に包まれる。この否定感の反転こそが、いまここにいる理由。水面下で呼吸をしたくてもがいている。水面に浮上して文句の一つでも言ってやろうとおもう。でもできずに、また水面感に沈んでいく。それの繰り返し。文句をいってやろうと思わなくなれば溺死する。いや、溺死を待っている。水面上は徐々に意味の灰にされつつある。

今日はおいしいお酒が飲めた。誰かと飲むというのはやはり楽しい。薬を飲んで寝る。